資治通鑑唐紀 武宗至道昭肅孝皇帝 會昌二年 722年

張仲武・李紳・劉沔の人事

  • 春正月、張仲武が正式に盧龍節度使となった。
  • 朝廷は、回鶻が天徳・振武の北方に居座る情勢に対処するため、兵部郎中の李拭を巡辺使として派遣し、将帥の能力を査察させた。李拭は李鄘の子である。
  • 二月、淮南節度使の李紳が入朝し、丁丑に中書侍郎同平章事・判度支となった。
  • 河東節度使の苻澈は、回鶻に備えて杷頭烽と旧来の戍を修築した。李徳裕は、さらに兵を増して東・中二受降城も修理し、天徳の形勢を強化するよう求め、認められた。

柳公権左遷

  • 右散騎常侍の柳公権はもともと李徳裕と親しかったが、崔珙が彼を集賢学士判院事に推挙すると、李徳裕は恩が自分から出なかったのを嫌い、別件に託して太子詹事へ左遷した。朋党色を帯びた人事であった。

回鶻への対応継続

  • 回鶻は再び糧食を求め、吐谷渾・党項に掠め取られた財物の捜索や、振武城の貸与も求めた。
  • 朝廷は内使の楊観を遣わし、城は貸せないが他の件は相談して処置すると伝えた。
  • 三月、李拭が巡辺から帰り、振武節度使の劉沔には威望と策略があり大事を任せられると報告した。
  • 河東節度使苻澈が病んだため、庚申、劉沔を河東節度使に移し、金吾上将軍の李忠順を振武節度使とした。
  • また、苗縝を将作少監として烏介可汗冊命の使者に立て、河東に留め置いて、可汗の地位が安定したのを見て進ませる予定とした。しかし可汗はたびたび辺境を侵し、苗縝は結局進めなかった。

嗢没斯と赤心の対立

  • 回鶻の嗢没斯は、赤心が狡猾で御し難いと見て、先に田牟へ密告したうえで赤心と僕固を誘い出して殺した。
  • 那頡啜は赤心の部衆七千帳を収め、東へ去った。
  • その頃、河東からは回鶻兵が横水に現れて兵民を殺掠し、釈迦泊東へ退いたとの報が届いた。李徳裕は、これが那頡啜の兵か可汗の差し向けた兵かを見極める必要があるとしつつ、まずこの一支を討ち崩せば可汗も恐れるだろうと進言した。

田牟の出戦と石雄起用

  • 夏四月庚辰、天徳都防禦使の田牟は、回鶻の侵擾がやまないため、朝命を待たず三千兵を率いて迎撃に出た。
  • 壬午、李徳裕は、夷狄は野戦に長け攻城に短いのだから、田牟は固守して諸道の兵が集まるのを待つべきで、全軍出撃は危険だと奏した。もしすでに交戦中なら、雲・朔・天徳周辺の羌渾諸部にも兵を出させ、奮撃させるべきだとした。
  • また、飢えと離散で心の動きやすい回鶻には、降る者を招いて糧を与え、天徳には置かず太原へ送るよう提案した。
  • 嗢没斯の真意はまだ断定できないが、早めに官賞を与えれば、たとえ誠実でなくとも可汗への離間策となり、唐が回鶻全体を滅ぼすつもりではなく、可汗の不順のみを責めるのだと諸蕃に示せると論じた。
  • さらに石雄を天徳都団練副使として田牟を補佐させるよう薦め、武宗はこれに従った。石雄はもと白州から召し戻され、振武軍の裨将として戦功を重ねていたが、王智興との関係から出世が抑えられていた人物である。

嗢没斯の降伏と仇士良の挫折

  • 甲申、嗢没斯は自国の特勒・宰相ら二千二百余人を率いて来降した。
  • ちょうど武宗が尊号を受けて丹鳳楼で赦を宣す予定の頃、仇士良は「宰相と度支が禁軍の衣糧や馬の飼料を減らす赦文を起草している」と流言し、軍士を楼前で騒がせようとした。
  • 李徳裕はこれを聞いて延英殿で自ら弁明を求め、武宗も怒って中使を両軍へ送り、赦書にそのような文はなく、赦文はすべて自分の意思によるもので宰相の勝手ではないと明言した。仇士良は恐縮して謝罪した。
  • 丁亥、群臣は武宗に「仁聖文武至神大孝皇帝」の尊号を奉り、天下に赦を行った。

帰義軍設置

  • 五月戊申、張賈が嗢没斯らの安撫に派遣され、嗢没斯は左金吾大将軍・懐化郡王に封じられた。部下の酋長らにも官賞が与えられ、米五千斛・絹三千匹が支給された。
  • 六月甲申、嗢没斯の部衆は帰義軍とされ、嗢没斯がその軍使となった。

