資治通鑑唐紀五十九 敬宗睿武昭愍孝皇帝 寶曆 二年 706年

裴度の帰朝と讒言

  • 春正月壬辰、裴度が興元から入朝した。
  • 李逢吉派はこれを恐れ、さまざまな中傷を行った。民間の童謡や、長安城の六岡のうち裴度の宅が第五岡にあることを結びつけ、図讖に応ずる不吉な人物だとした。
  • 張権輿は、裴度の名は讖に当たり、宅地も乾卦の岡を占め、不召自来したのだから意図が疑わしいと上奏した。
  • しかし皇帝は若年ながら、その誣告を見抜いて裴度をますます厚遇した。

裴度の器量

  • 裴度が京師に着くと朝士が門に満ちた。宴席で京兆尹劉栖楚がそっと耳打ちすると、侍御史崔咸は「宰相たる者が府県の所由のようにひそひそ話を許してはならぬ」と杯を進めて罰酒させた。裴度は笑って飲み、栖楚は気まずくなって退出した。
  • 二月辛未、裴度を司空・同平章事とした。
  • 度が中書にいるとき、印が紛失したと左右が騒いだが、裴度は平然として飲酒を続けた。ほどなく元の場所から見つかると、彼は「役人が印を盗んで私文書に押そうとしたのだろう。急げば水火に捨てるが、緩くしておけば戻す」と言い、人々はその識量に服した。

東都行幸中止

  • 皇帝は即位以来、東都行幸を望み、すでに盧貞を遣わして宮城や行宮の修理を調べさせていた。
  • 裴度は、両都制は巡幸の備えとして本来あるが、今の東都は宮殿も官舎も荒廃している。もし行幸するなら、数年かけて徐々に整えた後であるべきだと諭した。
  • 皇帝は、他の者はただ「行くべきでない」としか言わないが、卿の意見なら行かなくてもよいと言った。
  • ちょうど朱克融・王庭湊が兵匠を出して東都修理を助けたいと申し出たため、三月丁亥、「修東都は煩擾が大きい」として工事中止の勅を出した。実際には、幽州・成徳両鎮の兵が関わることを恐れたのである。

朱克融への対処

  • それ以前、朝廷が朱克融に時服を賜ったところ、克融は粗悪だとして勅使を留めたうえ、将士の春衣三十万端匹を度支から支給するよう求めた。さらに宮修理援助として兵と職人五千を出すと奏していた。
  • 皇帝はこれを憂えて重臣を遣わし慰撫させ、勅使も返させようとした。
  • 裴度は、朱克融は山中の猛獣が吠え暴れているようなもので、やがて自滅するから、慰問使も返還要求も不要だと進言した。そして、時服や春衣の件には適度に答え、修宮援助については「必要なら丁匠を送れ」と逆に応じれば、相手は困惑するだろうと述べた。
  • 皇帝はこれに従った。

郭貴妃・李同捷

  • 郭才人を貴妃に立てた。晋王普の母である。
  • 横海節度使李全略が死ぬと、その子の李同捷が勝手に留後を領し、近隣諸鎮に重く賄賂して継承を求めた。これは後の征討の伏線となる。

劉従諫正式任命

  • 夏四月戊申、昭義留後劉従諫を正式に節度使とした。

幽州の変

  • 五月、幽州で軍乱が起こり、朱克融とその子延齢が殺された。先の裴度の見立て通りであった。
  • 軍中は幼子の朱延嗣を立てて軍務を主らせた。

宮廷遊戯と財貨移入

  • 六月甲子、皇帝は三殿で左右軍・教坊・内園に命じ、撃毬・手搏・雑戯を演じさせた。興がたけなわになると、腕を失い頭を割る者まで出たが、夜更けまでやめなかった。
  • 己卯、興福寺に行幸し、沙門文溆の俗講を聴いた。
  • 壬辰、左蔵にある銀十万両・金七千両をことごとく内蔵に移し、下賜に便利なようにした。

道士・僧侶・異人への傾斜

  • 道士趙帰真は神仙術を、僧惟貞・斉賢・正簡らは祈祷の効験を説き、いずれも宮禁に出入りして皇帝の信任を得た。
  • 山人杜景先は、江嶺一帯を遍歴して異人を探したいと願い出た。
  • 潤州人周息元は、自ら数百歳の長寿だと称し、八月乙巳、京師に迎えられて禁中の山亭に館された。

