資治通鑑唐紀 文宗元聖昭獻孝皇帝 開成二年 717年
春 人事と天変
- 春二月己未、文宗は宰相に、人物推薦では親疎を問う必要はなく、親故が本当に有能なら嫌疑を避けて用いないのもまた至公ではないと語った。
- 均王緯が死去した。順宗の子である。
- 三月、張宿に彗星が現れ、長さは八丈余に及んだ。
- 壬申、文宗は音楽を止め、食膳を減らし、一日の膳を十日分に引き延ばすよう命じた。
四月 柳公権の直言
- 夏四月甲辰、文宗は便殿で中書舎人・翰林学士兼侍書の柳公権と対話し、自分の衣はすでに三度洗ったものだと袖を示した。周囲は皆その倹約を称えたが、柳公権だけは黙っていた。
- 文宗が理由を問うと、柳公権は、天子として四海を有する陛下がなすべきは、賢者を進め不肖を退け、諫言を受け入れ、賞罰を明らかにして太平を致すことであり、洗い直した衣を着るのは末節にすぎないと答えた。
- 文宗は、卿は中書舎人にとどまるべきではなく諫官の風があるとして、乙巳、柳公権を諫議大夫に任じ、なお侍書を兼ねさせた。
宰相任命と河陽軍乱
- 戊戌、翰林学士・工部侍郎の陳夷行が同平章事となった。
- 六月、河陽で軍乱が起こり、節度使李泳は懐州へ逃げ、軍士は官府を焼き、李泳の二子を殺し、数日大掠した。李泳は長安出身で禁軍に籍を置き、賄賂で方鎮を得た人物で、赴任先でも後ろ盾を頼んで貪虐不法だったので、部下が耐えきれず乱を起こした。
- 丁未、李泳は澧州長史に貶され、戊申、李執方が河陽節度使となった。
夏から秋 辺境と東宮
- 七月癸亥、振武から、党項三百余帳が剽掠して逃げたと報じられた。
- 給事中韋温は太子侍読となったが、毎朝東宮へ出向いても正午まで太子に会えないことがあった。
- 韋温は、太子は鶏鳴に起きて問安・視膳を行うべきで、安逸にふけるべきでないと諫めたが、太子は従わなかった。そこで韋温は侍読辞任を願い、辛未、本官のみとなった。
- 振武の突厥百五十帳も叛き、営田を剽掠したが、戊寅、節度使劉沔がこれを撃破した。
八月 後宮・皇族の整理
- 八月庚戌、昭儀王氏を德妃に、昭容楊氏を賢妃に進めた。唐制では貴妃・淑妃・德妃・賢妃が各一人で、夫人の正一品にあたる。
- 敬宗の子である休復を梁王、執中を襄王、言揚を杞王、成美を陳王に封じた。
- 癸丑、皇子宗儉を蔣王に立てた。
九月から十月 河陽平定と石経完成
- 河陽の軍士は李泳を追放した後も互いにあおって再び乱れようとしたが、九月、李執方は首謀者七十余人を捜し出して皆斬り、残党を他鎮に分配して、ようやく平定した。
- 冬十月、国子監の石経が完成した。文宗が文章を好み、鄭覃が国子祭酒を兼ねて、後漢の蔡邕にならって九経を石に刻ませたものである。ただし字体や校訂には不満も多く、のちの儒者は必ずしも高く評価しなかった。
年末 蕭弘再び露見、西川人事
- 福建から、晋江の百姓蕭弘が太后の族人を名乗っているとの報告があり、御史台に調査が命じられた。
- 戊申、李固言は西川節度使へ出され、なお同平章事を帯びた。
- 甲寅、御史台は蕭弘の詐称を認定したが、ただ郷里へ送り返すだけとして罪には問わなかった。これはなお真相を求めたためである。