那頡啜敗死と回鶻勢力の一段の衰退

  • 那頡啜は、その部衆を率いて振武・大同から東へ進み、室韋・黒沙を経て雄武軍方面に向かい、幽州をうかがった。
  • 盧龍節度使張仲武は弟の張仲至に三万兵を授けて迎え撃たせ、大破して多くを斬首・捕虜とした。七千帳を余さず収めて諸道へ分配し、那頡啜は烏介可汗のもとへ逃げたが、可汗に殺された。
  • なお烏介可汗は勢力が衰えたとはいえ、なお十万を号し、大同軍北の閭門山に牙を置いた。

烏介との往復と嗢没斯入朝

  • 楊観が回鶻から帰ると、烏介可汗は糧食や牛羊を求め、さらに嗢没斯らを捕えて送るよう要求した。
  • 朝廷は、糧食は馬の代価で振武にて三千石まで買わせること、牛は農耕の資本であり、羊も中国では乏しく、北辺雑虜から国家が常に徴発しているわけでもないことを理由に、供給を限定した。
  • また嗢没斯は、国が破れた当初から先に塞下へ来ており、可汗には二年も従っていなかったのだから、ただ受け入れた降人であり、これを返せば信義に反すると答えた。むしろ可汗こそ、前可汗のような猜虐によって内離外叛を招かぬよう、身内をいたずらに害するなと諭した。
  • 嗢没斯は入朝し、太原に家族を置いて諸弟とともに辺防に尽くしたいと願ったため、朝廷は劉沔にその家族の扶助を命じた。

宰相更迭

  • 門下侍郎同平章事の陳夷行は罷免され、左僕射となった。
  • 七月、尚書右丞の李譲夷が中書侍郎同平章事に任じられた。

嵐州の乱

  • 嵐州人の田満川が州城を占拠して反乱を起こしたが、劉沔が討って誅した。

烏介の南下と北辺危機

  • 烏介可汗は重ねて兵を借りて復国に助力すること、さらに天徳城を借りることを求めたが、朝廷は許さなかった。
  • 可汗は天徳・振武の間を往来しつつ羌渾を掠め、杷頭烽北に屯した。朝廷は再三、漠南へ帰るよう説いたが従わなかった。
  • 李徳裕は、那頡啜が北方に残っていたため、烏介は奚・契丹と那頡啜が結んで退路を断つのを恐れ、塞下を離れられないのだと見ていた。そこで張仲武に奚・契丹へ働きかけ、那頡啜をともに滅ぼさせようとした。那頡啜が死んだ後も可汗は去らなかった。馬価を待っているという説も出て、朝廷はその支払いも済ませたが、なお留まった。
  • 八月、可汗はついに杷頭烽を越えて南下し、大同川に突入して河東の雑虜の牛馬数万を奪い、転戦して雲州城門にまで迫った。刺史張献節は城を閉じて守り、吐谷渾・党項は家族を連れて山中へ避難した。
  • 庚午、朝廷は陳許・徐汝・襄陽などの兵を太原・振武・天徳に集め、翌春に回鶻を駆逐する備えを命じた。

李姓下賜と対回鶻書簡

  • 丁丑、嗢没斯とその弟阿歴支・習勿啜・烏羅思には李姓が与えられ、それぞれ思忠・思貞・思義・思礼と名づけられた。国相愛邪勿も愛弘順と名づけられ、帰義軍副使となった。
  • 武宗は回鶻の石誡直を本国へ返し、烏介可汗に書を送って、唐はこれまで十分に撫納してきたのに、なお近塞に居座り、雲朔を侵し羌渾を掠めているのは不当であり、姻戚関係に甘えて深入りしているように見える、速やかに良図を選ばなければ後悔すると警告した。
  • また李徳裕に命じて、回鶻相頡干迦斯への返書も作らせた。そこでは、遠来の依投者である以上、呼韓邪のように子を入侍させ、自ら入朝し、太和公主も太皇太后に拝謁して哀願すべきなのに、むしろ辺城を睥睨し、驕っていると非難した。回鶻は黠戛斯に破られてもそこへ怒りを向けず、中華にだけ暴を逞しくしているとし、郅支単于滅亡の前例を思うべきだと厳しく戒めた。

回鶻討伐方針をめぐる最終調整

  • 戊子、李徳裕らは、もし春まで待って駆逐するなら、その間に回鶻は窮乏し、官軍は厳寒を避けられるので、幽州兵はいったん本道で待機させるのがよいと述べた。
  • ただし、河が凍る前に回鶻が再び突進するのを恐れるなら、二、三か月以内に決戦の方針を決めるべきであり、浮説に惑わされてはならないとして、公卿会議を求めた。詔はこれに従った。
  • 時議の多くは来春まで待つべきだとしたため、九月、劉沔を招撫回鶻使、張仲武を東面招撫回鶻使とし、必要ならそれぞれ行営兵を指揮できるようにした。また李思忠を河西党項都将・回鶻西南面招討使として、諸軍を太原に会集させ、劉沔を雁門関に屯させた。

