資治通鑑唐紀 武宗至道昭肅孝皇帝 會昌元年 721年
改元と回鶻新可汗
- 春正月辛巳、武宗は円丘を祭り、天下に大赦して会昌と改元した。
- 劉沔は回鶻がすでに退いたと奏し、朝廷は雲迦関から本鎮へ戻るよう命じた。
- 二月、牙帳近辺の回鶻十三部は、烏希特勒を立てて烏介可汗とし、錯子山の南に拠った。
陳夷行再入相と文宗旧臣粛清
- 三月甲戌、陳夷行が門下侍郎同平章事として再び宰相となった。
- 文宗に寵愛された樞密使の劉弘逸・薛季稜は、仇士良に憎まれていた。武宗の即位も彼らや前宰相の意向によるものではなかったため、楊嗣復は湖南観察使、李珏は桂管観察使へ出された。
- 乙未、劉弘逸・薛季稜に死が賜われ、中使が潭州・桂州へ派遣されて、楊嗣復・李珏まで誅殺しようとした。
李徳裕らの諫止で楊嗣復・李珏が助命
- 杜悰は馬を飛ばして李徳裕に会い、即位したばかりの若い天子にこのような拙速な処断をさせるべきではないと訴えた。
- 丙申、李徳裕・崔珙・崔鄲・陳夷行らは重ねて上奏し、さらに樞密使を中書に呼んで事情を質したうえで、延英殿での対面奏上を求めた。
- 彼らは、徳宗が劉晏を疑って殺し後悔したこと、文宗が宋申錫を疑って死に追いやり後悔したことを引き、楊嗣復・李珏に罪があるならまず十分に取り調べ、明白になってからでも遅くないと説いた。
- 武宗は当初、「三度命じたのだから悔いはない」と強く出たが、李徳裕らは、たとえ罪があっても死罪だけは免じ、後に冤とならぬようにと涙ながらに懇願した。
- 最後に皇帝は「卿らのために特に赦す」と述べ、中使二人を呼び戻した。李徳裕らは階下で舞い踊って感謝した。
- そのうえで武宗は、楊嗣復・劉弘逸は安王溶を、李珏・薛季稜は陳王成美を推そうとしていたと不満を漏らし、楊妃が安王立太子を望み、楊嗣復がその一族と通じていたと疑念を語った。
- ついに楊嗣復は潮州刺史、李珏は昭州刺史、裴夷直は驩州司戸へさらに左遷された。
告発処理の制度化と道教崇信
- 夏六月乙巳、今後、臣下が他人の罪悪を論ずる時は必ず御史台に付して取り調べることとし、禁中へ密奏して処分を求めることを禁じた。讒言防止が狙いであった。
- 何重順は魏博節度使に正式任命された。
- 武宗は道士の趙帰真らに三殿で九天道場を開かせ、自ら法籙を受けた。
- 右拾遺の王哲はこれを強く諫めたが、河南府士曹へ左遷された。
回鶻帰附をめぐる朝議
- 秋八月、天徳軍使田牟と監軍韋仲平は、嗢没斯ら回鶻の亡命勢力が塞下に迫っているとして、吐谷渾・沙陀・党項など彼らと仇の諸部を率いて攻撃したいと奏した。
- 朝臣の多くは、嗢没斯らは可汗に背いた叛将だから受け入れるべきでなく、攻撃すべきだと考えた。
- しかし李徳裕は、窮鳥でさえ懐に入れば助けるべきであり、況や回鶻は唐にたびたび大功があると論じた。今は隣国に破られて部衆離散し、遠く天子を頼ってきたのだから、恩義で撫でて糧食を与えるべきで、これこそ漢宣帝が呼韓邪を服属させた道だと述べた。
- 陳夷行は「盗賊に兵と糧を貸すようなものだ」と反対したが、李徳裕は、諸胡は利があれば進むが不利なら散るだけで、官軍を使って追わせても当てにならず、もし天徳の守兵千余で戦って敗れれば大きな禍だと説いた。
