資治通鑑唐紀 文宗元聖昭獻孝皇帝下 開成三年 718年

正月の政局と李石襲撃事件

  • 春正月甲子、宰相の李石が入朝の途中で賊に襲われ、軽傷を負った。従者は散り散りになり、馬も驚いて暴走し、邸宅へ逃げ帰ったが、坊門でもさらに襲撃を受け、危うく難を逃れた。朝廷は神策軍・六軍に警護と捜索を命じたが、犯人はついに捕まらなかった。
  • 翌日、出勤した百官はわずか九人で、都の人心が大きく動揺していたことがうかがえる。
  • 丁卯、かつて冤罪により不遇のまま死んだ斉王李湊に、懐懿太子の称号が追贈された。これは朝廷がその冤を認めた処置だった。

宰相人事と宦官勢力

  • 戊申、塩鉄転運使の楊嗣復と、戸部侍郎で戸部を管していた李珏が、ともに同平章事となった。両者は引き続き財政実務も担当した。
  • 李石は甘露の変後、混乱した朝政を立て直そうとし、宦官の専横を抑えようとしたため、仇士良に深く憎まれた。今回の襲撃もその差し金とみられ、李石は恐れて病を理由に辞職を願い出た。
  • 丙子、李石は同平章事のまま荊南節度使に転出した。皇帝は事情を察していたが、宦官勢力を抑えきれなかった。
  • 陳夷行も楊嗣復と政見が合わず、しばしば朝議で激しく対立した。足の病を理由に辞任を願ったが、許されなかった。

魏徴の笏と文宗の感慨

  • 皇帝は起居舎人の魏謩に命じ、その祖父である魏徴の笏を献上させた。鄭覃が「大事なのは人であって笏ではない」と言うと、皇帝は、名臣をしのぶよすがとして大切にしたいのだと答えた。

李宗閔復帰をめぐる宰相対立

  • 楊嗣復は李宗閔を中央政界へ戻そうとしたが、鄭覃に反対されるのを恐れ、まず宦官を通じて皇帝に働きかけた。
  • 皇帝が朝議で李宗閔に官を与えたいと述べると、鄭覃は強く反対し、もし再起用するなら自分は辞職するとまで言った。陳夷行も、李宗閔はかつて朋党政治で朝廷を乱した人物だとして非難した。
  • 楊嗣復は極端な好き嫌いで政治を決めるべきでないと主張したが、鄭覃は州刺史すら厚遇にすぎるとして、洪州司馬程度でよいと主張した。両者は互いに党派的だと攻撃しあい、皇帝も裁断に苦しんだ。
  • 退朝後、皇帝は周敬復と魏謩に、宰相がここまで言い争うのはどうかと問うた。二人は見苦しい面はあるが、忠義からの激論でもあると答えた。
  • 丁酉、李宗閔は衡州司馬から杭州刺史に移された。これは完全な復権ではないが、明らかな昇進だった。
  • 李固言は楊嗣復・李珏と親しく、彼らを重用して鄭覃・陳夷行を排したため、朝議はますます鋭く対立し、文宗は判断力不足を露呈した。

西南辺境の動揺

  • 三月、牂柯の蛮が涪州清溪鎮を襲ったが、守兵が撃退した。

祥瑞をめぐる議論と政策転換

  • かつて杜悰が鳳翔節度使だった頃、僧尼整理の詔に対して、監軍は岐山の五色雲や白兎を仏法の吉兆として奏上しようとした。しかし杜悰は、こうした自然現象や獣類の異変をことさらに瑞祥とすることに否定的だった。
  • のちに鄭注が鳳翔を治めると、紫雲や白雉を盛んに献上した。その年には甘露も現れたが、まもなく甘露の変が起こった。
  • その後、杜悰が河中から騶虞出現を奏上した際、文宗は、李訓や鄭注も瑞祥を利用して乱を起こしたのだから、瑞祥は国家の慶賀とは言えないと語った。杜悰は、真に尊ぶべきは人に利益を与える天命の徴であり、鳥獣草木の類いは徳の証明にはならないと説いた。
  • 皇帝はこれを称賛し、太平で民が安らかなことこそ最上の吉兆であり、嘉禾や霊芝は政治に益しないと考えるようになった。宰相も『春秋』が災異は記しても祥瑞は記さないのは、君主への戒めを重んじるからだと述べた。
  • 五月乙亥、諸道に対し、今後は祥瑞を奏聞してはならず、年中行事での祥瑞奏上も停止する詔が出された。

王晏平への処分緩和

  • もと霊武節度使だった王晏平は、多額の盗賍の罪で死罪相当だったが、父の王智興の功績によって命を助けられ、康州への長流となっていた。
  • 王晏平は魏博・成徳・幽州の三節度使に密かに働きかけて、自らの冤を雪ぐ上表を出させ、朝廷はやむなく六月壬寅、永州司戸に改めた。

