資治通鑑唐紀 文宗元聖昭獻孝皇帝 大和九年 715年

正月から春 鄭注の勢力拡大

  • 正月、王元逵が正式に成德節度使となった。
  • 巢公湊が死去し、斉王を追贈された。
  • 鄭注は、関中に災いがあるので大規模な土木でこれを祓うべきだと上言した。
  • 辛卯、左右神策軍千五百人を動員して曲江と昆明池の浚渫が行われた。
  • 三月、冀王絿が死去した。順宗の子である。
  • 丙辰、史元忠は盧龍節度使となった。

李德裕をめぐる再弾劾

  • かつて李德裕が浙西観察使であった時、宋申錫事件に連座した漳王傅母の杜仲陽を詔命に従って保護するよう命じられていた。
  • これを口実に、左丞王璠と戸部侍郎李漢は、李德裕が杜仲陽に厚く賄賂を与え、ひそかに漳王と結んで不軌を図ったと奏した。
  • 文宗は激怒し、宰相・王璠・李漢・鄭注らを呼んで対質させた。王璠と李漢は激しく李德裕を誣告したが、路隋は、李德裕にそこまでの意図はないと言い、もし事実なら自分も罪を受けるべきだと述べたため、追及はやや鎮まった。
  • 夏四月、李德裕は賓客分司に落とされた。

鄭注の専横

  • 癸巳、鄭注は守太僕卿・兼御史大夫となり、ようやく官を受けた。
  • その際、自分を弾劾した倉部員外郎李欵を後任に推し、「自分を罪に落としても李欵は忠節を尽くした」と言ったため、世間はこれを嘲笑した。
  • 丙申、路隋は鎮海節度使に出され、李德裕を救ったため直接暇乞いもできなかった。
  • 上巳の曲江宴で、京兆尹賈餗は自らの勢いを頼んで馬を降りずに外門から入り、殿中侍御史楊儉・蘇特と争い、罵倒したため俸禄を減じられた。これを恥じて外任を求めたが、なお出発しないうちに宰相へ昇進した。
  • 庚子、李德裕はさらに袁州長史に貶された。西蜀で滞納銭を厳しく取り立てたことや、文宗が最初に病を得た際の振る舞いも、その理由として挙げられた。

李訓・鄭注、宦官誅殺を密議

  • 宋申錫が罪を得て以後、宦官の横暴はますます強くなった。文宗は外面では忍んでいたが、内心では耐えがたく思っていた。
  • 李訓と鄭注は文宗の本心を察し、訓は進講の折々にほのめかして文宗を動かした。
  • 文宗は訓の才弁を見て大事を謀るに足ると考え、しかも訓・注が王守澄を通じて進んだ者であるため、宦官も疑うまいとみて、ひそかに真意を打ち明けた。
  • こうして訓と注は宦官誅滅を自らの任務とした。
  • 二人は朝夕計議し、文宗も彼らの意見にはほとんど従った。外から見れば、二人が宦官を後ろ盾に威福をほしいままにしているようにしか見えず、文宗と密謀していることは知られていなかった。
  • 王守澄と仇士良には以前から確執があり、李訓・鄭注は文宗のため、仇士良を引き立てて王守澄の権力を分けさせた。
  • 五月乙丑、仇士良は左神策中尉となり、王守澄は不快に思った。
  • 戊辰、王璠は戸部尚書・判度支となった。

六月から八月 粛清と政界再編

  • 京師では、鄭注が金丹を合成するため小児の心肝を求めているという流言が立った。文宗もこれを聞いて鄭注を嫌悪した。
  • 鄭注は以前から京兆尹楊虞卿を憎み、李訓とともに、この流言は楊虞卿の家人から出たと構えた。六月、楊虞卿は御史獄に下された。
  • 鄭注は両省官になろうとしたが、李宗閔は許さなかったため、鄭注は宗閔を文宗に讒言した。
  • 宗閔が楊虞卿を救おうとしたことも文宗の怒りを招き、壬寅、李宗閔は明州刺史に左遷された。
  • 左神策中尉韋元素、枢密使楊承和、王踐言も王守澄と争っていたが、李訓・鄭注はこれに乗じて三人をそれぞれ西川・淮南・河東へ監軍として追い出した。
  • 七月甲辰、楊虞卿は虔州司馬に貶された。
  • 庚戌、曲江に紫雲楼が築かれた。
  • 辛亥、李固言が宰相となった。
  • 李訓・鄭注は、まず宦官を除き、次に河湟を回復し、さらに河北を平定するという太平の計略を文宗に説き、文宗はこれを真に受けて寵任を深めた。
  • 李宗閔が以前、駙馬都尉沈某や女学士宋若憲、枢密楊承和の縁を使って宰相になった経緯まで鄭注は暴き、壬子、宗閔はさらに処州長史へ落とされた。
  • 舒元輿は李訓に近く、楊虞卿獄を取り調べるため右司郎中兼侍御史知雑となり、すぐ御史中丞へ抜擢された。
  • 李漢・蕭澣も李宗閔の党として地方へ左遷された。
  • 李訓・鄭注は連続して三人の宰相を追い落とし、天下を震わせた。過去の小さな恩讐までことごとく報復した。