幽州で李載義立つ

  • 朱延嗣は即位後、部下を苛酷に扱った。都知兵馬使李載義は弟の李載寧とともに延嗣を殺し、その一族三百余人も尽くした。
  • 李載義は権知留後となり、九月に延嗣の罪状を列挙して報告した。李載義は太宗太子承乾の後裔である。
  • 庚申、魏博節度使史憲誠は、李同捷が軍士に逐われて帰順しようとしていると虚報し、まもなくまた滄州へ戻ったと奏した。朝廷を公然と愚弄したのである。
  • 壬申、中書侍郎・同平章事李程を河東節度使へ出した。
  • 冬十月乙亥、李載義を盧龍節度使に任じた。

敬宗弑逆

  • 十一月甲申、李逢吉を山南東道節度使として外へ出した。
  • 皇帝はますます遊戯にふけり、群小と親しみ、撃毬や手搏を好んだ。禁軍や諸道は力士を競って献じ、皇帝も内園に大金を与えて力士を募らせた。
  • 深夜には自ら狐を狩るのを好み、しかも気性が狭く短気で、力士や宦官に少しの不遜や過失があれば、すぐ流罪や没収、鞭打ちに処した。このため近習たちは皆、怨みと恐れを抱いた。
  • 十二月辛丑の夜、皇帝は狩猟から帰り、宦官劉克明・田務澄・許文瑞、撃毬軍将蘇佐明・王嘉憲・石従寛・閻惟直ら二十八人と酒を飲んだ。
  • 酒に酔って室内で更衣した際、殿上の燭がにわかに消え、蘇佐明らは室内で皇帝を弑した。年十八。
  • 劉克明らは詔を偽作し、翰林学士路隋に遺制を書かせて、絳王悟に軍国事を仮に統べさせようとした。
  • 壬寅、遺制が宣され、絳王は百官に紫宸外廡で会した。
  • だが劉克明らが内侍の権力配置まで変えようとしたため、枢密使王守澄・楊承和、中尉魏従簡・梁守謙らは議を定め、衛兵を率いて江王涵を宮中へ迎え、左右神策・飛龍兵を発して賊党を討った。
  • 劉克明は井戸へ身を投げたが、引き上げられて斬られた。絳王も乱兵に殺された。
  • この非常時、一切の処置は翰林学士韋処厚が深く関わって決められた。守澄らが名分をどう掲げるか迷うと、処厚は「正名して罪を討つだけでよい。ためらう必要はない」と述べた。また、江王の即位手順についても、まず王教で内難平定を告げ、次に群臣三表で勧進し、太皇太后の令で冊命すべきだと提案し、皆これに従った。

文宗即位

  • 癸卯、裴度を冢宰摂行とし、百官は江王に紫宸外廡で謁見した。王は素服で涙を流した。
  • 甲辰、諸軍使には少陽院で会見した。
  • 趙帰真ら術士や、敬宗朝に寵を得た佞幸はみな嶺南や辺地へ流された。
  • 乙巳、江王が即位し、名を昂と改めた。これが文宗である。
  • 戊申、母の蕭氏を皇太后、王太后を宝暦太后とした。郭太后は興慶宮、王太后は義安殿、蕭太后は大内に住み、文宗は三宮にひとしく孝養した。

文宗初政

  • 庚戌、韋処厚を中書侍郎・同平章事とした。
  • 文宗は諸王の時代から穆宗・敬宗両朝の弊害をよく知っており、即位すると奢侈を去り倹約を取り、政治刷新に努めた。
  • 職掌のない宮女三千余人を放出し、五坊の鷹犬も元和年間の例に照らして必要最小限を残して放した。
  • 宮中への年次支出は貞元年間の旧例に戻し、教坊・翰林総監などの冗員千二百余人を減らした。
  • 諸司に新たに加えられていた衣糧も停止し、御馬坊場や近年別蔵として囲い込んでいた池田も有司へ返した。
  • 先に要求していた組織・彫鏤の珍玩もすべて停止した。
  • 敬宗の世には月に一、二度しか朝見しなかったが、文宗は旧制に復し、奇数日ごとにほぼ必ず視朝し、宰相や群臣と政事を論じ、待制官もたびたび召し出して意見を聞いた。中外はこぞって賀し、太平の到来を期待した。