正月 尊号辞退
- 壬子、旱害・水害を理由に繋囚を減刑する詔が出され、群臣は尊号として「太和文武至徳皇帝」を奉ろうとした。
- 右補闕の韋温は、いま災異が続いているのに美称を加えるのは時宜にかなわないと上疏し、文宗はその意を善しとして尊号を受けなかった。
三月 武寧節度使人事と回鶻情勢
- 辛丑、王智興を兼侍中・忠武節度使とし、邠寧節度使の李聴を武寧節度使に移した。
- そのころ回鶻では昭礼可汗が部下に殺され、従子の胡特勒が立った。
- 李聴が以前徐州に関係していたため、彼に従う旧人の蒼頭出身の牙将が徐州におり、李聴の再来を望まなかった。李聴がまず親吏を派して将士を慰労すると、その者は軍士を説いて親吏を殺し、肉を裂いて食わせるまでした。李聴は恐れて病を理由に赴任を固辞した。
- 辛酉、前忠武節度使の高瑀が武寧節度使となった。
五月 蜀の防備強化
- 甲辰、李徳裕は邛崍関を修築し、嶲州の治所を台登城へ移したと奏上した。
七月〜十月 立太子
- 七月、原王李逵が死去した。
- 十月甲子、魯王李永が太子に立てられた。
- 文宗は当初、敬宗の長子である晋王李普が慎み深いとして後継に考えていたが、太和二年に死去したため深く悲しみ、長らく皇太子を定めなかった。ここに至ってようやく決断した。
十一月〜十二月 牛僧孺失勢
- 乙卯、段文昌が荊南から西川節度使に移された。
- 西川監軍の王踐言は、枢密に入るとしばしば文宗に対し、悉怛謀を縛って吐蕃へ送ったのは虜の心を喜ばせただけで、今後の帰降者を絶つ失策だと述べた。文宗も後悔し、とくに牛僧孺の判断を誤りとして責めた。
- 李徳裕に親しい者たちは、牛僧孺が私怨から李徳裕の功を妨げたのだと唱え、文宗はますます牛僧孺を疎んじた。
- 牛僧孺も内心不安を抱くなか、延英殿で文宗が「天下はいつ太平になるのか。卿らにもその志はあるのか」と問うた。
- 牛僧孺は、四夷が至るところで侵略しているわけでもなく、百姓が流散し尽くしているわけでもない以上、理想的ではなくとも「小康」とは言える、もしそれ以上の太平を求めるなら自分たちの力は及ばない、と答えた。
- 退いた後、牛僧孺は同僚に「主上の期待はこうだ。われらが長くこの位にいられるはずがない」と語り、しきりに辞表を出した。
- 十二月乙丑、牛僧孺は同平章事のまま淮南節度使に出された。
- 同月、珍王李誠が死去した。
- 乙亥、昭義節度使の劉従諫が入朝した。
- 丁未、前西川節度使の李徳裕が兵部尚書となった。
李宗閔、李徳裕封じを画策
- 李宗閔は李徳裕と旧怨があり、李徳裕が西川から帰って文宗の厚い信任を得、まもなく宰相になる情勢を恐れて、あらゆる手段で妨害しようとした。
- 党人の京兆尹・杜悰は、宗閔の憂いを見て、李徳裕に科挙出身でないことへのコンプレックスがあるから知貢挙にすれば喜ぶだろうと献策した。宗閔はためらい、次善として御史大夫にする案を採った。
- 杜悰は李徳裕を訪ね、御史大夫就任の意向を伝えた。李徳裕は驚いて涙を流し、「大門官」に自分は過分だとして深く感謝した。
- だがその後、李宗閔は給事中の楊虞卿と再び相談し、この人事は実現しなかった。