僧尼整理と鄭注・李訓の相互牽制

  • 丁巳、李訓の奏請で、各地の僧尼に経文の試験を行い、不合格者は還俗させ、新寺建立や私度を禁じた。
  • 当時、鄭注がまもなく宰相になると噂された。侍御史李甘は、「白麻が出たら自分が朝庭で破ってやる」と公言し、癸亥、封州司馬に貶された。
  • しかし李訓もまた鄭注を警戒し、宰相にしたくなかったため、この話は実現しなかった。
  • 甲子、李訓は兵部郎中・知制誥・侍講学士となった。
  • 沈某はさらに邵州刺史に、李宗閔は潮州司戸に、宋若憲は死を賜った。
  • 八月丁丑、鄭注は工部尚書・翰林侍講学士となった。鹿裘を着て隠者めいた風を装い、文宗は師友のように遇した。
  • 文宗がかつて翰林学士李珏に鄭注のことを尋ねた際、李珏は、名だけでなく人物もよく知っているが奸邪であり、寵愛は聖徳に益しないと率直に答えた。そのため戊寅、李珏は江州刺史に貶された。沈某もさらに柳州司戸に落とされた。

八月末から九月 大規模な追放

  • 丙申、文宗は、楊承和が宋申錫を庇い、韋元素・王踐言が李宗閔・李德裕と内外で結び賄賂を受けたと詔して、三人をそれぞれ驩州・象州・恩州へ安置したうえ、護送させた。まもなく使者を出して三人に死を賜った。
  • すでに死去していた崔潭峻も、棺を暴いて鞭打たれた。
  • 己亥、前廬州刺史羅立言が司農少卿に抜擢された。賄賂で鄭注に取り入って得た官だった。
  • 鄭注が翰林入りした時、その制書を書いた高元裕が「医薬で君親に奉仕する」と書いたのを鄭注は恨み、李宗閔送別に郊外まで出たことを口実に、壬寅、高元裕を閬州刺史へ貶した。
  • 鄭注と李訓が憎む朝士はすべて「二李の党」と名指しされ、二李とは李德裕と李宗閔を指した。追放は絶えず、班列は空になるほどだった。朝廷は騒然としていた。
  • そのため九月癸卯朔、文宗は、これまでに貶黜された者を除き、李德裕・李宗閔の親旧や門生故吏について今後は罪を問わないと詔し、人心はやや安んじた。

茶法改変と陳弘志誅殺

  • 塩鉄使王涯は、江淮・嶺南の茶法を改め、課税を増やすよう奏した。茶税はすでに重かったが、さらに加重された。
  • 庚申、鳳翔節度使李聽が忠武節度使となり、杜悰に代わった。
  • 憲宗崩御の際、宦官陳弘志が関わったと人々は言っていた。彼は当時山南東道監軍であり、李訓は文宗のために彼を青泥駅まで呼び寄せ、癸亥、密かに杖殺した。

九月末から十月 鄭注の外任と王守澄の死

  • 鄭注は鳳翔節度使になることを望み、李固言は反対したが、丁卯、李固言は山南西道へ出され、鄭注は鳳翔節度使となった。
  • 李訓は鄭注により立身したが、両者がともに勢力を得ると、内心では鄭注を忌み始めた。表向きは中外協力して宦官を誅するためとして鄭注を鳳翔へ出したが、実際には宦官誅滅後に鄭注まで除こうと考えていた。
  • 鄭注は名門で名望ある人物を副使にしたがり、韋温に副使就任を求めた。韋温は断れば遠貶で済むが、従えばもっと大きな災いに巻き込まれるとして辞退した。
  • 戊辰、王守澄は左右神策観軍容使兼十二衛統軍となり、名目上は尊ばれたが実権を奪われた。これは李訓・鄭注が文宗のために考えた策であった。
  • 己巳、舒元輿と李訓がともに同平章事となった。文宗は、李宗閔・李德裕の朋党を戒め、賈餗や舒元輿のような孤寒の新進なら党を作るまいと考えて抜擢した。
  • 李訓は流人から一年で宰相にまで上りつめ、天下の大事は中書でも翰林でも訓の裁断に帰した。王涯らはその意向を先回りして迎合した。
  • 壬申、李孝本が御史中丞の職務を預かった。彼も訓・注に依って進んだ人物である。
  • 鄭注は李聽を讒奏して貪虐だと誣告し、冬十月乙亥、李聽は太子太保分司に退けられ、杜悰が忠武へ戻された。
  • 鄭注は経済の才を自負したが、文宗に富国策を問われても答えられず、茶の専売を請うたので、王涯が兼ねて榷茶使となった。王涯は害を知っていたが逆らえず、人々は大いに苦しんだ。
  • 鄭注は僧尼の支持を得るため、以前の沙汰・還俗策の停止を強く願い、これも許された。
  • 辛巳、李訓・鄭注は文宗に密奏して王守澄を除くことを請い、中使李好古が王守澄の邸へ行って毒酒で殺した。表向きには揚州大都督を贈った。
  • 鄭注と李訓はいずれも王守澄により進められた者であったが、ついに謀ってこれを殺した。人々は王守澄が佞臣に乗じられて死んだことを喜びつつ、李訓・鄭注の陰険さも憎んだ。

