正月から春 尊号追加と李徳裕関係者の処分
- 正月甲子、群臣は宣宗に「聖敬文思和武光孝皇帝」の尊号を上り、天下に大赦した。
- かつて李徳裕政権時に、清直で諫官向きと推された丁柔立は用いられなかったが、宣宗即位後に右補闕となり、李徳裕が潮州へ貶された際、その冤を訴えた。丙寅、李徳裕への阿附として南陽尉に左遷された。
- 西川節度使李回と桂管観察使鄭亜は、以前に呉湘の冤を正さなかった責任で処分され、乙酉、李回は湖南観察使へ、鄭亜は循州刺史へ落とされた。
- すでに死んでいた李紳は、三任分の告身を追奪された。
- 中書舎人崔嘏も、かつて李徳裕を罪する制書の草案で罪状を書き尽くさなかったとして、己丑に端州刺史へ左遷された。
回鶻の最終的崩壊
- 回鶻の遏捻可汗は、奚王石舍朗に頼って食を得ていたが、前年張仲武が奚を破って以後、食糧源を失って急速に衰えた。
- この時点で貴人以下あわせても五百人に満たず、室韋に寄寓していた。
- 正月の賀使として唐へ向かう回鶻使が幽州を通ると、張仲武は帰途に遏捻らを連れて来るよう命じた。遏捻はこれを聞いて、夜のうちに妻や葛禄子特勒毒斯ら九騎とともに西へ逃れた。
- 残された民衆は追いつけず、室韋は彼らを七姓で分配した。
- 二日後、黠戛斯の宰相阿播が「七万」を号する諸胡兵で来襲し、室韋を大破して回鶻の残党をみな磧北へ連れ去った。
- なお、山林に潜んで諸胡を掠める数帳の残党や、安西にいた別部の厖勒が甘州で可汗を称して磧西諸城をまとめる動きは残ったが、勢力は微弱で、のち五代期に朝貢に来る回鶻はこの系統である。
宣宗の政治姿勢
- 二月庚子、令狐綯を翰林学士とした。
- 宣宗は太宗撰の『金鏡』を令狐綯に読ませ、「乱世で不肖を任じなかったことはなく、治世で忠賢を任じなかったことはない」というところで読みを止め、「太平を致すにはまずこの言から始めよ」と言った。
- また『貞観政要』を屏風に書かせ、姿勢を正してしばしば読んだ。
- 宣宗が百官の姓名と定員を知りたいと言うと、令狐綯は、六品以下は多くて吏部に任せるが、五品以上は中書門下の制授で、名簿を「具員」と呼ぶと説明した。そこで宰相に『具員御覧』五巻を作らせ、常に机上へ置いた。
- 皇子沢を濮王に立てた。
- さらに、幼い皇子たちを置く五王院を大明宮に造ろうとして柴岳明に地相を見させたが、岳明は、陰陽家の説は臣庶の家に当てはまるもので、帝王の法宮にそんな禁忌はないと答えた。宣宗はこの答えを喜び、束帛を賜って帰した。
夏 宰相の交替と郭太后の死
- 五月己未朔、日食があった。
- 崔元式は罷められて戸部尚書となり、周墀・馬植がともに宰相となった。
- 周墀はかつて義成節度使のとき韋澳を判官に用い、宰相就任後に助言を求めたところ、韋澳は「権を用いないことです」と答えた。官賞刑罰を天下とともに議し、私情を挟まなければ、天下は自ずから治まるという意味で、周墀は深く納得した。
- 己卯、太皇太后郭氏が興慶宮で崩じた。
- 郭太后は、憲宗の崩御に関与した疑いを宣宗が抱いていたうえ、鄭太后との旧怨もあり、即位後の待遇は薄かった。郭太后は不満を募らせ、勤政楼に登って身を投げようとしたともいう。宣宗はこれを知って怒り、その夜に崩じたため、外には異論があった。
- 宣宗は郭太后を景陵外園に葬ろうとしたが、礼院検討官王皥は、正嫡の礼に従い、景陵へ合葬して憲宗廟室に配すべきだと上奏した。
- 白敏中が王皥を詰問すると、王皥は、郭太后は郭子儀の孫であり、順宗に事え、五朝を経た母天下の人であるから、曖昧な疑いで正嫡の礼を廃すべきではないと、ますます激しく論じた。
- 周墀はこれを聞いて王皥の孤直を称えたが、翌日、王皥は句容令へ左遷された。
秋 李徳裕、さらに南へ
- 九月甲子、李徳裕は再び左遷され、崖州司戸となった。李回も賀州刺史に落ちた。
- 前鳳翔節度使石雄は、黒山・烏嶺での功を自ら政事堂で誇り、一鎮を与えて余生を終えさせてほしいと願ったが、執政は彼が李徳裕に推薦された人物だとして、すでに蒲州・孟州・岐州などで十分報いたと言い、左龍武統軍に任じるにとどめた。石雄は不満のまま死んだ。
- 十一月庚午、万寿公主を起居郎鄭顥に降嫁させた。宣宗は公主車に旧制の銀装を許さず、外命婦同様に銅装とし、自ら倹約の模範を示そうとした。
- さらに公主へは、夫家を軽んじず、時事に干渉せぬよう手詔で戒め、「もし戒めに背けば、太平公主や安楽公主の禍がある」とまで言い含めた。
- 鄭顥の弟が病んだとき、公主が見舞いにも行かず慈恩寺で見世物を見ていたことを知ると、宣宗は強く怒り、「士大夫が皇族との婚姻を嫌うのももっともだ」と言い、ただちに召し返して叱責し、鄭氏へ返した。以後、貴戚はみな礼法を慎むようになった。
- 壬午、郭太后は景陵の側に葬られた。
年末 西北の戦況
- 韋琮は太子賓客分司となった。
- 十二月、鳳翔節度使崔珙が吐蕃を破り、清水を回復した。ひとまず鳳翔に隷属させることとした。
- 宣宗は憲宗朝の公卿の子孫を多く登用した。杜勝が対策で父杜黄裳の功を述べると即座に用い、翰林学士裴諗は裴度の子であることから、翰林で直々に承旨に抜擢された。
- 吐蕃の論恐熱は将の莽羅急蔵に二万を与えて西辺を略奪させたが、尚婢婢の将・拓抜懐光が南谷で大破し、急蔵は降伏した。