資治通鑑唐紀 文宗元聖昭獻孝皇帝 大和八年 714年

春の政務と天候不順

  • 春正月、文宗は病がやや軽くなり、太和殿に出て近臣に会った。しかし精神の衰えが目立ち、以前のようには回復していなかった。
  • 二月朔、日食が起きた。
  • 夏六月、莒王紓が死去した。紓は順宗の子である。
  • 長びく旱魃のため、文宗は雨を招く方策を広く求めた。
  • 司門員外郎李中敏は、近年の大旱は天徳の不足というより、宋申錫の冤罪と鄭注の奸邪が原因であり、雨を得る道は鄭注を斬って宋申錫の冤を雪ぐことだと上表した。文宗は表を留中とし、李中敏は病を理由に東都へ帰った。
  • 郯王経も死去した。経もまた順宗の子である。

李仲言(のちの李訓)の台頭

  • 以前象州へ流されていた李仲言が赦免で東都に戻ったころ、東都留守李逢吉は再び宰相になろうとしていた。
  • 仲言は自ら鄭注と親しいと言い、李逢吉は厚く賄賂を持たせて鄭注へ取り入らせた。
  • 鄭注は仲言を王守澄に引き合わせ、王守澄は「易に通じる人物」として文宗に推薦した。
  • 仲言は母の喪中で本来は禁中に入りにくかったため、民間人の服装で「王山人」と名乗って召し出された。
  • その容貌は堂々として弁舌にも優れ、権謀術数にも長けていたので、文宗は大いに喜び、日ごとに待遇を厚くした。

八月 李仲言の起用をめぐる対立

  • 秋八月、文宗は李仲言を諫官として翰林に置こうとした。
  • 李德裕は、仲言のこれまでの行いを陛下は十分知っているはずで、近侍に置くべきではないと強く反対した。仲言の悪は一時の過失ではなく本心から出たもので、改悛は期待できないと論じた。
  • 文宗は李逢吉が推薦した以上、約束を違えたくないと言ったが、李德裕は推薦した李逢吉自身にも罪があると応じた。
  • 文宗が王涯に意見を求めると、王涯は可と答えた。李德裕は制止しようとしたが、文宗は不快そうに席を立った。
  • 王涯はもとは仲言起用に激しく反対する諫疏を書いていたが、文宗の意思が固く、また仲言の党勢を恐れて態度を変えた。
  • まもなく李仲言は四門助教に任ぜられた。
  • 給事中鄭肅・韓佽は詔書の封還を試みたが、王涯が二人に封還不要だと伝えさせ、二人はこれに従った。翌日李德裕に告げると、李德裕は、自分は封還を望んだのではなく、しかも封駁は本来有司の職掌で宰相の指図を仰ぐものではないと驚いた。二人は不満を抱いて去った。

鄭注・李宗閔の召還と李德裕失脚

  • 九月、昭義節度副使鄭注が京師へ召された。
  • 王守澄・李仲言・鄭注はいずれも李德裕を憎み、李德裕と不和であった山南西道節度使李宗閔を引き立てて対抗させようとした。
  • 冬十月、幽州で軍乱が起こり、節度使楊志誠と監軍李懷仵が追放され、兵馬使史元忠が留務を主宰することになった。
  • そのころ李宗閔が宰相に任じられ、李德裕は山南西道節度使へ出された。
  • 同日、李仲言は翰林侍講学士となった。給事中高銖・鄭肅・韓佽、諫議大夫郭承嘏、中書舎人権璩らが争って反対したが、受け入れられなかった。
  • 貢院は進士科に詩賦の再試験を実施すると奏上し、これが許された。
  • 李德裕は自ら文宗に会って京師に留めてほしいと求め、兵部尚書に改められた。
  • 楊志誠が太原を通った際、李載義は自ら殴打して殺そうとし、幕僚に諫められてかろうじて命を助けたが、その妻子や従う将卒は殺した。朝廷は李載義の功績を理由に咎めなかった。

十一月 河北情勢と党争

  • 十一月、成德節度使王庭湊が死去し、軍中はその子王元逵を留後として推戴した。元逵は父の旧来のやり方を改め、朝廷に対して礼を尽くした。
  • 史元忠は、楊志誠が作らせた僭越な袞衣その他の物品を献上した。楊志誠は嶺南へ流され、そこで殺された。
  • 李宗閔は、いったん出した李德裕の任命を本人の願いで変えるのはよくないと言ったが、結局李德裕は鎮海節度使とされ、平章事の兼任も解かれた。
  • 当時、李德裕と李宗閔はそれぞれ党を持ち、互いに自派を引き上げ、相手派を排斥していた。文宗はこれを深く憂え、河北の賊を除くよりも朝廷の朋党を除くほうが難しいと嘆いた。
  • 司馬光はここで、君子と小人は本来相容れないが、君子の人事は公で事実に基づき、小人の人事は私で虚偽に基づくと論じる。主君が賢不肖・公私・邪正を明確に見分けて賞罰を下せば朋党は生じないが、文宗はそれをせず群臣のせいにした、と批判している。

年末の人事

  • 丙子、李仲言は名を「訓」と改めた。
  • 幽州からは、莫州で軍乱が起き、刺史張元汎の所在が不明だと奏上された。
  • 十二月、鄭注は太僕卿に任じられた。郭承嘏はたびたび上疏して反対したが、文宗は聞き入れなかった。
  • 鄭注は受命を辞退するふりをしたが、中使が再度告身を持参しても受けず、なお奸計をめぐらせた。
  • 癸未、史元忠は盧龍留後に任じられた。
  • かつて宋申錫が鄭注誅殺の密詔を得たとき、京兆尹王璠がその命令文書を王守澄に密告したため、鄭注は難を逃れた。鄭注は王璠に深く恩を感じ、さらに王璠は李訓とも親しかったので、訓と注はともに王璠を推挙し、浙西観察使から召して尚書左丞とした。