- 武宗はまず巡辺使の張賈を派遣して、回鶻の真意を探らせた。
- その後も李徳裕は、嗢没斯らを単純な叛将とみなすのは誤りで、国がすでに瓦解して主君も失われている以上、ただ大国に依って来た一支族と見るべきだと主張した。とりあえず河東・振武に防備を固めさせ、こちらから先に挑発せず、降れば受け入れる方策を進めた。
- 辛酉、田牟・韋仲平に対し、将士や雑虜に命じて回鶻へ先に手を出させないよう詔した。
盧龍の動揺
- 九月癸巳、盧龍軍で乱が起こり、節度使史元忠が殺され、陳行泰が留務を主導した。
- 李徳裕は、回鶻への使者派遣とともに、三万斛の糧食を送るよう請うたが、武宗はなお疑っていた。
- 閏九月己亥、延英殿で議論が行われた。陳夷行は引き続き「盗に糧を与える」ものだと反対したが、李徳裕は、兵がまだ集まらぬうちに天徳が陥ちれば責任は誰が負うのかと迫り、最終的に二万斛を賑給することが認められた。
- それ以前、山南東道節度使で元宰相の牛僧孺は、漢水氾濫で襄州民家を損じた責を李徳裕に問われて散地に退けられていた。これは私怨を含む処置と評される。
- 盧龍ではさらに軍が再び乱れ、陳行泰を殺して牙将の張絳を立てた。
- 李徳裕は、河朔では朝廷が急いで節鉞を与えるほど軍心が固まりやすいと経験から知っていたため、陳行泰の段階でも張絳の段階でも、節度使任命を急がず様子を見る方針を取った。
- 雄武軍使の張仲武が、自軍を率いて張絳討伐に立ち上がり、軍吏呉仲舒を京師へ送って事情を説明した。呉仲舒は、行泰も張絳もよそ者で人心が離れており、仲武こそ幽州旧将として支持を集めていると語った。
- 李徳裕は、兵数の少なさより人心の帰趨が決定的だと見て、張仲武に盧龍留後を与えた。やがて張仲武は幽州を平定した。
太和公主救護の方針
- 十一月、李徳裕は、回鶻が滅んだ今、太和公主の消息を朝廷が尋ねなければ、夷狄は唐が公主を大切にしていないとみなすだろうと進言した。
- そこで通事舎人の苗縝を嗢没斯のもとへ送り、詔を公主に転達させるとともに、嗢没斯の真意も探らせた。
武宗の遊猟自制
- 武宗はもともと狩猟や武芸の見世物を好み、五坊の小児が禁中に出入りして厚い恩賞を受けていた。
- ある時、郭太后に拝謁した際、天子の道を問うと、太后は諫言を受け入れることを勧めた。
- 武宗は帰って諫疏を読み返し、その多くが遊猟を戒める内容であるのを見て以後は出猟を減らし、五坊への過度な恩賞もやめた。
崔鄲出鎮と太和公主の拘束
- 癸亥、崔鄲は同平章事のまま西川節度使となった。
- そのころ黠戛斯は回鶻を破って太和公主を得たのち、自らを李陵の後裔と称して同姓のよしみを示し、公主を唐へ送り返そうと使節を出した。だが烏介可汗がこれを襲い、使節を皆殺しにして公主を奪い返し、南へ磧を越えて天徳軍の境へ移した。
- 公主は上表して、新可汗の冊命を求めた。烏介もまた、振武の一城を借りて公主とともに居住したいと願った。
- 十二月庚辰、朝廷は王会らを派遣して慰問し、米二万斛を賑給する一方、振武の城を貸す前例はないと断った。別の善地への移住や、大国の声援が必要なら漠南にとどまったうえで相談すべきであり、まず公主に入朝してもらって詳しく事情を聞くと伝えた。