十一月 甘露の変

  • 乙酉、鄭注は任地へ向かった。
  • 庚子、裴度は東都留守のまま中書令を兼ねた。
  • 李訓は狂険な人物を多く登用したが、裴度・令狐楚・鄭覃のような名望ある老臣も高位に引き上げ、人心を得ようとした。そのため士大夫の中には本当に太平をもたらすのではと期待する者もいたが、識者はその横暴ぶりから敗亡を予見した。
  • 十一月、郭行餘・王璠・羅立言・韓約らが要地に置かれた。これは李訓が、鄭注を利用して宦官を一挙に誅した後、さらに鄭注までも除こうとする計画の一部であった。
  • 王守澄の葬送に際し、鄭注は滻水まで赴いて護葬し、宦官たちをみな集めさせて自兵で皆殺しにする構えを見せた。一方、李訓は郭行餘・王璠らに兵を募らせ、京城内で先手を打って宦官を討つ策をとった。
  • 壬戌、文宗が紫宸殿に御したとき、韓約が左金吾庁の石榴樹に甘露が降りたと奏した。宰相以下百官もこれを賀し、李訓と舒元輿は天の瑞を観るよう勧め、文宗は含元殿へ向かった。
  • 先に派遣された宰相・両省官が視察して戻ると、李訓は「これは本物の甘露ではないようだ」と報告した。これは宦官たちを現場へ誘き出すための芝居だった。
  • 仇士良・魚志弘ら宦官が現場へ行くと、韓約は顔色を失い、風で幕がめくれて伏兵が見えた。宦官たちは驚いて逃げ出し、門を閉めようとした兵を押しのけて文宗のもとへ駆け込み、変を告げた。
  • 文宗は軟輿で急ぎ宮中へ戻された。李訓は輿にすがりついて「まだ臣の奏事が終わっていない、宮へ入ってはならない」と叫んだが、文宗は叱りつけ、宦官郗志栄が拳で訓を殴り倒した。
  • その間、羅立言は京兆邏卒三百余、李孝本は御史台の従者二百余を率いて殿上に入り、宦官を斬りつけて流血させたが、文宗はすでに宣政門内へ入っていた。
  • 宮門が閉ざされると、李訓は事の失敗を悟って緑衣に着替え、道中で「自分は無実なのに流罪にされる」と言いながら逃走した。
  • 王涯・賈餗・舒元輿は中書へ戻り、何事かと問う両省官にも事情を説明できず、文宗が延英殿で召すだろうと考えて待った。
  • しかし仇士良らは、文宗があらかじめ謀議に加わっていたことを知っており、無礼な言葉まで吐いたため、文宗は恥じて恐れ、以後口をつぐんだ。
  • 宦官側はただちに神策兵を出し、反乱討伐を名目に王涯らを襲わせた。中書省・両省・金吾の官吏卒らは争って逃げ、門外に出られなかった者六百余が殺された。さらに諸司や宮中にいた民間人まで大量に殺され、死者は千余にのぼり、役所の印・図籍・器物も尽く失われた。
  • 舒元輿は変装して安化門から出たが捕えられた。王涯は永昌里の茶店で捕われ、拷問に耐えかねて、李訓とともに大逆を図って鄭注を擁立しようとしたと自白した。
  • 王璠も、魚志弘の意を受けた兵に欺かれて捕らえられた。王涯は王璠に、昔王守澄へ密告しなければ今日の禍もなかったろうと言い、王璠はうつむいて答えなかった。
  • 訓の一族、涯・璠・賈餗らの親族奴婢もことごとく捕えられ、財産没収と殺戮が行われた。坊市の悪少年もこれに乗じて私怨を晴らし、略奪が横行した。
  • 翌癸亥、百官が朝に入ると、禁兵が両側に抜刀して立ち、朝儀は完全に乱れていた。文宗は紫宸殿で王涯らの反状を示され、悲憤のあまり耐えられなかった。令狐楚・鄭覃に機務参与が命じられた。
  • 令狐楚が作った制書は王涯らの罪状の叙述があいまいだったため、仇士良らは不満を抱き、令狐楚は宰相になれなかった。
  • 賈餗は民間に潜んだが、自ら名乗って西軍へ送られた。李孝本は鳳翔へ逃げようとして咸陽で捕えられた。
  • 甲子、鄭覃が宰相となった。
  • 李訓は終南山の僧宗密のもとへ逃げ込み、宗密は剃髪して匿おうとしたが弟子たちが反対し、訓は山を出て鳳翔へ向かう途中、盩厔鎮遏使宋楚に捕えられた。昆明池で送者に頼んで首を斬らせ、辱めを避けた。
  • 乙丑、李石が宰相・判度支となった。李載義も旧任へ戻った。
  • 同日、王涯・王璠・羅立言・郭行餘・賈餗・舒元輿・李孝本らは廟社へ引き回され、東西両市でさらされたうえ、独柳樹の下で腰斬され、首は興安門外にさらされた。親疎を問わず一族は皆殺され、妻女は官婢に落とされた。
  • 百姓は王涯の榷茶を怨み、彼に罵声を浴びせ、瓦礫を投げつけた。
  • 司馬光は、王涯・賈餗が訓・注の陰謀を知らなかったという見方を否定し、高位高禄にありながら奸人と並び国家の危機を救わず、ただ保身に走った以上、その族滅は天の誅であると論じる。
  • 王涯の再従弟王沐、舒元輿の族子守謙に関する逸話を挙げ、福禍の応報は偶然ではないとする。