奚・契丹・室韋工作と白居易不採用

  • もともと奚・契丹は回鶻の羈属で、監使により貢賦と唐の情勢報告を督促されていた。張仲武は牙将石公緒に両部を率いさせ、回鶻監使ら八百余人を尽く殺させた。
  • 仲武はまた、那頡啜を破った際に得た室韋酋長の妻子を返す条件として、回鶻監使の殺害を求め、それによって室韋も回鶻から切り離した。
  • 癸卯、河東からの報告では、回鶻はさらに四十里南へ営を移しており、これは契丹が協力しないため不安になったからだろうとされた。李徳裕は、いまこそ幽州と河東で圧迫すべきで、追加兵は多く不要、易定から千人送れば足りるとの見解を皇帝に伝え、認められた。
  • 皇帝は太子少傅の白居易の名声を聞いて宰相にしようかと考えたが、李徳裕は、白居易は老病で朝会に堪えず、その従弟の白敏中なら文才も器量も劣らぬとして推し、甲辰に白敏中は翰林学士に任じられた。

北辺のさらなる備え

  • 李思忠は、契苾・沙陀・吐谷渾の騎兵六千を率いて回鶻に当たりたいと請い、乙巳、何清朝・契苾通が河東の蕃兵を率いて振武へ向かい、その指揮下に入るよう命じられた。
  • 冬十月丁卯、皇子峴が益王、岐が兗王に立てられた。

黠戛斯の使者来朝

  • 黠戛斯の将軍踏布合祖らが天徳軍に来て、先に都呂施合らを派遣して太和公主を唐へ送り返したが、その後消息が絶えたので、到着したのか途中で妨げられたのか分からない、いま自分たちで探し出すつもりだと伝えた。
  • また、自分たちは今後、回鶻旧地である合羅川へ移住し、安西・北庭・蒙古など五部落をすでに手中に収めたと述べた。

劉従諫の出兵願いと太和公主への書

  • 十一月辛卯朔、昭義節度使の劉従諫が、自軍五千を出して回鶻を討ちたいと申し出たが、朝廷は許さなかった。
  • 武宗は太和公主へ冬衣を贈り、李徳裕に書を作らせて送った。文面では、先朝が国家安寧のために公主を降嫁したのに、いま回鶻はその恩を忘れて辺境を侵している、もし回鶻が公主の命にも従わないなら、もはや姑として頼ることはできず、今後はその関係を口実にしてはならないと通告した。

狩猟諫言と賞罰

  • 武宗が涇陽で狩猟を行った際、乙卯、諫議大夫の高少逸と鄭朗が閤中で、近ごろ遊猟が頻繁で、城を出て遠くまで行き、星を犯して夜帰るのは万機をおろそかにするものだと諫めた。
  • 武宗は顔色を改めて謝し、二人が退出した後、宰相に「諫官はこのために置いたのだ。折に触れてこういうことを聞きたい」と語った。宰相たちはこれを賀した。
  • 己未、高少逸は給事中、鄭朗は左諫議大夫に進められた。

年末の軍事と吐蕃内乱

  • 劉沔・張仲武は、厳冬のため今は進兵すべきでなく、新年を待つべきだと主張したが、李忠順だけは李思忠とともに進撃したいと請うた。
  • 十二月丙寅、李徳裕は李思忠を保大柵へ進めるよう求め、認められた。
  • 丁卯、吐蕃は使者の論普熱を遣わして達磨賛普の喪を告げた。朝廷は将作少監の李璟を弔祭使とした。
  • 劉沔は軍を雲州へ移したと奏し、李忠順は回鶻を破ったと奏した。
  • 丙戌、皇子嶧が徳王、嵯が昌王に立てられた。

吐蕃の政変と論恐熱の台頭

  • 吐蕃の達磨賛普には、寵臣の奸佞な宰相がいた。達磨が死んで子がなかったため、その宰相は賛普妃綝氏の兄・尚延力の子である乞離胡を立てたが、わずか三歳にすぎず、妃と奸相が国政を握った。
  • 老臣の首相結都那は、宗族を差し置いて綝氏の子を立てるのでは人も神も服さず、国は滅ぶと怒り、刀で自ら顔を裂いて泣きながら退出した。奸相は彼を殺し、その族を滅ぼした。
  • 唐への冊命要請もなされなかった。
  • 洛門川討撃使の論恐熱は、残忍で策謀に富む人物で、仲間に対し、賊臣が国族を捨てて綝氏を立て、忠良を害した、しかも大唐の冊命もない以上これを賛普とは認められない、自分が義兵を挙げて妃と奸臣を誅し、国を正すと語った。
  • 彼は三部落を説得して一万騎を得、青海節度使とも盟約を結び、国相を自称した。
  • 渭州で国相尚思羅と対峙すると、恐熱は思羅を破って輜重を奪い、思羅は松州へ逃れた。思羅は蘇毗・吐谷渾・羊同など八万の兵を集めて洮水に拠り橋を焼いて防いだが、恐熱は対岸から、賊臣誅伐のために来たのであり、国中の兵権はすでに自分が握った、従わなければ部落を滅ぼすと脅した。
  • 蘇毗らは疑って戦わず降り、思羅はさらに西へ逃れたが追いつかれて殺された。
  • 恐熱はその兵を吸収し、十余万の勢力となって、渭州から松州に至る各地で大殺戮を行い、死体が重なり合うほどの惨状を生んだ。