資治通鑑唐紀六十四 宣宗 大中元年 847年

正月から春 改元と旱魃対策

  • 春正月甲寅、宣宗は円丘を祀り、天下に大赦し、元号を大中と改めた。
  • 二月、張仲武に同平章事を加えた。回鶻撃破の功に報いたものである。
  • 癸未、旱魃を理由に、宣宗は食事を減らし、音楽を止め、宮女を放ち、鷹隼を手放し、営繕を止めた。
  • 盧商と御史中丞封敖に、京城の拘囚を検討させた。大理卿馬植は、極刑相当者まで一律に免死していては、贓罪や故意の殺人に対する抑止が失われ、死者も無念であり、旱災を和らげる道ではないと反論した。
  • 両省五品以上に再議させた結果、張鷺らが、こうした時に厳刑を緩めると凶悪な者が水旱を期待するようになると上奏し、馬植の意見が採用された。
  • 馬植は刑部侍郎・塩鉄転運使に抜擢された。

李徳裕排撃の進展

  • 白敏中はもともと李徳裕に引き立てられて翰林学士となったが、武宗崩後は宣宗の怒りに乗じて李徳裕排撃に力を尽くした。
  • 李咸らに李徳裕の罪を訴えさせ、李徳裕は東都留守から太子少保分司に落とされた。
  • 盧商は武昌節度使に出され、崔元式と韋琮が宰相となった。
  • 閏月には、会昌五年に廃された寺院でも、僧が自力で修復できるなら住んでよいとする詔が出た。朝廷も宰相も会昌年間の政策を反転させようとしており、僧尼の弊は再び旧態に戻っていった。

夏から秋 周辺情勢と令狐綯の登用

  • 五月、幽州の張仲武が諸奚を大破した。
  • 吐蕃の論恐熱は、武宗の国喪に乗じて党項や回鶻残党を誘い、河西へ侵入した。河東節度使王宰が代北諸軍を率いて討ち、沙陀の朱邪赤心を先鋒として麟州から河を渡り、塩州で破った。
  • 六月、李業を黠戛斯可汗への冊命使とした。
  • 宣宗は、かつて憲宗の喪の途中で風雨に遭ったとき、百官や六宮が散る中でただ一人霊駕に取りすがった長髯の人物は誰だったかと白敏中に尋ねた。白敏中が令狐楚だと答えると、その子について問うた。次子の令狐綯に才器ありと聞いて、すぐ考功郎中・知制誥に抜擢した。
  • 令狐綯は元和年間の故事に通じており、宣宗の問いに詳しく答えたため、大いに気に入られた。

秋から冬 諸事整備

  • 八月丙申、李回を西川節度使に出した。
  • 貞献皇后を光陵の側に葬った。
  • 宣宗は兄弟に厚く、十六宅に雍和殿を建て、たびたび赴いて酒宴・音楽・毬戯を楽しみ、諸王の病には自ら寝所へ入って見舞った。
  • 振武節度使史憲忠は、突厥の余衆が漕米や商人を掠めたのを撃破した。
  • 九月丁卯、太后の弟である鄭光を平盧節度使とした。
  • 乙酉、前永寧尉の呉汝納が、弟呉湘の罪は死に当たらず、李紳と李徳裕が武宗を欺いて冤殺したと訴え、崔元藻らとの対質を求めた。丁亥、御史台に真相究明が命じられた。
  • 冬十二月、御史台は崔元藻の供述をもとに、呉湘に冤のあったことを奏上した。戊午、李徳裕は潮州司馬へ落とされた。
  • なお吏部は、会昌四年に削減した州県官のうち三百八十三員を再増置すると奏した。