十一月末から十二月 宦官専権の成立

  • 同日、令狐楚は塩鉄転運使となり、張仲方が京兆尹の職務を代行した。
  • この数日間、殺生も除拜もすべて両中尉の決裁で動いていた。
  • 文宗の病状や廃立密議に関する怪しい逸話が後世にあるが、胡注は崔慎由の年次からみて信用できないとして退けている。
  • 以前、王守澄が憎んでいた宦官の一群を、李訓・鄭注は六道巡辺使として外へ出し、翰林学士顧師邕に彼ら誅殺の詔を作らせた。しかし甘露の変で訓が敗れたため、六道の使者は詔を実行しなかった。
  • 顧師邕は矯詔の罪で御史獄に下された。
  • そのころ鄭注は鳳翔から五百の親兵を率いて扶風に至ったが、韓遼が計画を察して逃げたため、訓敗北を知ると鳳翔へ引き返した。
  • 仇士良らは鳳翔監軍張仲清に密勅を送り、押牙李叔和の計で鄭注を油断させて招き入れ、これを斬った。外にいた親兵も皆殺しにされ、鄭注の一家や副使・判官・掌書記ら、その党は千余人が死んだ。
  • 丁卯、朝廷はなお鄭注の死を知らず、官爵剥奪を命じ、周辺諸道に変に備えるよう命じた。
  • 戊辰夜、張仲清から鄭注の首が届き、興安門に梟された。これで人心はようやく少し安定した。
  • 神策軍は討賊の功に応じて官爵・賜与を受けた。
  • 韓約も崇義坊で捕えられ、己巳、斬られた。
  • 仇士良ら宦官は進階昇官し、ここから後は天下の事がほとんど北司で決せられ、宰相は文書を執行するだけになった。
  • ただし、宦官が訓・注の件を口実に宰相を折伏しようとするたび、鄭覃と李石は「そもそも訓・注を進めたのは誰か」と言って対抗し、士大夫は彼らに頼った。
  • 中書省は兵火で破壊され、物資も欠けたため、江西・湖南から宰相の従者募集用として衣粮が献じられた。
  • 辛未、李石は、宰相が忠正なら神霊が守るので護衛を増やす必要はない、奸邪を抱えるなら重兵でも救えないとして、金吾卒による従来の導従だけで足りると奏し、二道の献納は停止された。
  • 十二月朔、顧師邕は儋州へ流される途中、商山で死を賜った。
  • 令狐楚は茶の専売廃止を奏し、これが実現した。
  • 度支は、鄭注の家から絹百万匹余、他の財物もそれに匹敵する量が没収されたと報告した。
  • 庚辰、文宗が坊市の安否を問うと、李石は徐々に落ち着いたが寒気が異様に強いのは殺戮が過ぎたためだと答え、鄭覃も、一族近親はすでに十分死んだとして、これ以上の追及緩和を求めた。
  • 李訓らに少しでも関係する者への誅罰はなお続いた。