資治通鑑唐紀 文宗元聖昭獻孝皇帝下 開成五年 720年
文宗末期の継嗣決定
- 春正月己卯、病重い文宗は潁王瀍を皇太弟に立て、軍国の事を暫定的に総攬させると詔した。あわせて、皇太子成美はまだ幼く、帝王教育も十分でないとして、再び陳王に戻す方針を示した。
- 文宗は劉弘逸・薛季稜に命じ、楊嗣復・李珏を禁中へ呼び、太子成美に監国させようとした。しかし仇士良・魚弘志は、成美の冊立は自分たちの手柄でなく、しかも幼少で病弱だとして反対し、別の後継を立てるよう主張した。
- 李珏は、いったん定まった太子位を途中で変えるべきでないと論じたが、仇士良らはついに詔を偽造し、瀍を皇太弟とした。
- その日、仇士良・魚弘志は兵を率いて十六宅へ赴き、潁王を少陽院へ迎えた。百官は思賢殿で拝謁した。瀍は沈着で決断力があり、感情を表に出さぬ人物として知られ、安王溶とともに文宗から特に厚遇されていた。
文宗崩御と仇士良の粛清
- 辛巳、文宗は太和殿で崩御した。三十三歳だった。楊嗣復が仮に冢宰の職をつとめた。
- 癸未、仇士良は皇太弟に勧め、楊貴妃・安王溶・陳王成美に死を賜った。
- 喪礼の日取りは十四日に殯と成服を行うという遅いものだったため、諫議大夫の裴夷直は遠すぎると諫めたが聞き入れられなかった。
- 仇士良らは甘露の変以来の恨みから、文宗に近かった楽工や宦官を次々と誅殺・左遷した。裴夷直はさらに、君主が新たに即位したばかりなのに先帝の近臣をたびたび殺すのは天下の耳目を驚かせ、先帝の神霊をも傷つけると強く諫めた。しかし採用されなかった。
- 辛卯、文宗の大斂がようやく行われた。礼にかなわぬ遅さだった。
武宗即位
- 武宗が即位し、甲午、実母の韋妃が皇太后に追尊された。
- 二月乙卯、天下に大赦が行われ、丙寅に韋太后へ宣懿の諡が贈られた。
楊嗣復罷免と崔珙入相
- 夏五月己卯、楊嗣復は門下侍郎同平章事を罷められ、吏部尚書となった。
- 代わって刑部尚書の崔珙が同平章事・塩鉄転運使となった。
文宗の葬礼と李珏失脚
- 秋八月壬戌、文宗は章陵に葬られ、廟号を文宗とした。
- 庚午、李珏は山陵使として葬送にあたった際、霊柩車がぬかるみにはまる事故を起こした責任を問われ、太常卿に左遷された。また京兆尹の敬昕も郴州司馬に落とされた。
義武の再乱と宰相交代
- 義武では軍が節度使陳君賞を追放したが、陳君賞は勇士数百人を募って軍城へ戻り、乱を起こした者たちを誅殺した。
- 武宗の即位は宰相の本意ではなかったため、楊嗣復・李珏は相次いで退けられた。
- 朝廷は淮南節度使の李徳裕を召し、九月甲戌朔に京師へ着かせた。
- 丁丑、李徳裕は門下侍郎同平章事となった。
李徳裕の政治論
- 庚辰、李徳裕は謝恩の場で、政治の要諦は群臣の邪正を見分けることにあると進言した。
- 正しい者は松柏のように自立し、邪な者は藤蔓のように他に付いて党を作ると述べ、文宗朝が朋党の害を知りながら結局は党人を用いたために奸人の隙を与えたのだと評した。
- また、宰相に疑いを抱いて小臣に諮れば、徳宗末年のように裴延齢の類がはびこり、宰相は単に署名するだけになって政務が乱れると警告した。君主はよい宰相を選んだら中書から政事を出させ、悪ければ即座に退けるべきだとした。
- さらに文宗は大臣の小過を表だって責めず、内心にため込んで最後に禍を招いたので、自分たちに罪があるなら面前で問いただしてほしいと求めた。武宗はこれを喜んで受け入れた。
楊欽義との関係
- 李徳裕は淮南在任中、召還に関わった宦官楊欽義を最初は特に優遇しなかったが、後に酒宴でもてなし、珍玩まで贈って懐柔した。
- 楊欽義は汴州まで来たところで再び淮南へ戻る命令を受けたが、贈り物を返そうとしたところ、李徳裕はそのまま受け取らせた。のちに楊欽義が樞密使となると、李徳裕の入相には彼の助力も働いた。
黠戛斯と回鶻滅亡
- 伊吾の西、焉耆の北にいた黠戛斯は、古くは堅昆、唐初には結骨と呼ばれた部族で、のち黠戛斯と号した。乾元年間に回鶻に敗れて以来、中国と隔絶していた。
- その君主阿熱は青山に牙帳を置き、回鶻・吐蕃から官号を与えられていたが、回鶻衰弱後に自称可汗となった。
- 回鶻は長年これを攻めたがたびたび敗れ、ついに句録莫賀が黠戛斯十万騎を引き入れて回鶻を急襲した。
- 㕎馺可汗と掘羅勿は殺され、牙帳は焼き払われ、回鶻諸部は離散した。ある者は葛邏祿へ、ある者は吐蕃へ、またある者は安西へ逃れた。
- 可汗の兄弟である嗢没斯らや、相の赤心・僕固特勒・那頡啜らは、それぞれの衆を率いて天徳塞下に至り、雑虜と穀物を交易しながら唐への内附を求めた。
北辺の緊張
- 冬十月丙辰、天徳軍使温徳彝は、敗走した回鶻兵が西城を圧迫し、六十里にわたって連なっていると報告した。辺民は大いに恐れたため、朝廷は振武節度使の劉沔を雲迦関に屯させて備えとした。
- 魏博節度使の何進滔が死に、軍中はその子何重順を推して留後とした。
- 蕭太后は興慶宮積慶殿に移され、積慶太后と号した。
裴夷直・李中敏の左遷
- 十二月癸酉朔、武宗は雲陽で校猟を行った。新帝即位時には、両省官が連名で署名する慣例があったが、裴夷直はその時名を書き漏らしたため、杭州刺史へ出された。
- 仇士良は、自身の位階による恩蔭で「子」を千牛にしようと請願したが、給事中の李中敏は、開府儀同三司なら本来は恩蔭の資格があるとしても、内謁者監である仇士良にどうして子がいるのかと判じた。
- 仇士良は大いに恥じて怒り、李徳裕も李中敏を楊嗣復派とみて嫌い、婺州刺史へ左遷した。
何重順留後と皇子封建
- 十二月庚申、何重順は魏博留後として認められた。
- また皇子峻が杞王に立てられた。
- ここで紀年は改まり、次年より武宗会昌元年となる。