資治通鑑唐紀六十 文宗 太和七年 713年

正月 劉従諫帰鎮と徐州対策

  • 甲午、昭義節度使の劉従諫に同平章事を加え、そのまま鎮に帰した。
  • 劉従諫は忠義をもって自任し、当初は他鎮への転任やさらなる昇進を望んでいたが、入朝してみると朝廷内部の権限分散や士大夫の請託体質を軽んじるようになり、帰国後はいっそう驕慢になった。
  • 徐州では王智興以来、士卒が驕っており、節度使の高瑀では抑えられなかった。文宗はこれを憂え、甲寅、嶺南節度使の崔珙を武寧節度使に任じた。崔珙は寛厳の使い分けに優れ、徐州を安定させた。

二月〜三月 楊志誠への加官と李徳裕入相

  • 癸亥、楊志誠に検校工部尚書を加えた。
  • 盧龍の進奏官・徐廸は宰相に対し、軍中では工部尚書から吏部尚書への転任が昇進だと理解されず、勅使が行っても無事では済まないかもしれないと、きわめて傲慢な口ぶりで述べた。
  • 宰相がこれを深く咎めないまま、丙戌、李徳裕が兵部尚書・同平章事となった。
  • 文宗は入謝した李徳裕に朋党のことを論じ、李徳裕は朝士の三分の一が党派に属すると答えた。とくに楊虞卿・楊汝士・楊漢公・張元夫・蕭澣らが権門に依り、科第や官職を私に左右していると指摘した。文宗も以前からこれを嫌っていたため、李徳裕は自分の嫌う者を退ける好機を得た。
  • 左散騎常侍の張仲方は、かつて李徳裕の父李吉甫の諡を「優しすぎる」と駁していた因縁があり、李徳裕が相となると病を称して出仕しなかった。三月壬辰、賓客分司に出された。
  • 楊志誠は、右僕射になれず官告使の魏宝義や春衣使の焦奉鸞らを留めたまま不満を示した。甲午、牙将王文穎を遣わして謝恩と辞退を伝えさせたが、丙申、朝廷が再び告身と批答を送っても受け取らず、帰ってしまった。
  • 庚戌、楊虞卿は常州刺史、張元夫は汝州刺史に左遷された。
  • その後、文宗が再び朋党を話題にすると、李宗閔は自分も以前から楊虞卿らをよく思わず高官を与えていないと言い訳したが、李徳裕が「給事中や中書舎人が美官でなくて何か」と言い返し、李宗閔は言葉を失った。
  • 丁巳、蕭澣は鄭州刺史に出された。

四月〜六月 回鶻・河東・鄭覃

  • 丙戌、新たな回鶻可汗に冊命が行われた。
  • 乙巳、李載義が山南西道から河東節度使へ移された。
  • 回鶻使の李暢が入貢した際、李載義は、今回の来朝は舅甥の好を固めるためであって上国を蹂躙するためではない、部下に略奪をさせるならこちらも殺す、と明言した。すると厳重な防衛兵を置かず門番二人だけにしたにもかかわらず、李暢は恐れ服して令を犯さなかった。
  • 壬申、工部尚書の鄭覃が御史大夫となった。李宗閔は、禁中でしばしば直言する鄭覃を嫌って侍講を外していたが、文宗は殷侑も鄭覃に似た学識を持つと言及した。宗閔が「学問はよいが議論を聞くに足りない」と言うと、李徳裕は「他人は聞きたがらずとも陛下は聞きたがっている」と切り返した。
  • 文宗は十日ほど後に中書を介さず直接、鄭覃の御史大夫任命を宣した。李宗閔が樞密使の崔潭峻に「すべて宣出なら中書は何のためにあるのか」と漏らすと、崔潭峻は「即位八年、天子が自ら政務を行うのもよいことだ」と答え、宗閔は黙るしかなかった。
  • 乙亥、李宗閔は同平章事のまま山南西道節度使に出された。