太子廃立問題

  • 八月己亥、嘉王李運が死去した。
  • 太子永の母である王徳妃は寵愛が薄く、楊賢妃の讒言で死に追いやられていた。太子自身も遊宴を好み、小人と親しくしていたため、楊賢妃は日夜その短所を皇帝に吹き込んだ。
  • 九月壬戌、文宗は延英殿に宰相・両省官・御史・郎官を集め、太子の過失を列挙して廃太子を議した。群臣は、太子はまだ若く改める余地があり、国家の根本である継嗣を軽々しく動かすべきでないと反対した。とくに御史中丞の狄兼謩は涙ながらに諫め、給事中の韋温は、ここまで放置したのは太子だけの責任ではないと厳しく述べた。
  • 翌日、翰林学士や神策軍の軍使らも上表して太子擁護を主張し、皇帝の怒りはやや収まった。その夜、太子はようやく少陽院に帰された。
  • この件に連座して、宦官・宮人・内廷の近臣ら数十人が流罪や死罪に処せられた。

義武軍の後継問題

  • 義武節度使の張璠は、十五年にわたり鎮を保ち、幽州や成徳にも一目置かれていた。病が重くなって入朝を願ったが、朝廷が決める前に危篤となり、息子の張元益に対して、一族そろって朝廷へ帰り、河北のような世襲独立の道を取ってはならないと戒めた。
  • 張璠が死ぬと、軍中は張元益を留後に立てようとしたが、観察留後の李士季が反対したため、兵が李士季や将校十余人を殺害した。
  • 壬申、朝廷は易州刺史の李仲遷を義武節度使に任じた。軍中から離脱して帰順した何清朝には儀州刺史が与えられた。
  • また、義昌節度使の李彦佐が在鎮久しいので、徳州刺史の劉約を副使として送り、後任に備えた。

神策軍の人事専横への歯止め

  • 開成以後、神策軍の将吏は、奏聞を経ずに中書へ直接牒を送り、人事が次々と処理されるようになっていた。これは甘露の変後、宦官の権力がさらに強くなった結果だった。
  • 癸未、将吏の改官は、まず皇帝への奏聞を経てから中書で審査・施行するよう改められた。

太子永の急死

  • 冬十月、易定の監軍は、軍中が李仲遷の受け入れを拒み、張元益を留後にしたいと奏上した。
  • 一方、太子永はなおも改心しなかったとされ、庚子に急死した。後世の記録では、文宗が「天子でありながら一人の子も守れなかった」と泣き、関係した近臣を殺したことから、自然死ではなかった可能性が強くうかがえる。
  • 諡は荘恪とされた。

易定問題の処理

  • 乙巳、郭旼が邠寧節度使となった。
  • 宰相たちは義武に兵を出して討つべきだと論じたが、文宗は、土地が狭く貧しい義武を急迫すれば何をしでかすかわからない、辺境防備を固めて成り行きを待つべきだと述べた。
  • まず張元益を代州刺史に任じ、軍中の変化を待ったところ、案の定、軍中で異論が生じ、結局は李仲遷が不適任だという理由で、朝廷側が李仲遷の任命を取り消した。
  • 十一月、張元益が定州を出たら、最初に彼を擁立しようとした将士も不問に付すとの詔が出された。また、李彦佐を天平節度使へ移し、劉約を義昌節度使に任じた。
  • 丁卯、張元益は定州を出て朝廷に従った。
  • 甲戌、韓威が義武節度使に任じられた。

郭旼の娘の入内をめぐる議論

  • 庚午、皇帝は翰林学士の柳公権に世間の評判を尋ねた。柳公権は、郭旼が節度使になったこと自体より、最近その娘二人が宮中に入ったことが問題視されていると答えた。
  • 皇帝は太皇太后への伺候のためだと説明したが、外では「娘を後宮に入れた見返りに方鎮を得た」と噂されているという。柳公権は、噂を鎮めるには南内から実家へ帰すしかないと進言した。
  • その日のうちに太皇太后は中使を遣わして二人を郭家へ返し、外聞を鎮めた。

詩学士設置案と裴度召還

  • 文宗は詩を好み、詩学士の設置を考えたが、李珏が当世の詩人は浮薄で政治の助けにならないと述べたため中止となった。
  • 河東節度使の裴度が病気を理由に東都へ戻りたいと願ったため、十二月辛丑、朝廷は逆に彼へ入朝して政事を見てほしいと命じ、中使を送って出発を促した。
  • 鄭覃は重ねて辞職を願い、丙午、三日か五日に一度だけ中書へ出仕せよとの詔が下った。

吐蕃の政変

  • この年、吐蕃の彛泰賛普が死に、その弟の達磨が立った。彛泰は病弱で政務を大臣に委ねていたため、吐蕃はかろうじて自立を保つ程度で、長く唐辺境を脅かさなかった。
  • だが達磨は荒淫で残虐、民心も離れ、災異も相次いだため、吐蕃はいっそう衰えた。