春 元和の良吏を顕彰
- 正月、宣宗が元和年間の循吏で誰が第一かと宰相に問うと、周墀は、江西で聞いた韋丹の徳が四十年たっても八州の老幼に歌われていると答えた。
- 乙亥、史館修撰杜牧に韋丹の遺愛碑を撰させ、その子の韋宙を御史に抜擢した。
吐蕃内乱と河隴回復の進展
- 二月、吐蕃の論恐熱は河州に、尚婢婢は河源軍に布陣した。諸将は尚婢婢に攻撃を勧めたが、彼は、こちらは勝ちに乗じて軽敵し、相手は窮して死戦するから不利だと止めた。
- 諸将は聞かずに出撃して敗れた。尚婢婢はあらかじめ河橋を押さえて待機していたため、敗兵を収容し、橋を焼いて追撃を防ぎ、鄯州へ退いた。兵法に長じた判断だったことが分かる。
- 吐蕃領の秦・原・安楽三州および石門ほか七関が唐へ降った。
- 太僕卿陸耽を宣諭使とし、涇原・霊武・鳳翔・邠寧・振武の諸道に出兵して接収・援助させた。
周墀の失脚と張仲武の死
- 河東節度使王宰は入朝して賄賂を用い、使相として宣武を領したいと求めた。刑部尚書・同平章事の周墀はこれに反対して上疏した。
- 駙馬都尉韋譲が京兆尹を求めたときも、周墀は才望ある者でなければならないとして拒んだ。
- 周墀はさらに開辺策にも異を唱えたため、宣宗の意に逆らった。夏四月、東川節度使へ出され、崔鉉と魏扶が宰相となった。
- 癸巳、盧龍から張仲武死去の報があり、軍中はその子で節度押牙の張直方を立てた。
- 翰林学士鄭顥が、周墀は直言ゆえに宰相となり、また直言ゆえに去ったのだと宣宗に述べると、宣宗は深く感じ入り、甲午、暇乞いに来た周墀へ検校右僕射を加えた。
- 戊戌、張直方を盧龍留後とした。
徐州の乱と西北回復
- 五月、徐州軍が乱を起こして節度使李廓を追放した。李廓は政務を治められなかった。
- 右補闕鄭魯は以前から、李廓の失政を指摘し、新麦が実る前に必ず徐州が乱れるから、早く良帥を送るべきだと述べていた。宣宗はこれを軽視したが、果たして乱が起こったため、鄭魯を起居舍人に抜擢した。
- 義成節度使盧弘止を武寧節度使とした。武寧兵はもとより驕慢で、銀刀都がたびたび主帥を追っていたが、盧弘止は到着早々、再び乱を企てた都虞候胡慶方を誅し、残る者を忠義で教化して軍府を安定させた。
- 六月戊申、張直方を正式に盧龍節度使とした。
- 涇原節度使康季栄は原州と石門・駅蔵・木峡・制勝・六盤・石峡の六関を回復した。
- 秋七月丁巳、霊武節度使朱叔明は安楽州を回復した。
- 甲子、邠寧節度使張君緒は蕭関を回復した。
- 甲戌、鳳翔節度使李玭は秦州を回復した。朝廷は邠寧節度使の軍府を仮に寧州へ移して河西に応接させた。
八月 河隴の民が長安へ
- 八月乙酉、安楽州を威州と改めた。
- 河隴の老幼千余人が長安へ来朝すると、己丑、宣宗は延喜門楼に出てこれを見た。人々は歓呼し、胡服を脱いで冠帯をまとい、見物人も万歳を叫んだ。
- 宣宗は、三州七関を開墾する者には五年間租税を免じ、今後の京城流罪人は原則としてそこへ配流し、辺地の屯営開発には牛や種糧を官給し、温池の塩利も辺費に充てるよう命じた。
- さらに、三州七関の鎮戍兵には衣糧を倍給し、二年ごとに交替させ、堡柵や道路も整え、商旅や家信の往来を妨げぬよう命じた。
- 山南・剣南で吐蕃に奪われた州県についても、力に応じて回復を試みるよう命じた。
年末 維州回復と李徳裕の死
- 十月、備辺庫を延資庫と改称した。
- 西川節度使杜悰は維州を回復した。
- 閏十一月丁酉、宰相が河湟回復を祝して尊号を請うたが、宣宗は、これは憲宗の果たせなかった志を継いで成し遂げたものだとして、自身ではなく順宗・憲宗両廟の尊諡を増すよう命じた。
- 盧龍節度使張直方は残虐で遊猟を好み、軍中で反乱の兆しがあると知ると、狩猟を口実に一族を連れて京師へ逃げた。軍中は牙将周綝を留後に推した。
- 直方は京師で金吾大将軍となった。
- 甲戌、順宗に「至徳弘道大聖大安孝皇帝」、憲宗に「昭文章武大聖至神孝皇帝」の諡を追加し、神主の題も改めた。
- 己未、崖州司戸の李徳裕が死んだ。
- 山南西道節度使鄭涯は扶州を回復した。