七月〜八月 王涯入相と宗室政策

  • 壬寅、右僕射の王涯が同平章事となり、度支・塩鉄転運使を兼ねた。
  • 宣武節度使の楊元卿が病んだため後任が論じられ、李徳裕は劉従諫を宣武に移して上党を山東勢力から切り離すことを提案したが、文宗は時期尚早とした。
  • 癸丑、左僕射の李程が宣武節度使となった。
  • 文宗は近世の文士が経術に通じないのを憂えており、李徳裕は楊綰の旧議にならい、進士科は詩賦ではなく論議を試すべきだと進言した。
  • また李徳裕は、玄宗以来の宗室閉居政策を改め、年長で血縁の遠い諸王を出閤させて諸州の上佐に任じ、家族を連れて外へ出して婚嫁も許すべきだと述べた。安史・朱泚の乱で宗室が一宮に集められていたために多くが殺されたことを教訓としたのである。文宗も以前からそれを不可としていたと答えた。
  • 八月庚寅、皇太子冊立にあわせて制を下し、諸王を順次出閤させて緊州・望州の刺史や上佐に任じ、十六宅の県主も時機を見て婚姻させ、進士試から詩賦を停止することを定めた。
  • しかし諸王への具体的除官が決まらず、出閤策は結局実施されなかった。
  • 壬寅、楊志誠に検校右僕射が加えられ、あらためて使者を派して慰撫した。

杜牧の時論

  • 杜牧は、河朔三鎮の横暴に対して朝廷が姑息策に終始することに憤り、『罪言』を著した。
  • そこでは、河北を失ったことで天下の兵力・財力が四肢をもがれたようになっていること、十六衛と府兵制こそ天下の命脈だったのに、開元末に府兵が廃され辺兵が肥大したため、内に兵なく外に偏重が生まれ、安史以後の禍根となったことを論じた。
  • また、近代の節度使が宦官に金品を積んで地位を買い、忠良を斬り、民を収奪し、敗れても軽い処罰で復帰する現実や、宦官・勅使が戦場で陣形にまで干渉して失敗を招く弊害を五つの敗因として整理した。
  • さらに『守論』では、大暦・貞元の「姑息による安定」がかえって藩鎮の膨張と僭越を育て、趙・魏・燕・斉や梁・蔡・呉・蜀の反乱に連なったと批判した。
  • 孫子注の序では、兵は政事の一部であり、宰相が兵を知らぬと言うべきではないと主張し、文武分離の風潮を厳しく戒めた。

九月 鄭注弾劾と宦官の逡巡

  • 前邠寧行軍司馬の鄭注は王守澄に依り、その権勢は盛んで、文宗も深く嫌っていた。
  • 丙寅、侍御史の李款は閤内で、鄭注が内では勅使と通じ、外では朝士と結び、南牙北司の間を往来して財貨を漁り、ひそかに政治権力を盗んでいると弾劾した。旬日のうちに十数通の章奏が重なった。
  • 王守澄は鄭注を右軍に匿った。左軍中尉の韋元素、枢密使の楊承和・王踐言らは鄭注を憎んでいた。左軍将の李弘楚は韋元素に、病を口実に鄭注を呼び寄せ、その場で捕えて杖殺しにし、のちに皇帝へ請罪すればよい、他の宦官も助力するだろうと説いた。
  • 韋元素はこれを受け入れて鄭注を召したが、鄭注は身を低くし言葉巧みにへりくだって取り入り、韋元素はその話に聞き入ってしまった。李弘楚が何度合図しても気づかず、ついには金帛を与えて帰してしまった。
  • 李弘楚は、「今日断を失った以上、他日必ず禍を受ける」と怒って軍職を辞した。ほどなく韋元素は背疽を発して死んだ。
  • 王涯が宰相となれたのも鄭注の力があったうえ、王守澄を恐れていたため、李款の弾劾は握りつぶされた。
  • まもなく王守澄は鄭注を文宗に推薦し、ついに侍御史・右神策判官となった。

冬十二月 尊号再辞退と発病

  • 群臣は、即位八年を経ても尊号を受けていないとして、甲午、「太和文武仁聖皇帝」の尊号を奉ろうとした。
  • ちょうど五坊中使の薛季稜が同州・華州から帰り、民間の疲弊を語った。文宗は、関中でさえやや豊作にすぎないのに民はこれほど苦しい、まして水害続きの江淮はなおさらだとして、自分には救う術がないのに虚名を重ねられないと嘆き、通天犀帯を薛季稜に褒美として与えた。
  • 群臣は四度上表したが、文宗は最後まで受けなかった。
  • 庚子、文宗は中風を発して言葉を発せなくなった。
  • 王守澄は昭義行軍司馬の鄭注が医術に巧みだと推薦し、文宗はこれを徴して入京させた。鄭注の薬は一定の効き目を示し、ここから彼は急速に寵遇を得ていった。