資治通鑑唐紀五十九 敬宗睿武昭愍孝皇帝 寶曆 元年 705年
南郊と改元
- 春正月辛亥、皇帝は南郊で祭祀を行い、還って丹鳳楼に御し、大赦を行って改元し、宝暦元年とした。
崔発事件
- 先に鄠県令崔発は、外で騒ぐ者を取り押さえさせたところ、それが五坊の横暴を働く中使であると後で判明した。彼は暗くなってから厳しく取り調べたが、相手が中使と知れて皇帝は怒り、崔発を御史台に繋いだ。
- 赦の日、崔発は他の囚人とともに金鶏の下に立たされていたが、数十人の品官が棍棒を持って乱入し、顔を打ち歯を折って瀕死にした。さらに続いて殴ろうとする者も現れ、台吏が席で覆ってようやく助けた。
- 皇帝はなお崔発を再び台獄に繋ぎ、他の囚人のみを赦した。
- 牛僧孺は皇帝の荒淫と嬖幸の専横を憂えながら、罪を恐れて直言せず、ただたびたび外任を願い出た。
- 乙卯、鄂岳を武昌軍に昇格させ、牛僧孺を同平章事のまま武昌節度使に出した。
- 中旨で王播を再び塩鉄転運使に兼ねさせたが、諫官がたびたび争っても皇帝は聞き入れなかった。
柳公綽の礼
- 牛僧孺が襄陽を通過した際、山南東道節度使柳公綽は甲冑を整え、館舎で礼を尽くして迎えた。
- 部下が、襄陽は夏口より格上なのに礼が重すぎると諫めると、公綽は「重んずべきは宰相の身分であり、それは朝廷を尊ぶことになる」と述べ、礼を改めなかった。
李徳裕の「丹扆六箴」
- 二月壬午、浙西観察使李徳裕は「丹扆六箴」を献じた。
- その内容は、視朝の遅れ、服飾の乱れ、珍玩の徴収、諫言の軽視、群小の信任、遊幸の頻繁といった点を戒めるものだった。
- 皇帝は優詔をもって答えた。
崔発赦免
- 給事中李渤は、崔発が中人を曳いたことも、中人が御囚を殴ったこともどちらも罪だが、崔発は赦前、中人は赦後の罪であり、後者こそ厳しく処断すべきだと上言した。
- 諫議大夫張仲方らも、恩沢は万物に及ぶのに崔発だけを除外するのはおかしいと論じたが、皇帝は聞かなかった。
- 戊子、李逢吉らは機を見て、崔発の老母が病に伏していることを持ち出し、皇帝の孝を刺激した。皇帝はそこで初めて赦免を命じ、中使に家まで送らせ、母を慰撫させた。
- しかし母は中使の前で崔発を四十杖打った。子が軽率に宦官を曳いたことを家法として責めたのである。
回鶻冊立
- 三月辛酉、司門郎中于人文を遣わし、回鶻の曷薩特勒を新可汗として冊立した。
尊号と赦文修正
- 夏四月癸巳、群臣は皇帝に「文武大聖広孝皇帝」の尊号を上った。
- 赦文には「すでに量移された左降官はさらに量移する」とだけあり、まだ量移されていない流貶官への措置が書かれていなかった。
- 韋処厚は、これは李逢吉が李紳だけは赦しの対象から外そうとしたためであり、これでは近年の流貶官すべてが李紳一人のために妨げられると指摘した。
- 皇帝はただちに赦文を追回して修正し、李紳は江州長史へ移された。
王播の献納と競渡船
- 秋七月甲辰、塩鉄使王播は余剰として絹百萬匹を進めた。だがその裏では徴斂が厳しすぎ、正規収入では足りず、苛斂酷求で余剰を作っていた。
- 己未、皇帝は王播に競渡船二十艘の建造を命じ、材木を京師へ運ばせようとした。半年分の転運費に相当する出費となる見込みであった。
- 張仲方ら諫官が強く諫めたため、船数は半減された。
劉従諫の留後要求
- 昭義節度使劉悟が八月に急死すると、その子の劉従諫は喪を隠し、親兵や大将劉武徳と謀って、遺表を利用し留後を求めようとした。
- 司馬賈直言は面と向かって「お前の父は十二州の地を朝廷に帰した大功臣なのに、張汶の一件で恥辱を抱いて死んだ。その子が父の死にも泣かぬとは何事か」と叱責した。従諫は恐れて喪を発した。
- これより前、武昭が李逢吉刺殺を語った事件もあり、九月に三司が取り調べた。李程と不仲の李逢吉派が関わり、李仲言は茅彙に偽証を強いたが、彙は拒んだ。
- 冬十月甲子、武昭は杖死、李仍叔は道州司馬へ、李仲言は象州へ流され、茅彙は崖州へ流された。
驪山行幸への諫止
- 皇帝は驪山温湯への行幸を望んだ。李絳・張仲方らがたびたび諫め、拾遺張権輿は紫宸殿下に伏して、周幽王・秦始皇・玄宗・穆宗の前例はいずれも驪山に関わって凶事に至ったと論じた。
- 皇帝はむしろ「本当に凶地かどうか試してみよう」と言い、十一月庚寅、温湯に赴いてその日のうちに還った。そして「あの者の言など信じるに足りない」と言った。諫言を顧みぬ姿勢である。
劉従諫問題と李絳の建議
- 朝廷では劉悟の遺表を受け、昭義をどう処分するか議論となった。上党は河朔とは違い内地の鎮だから従諫を認めるべきでない、という意見が多かった。
- 左僕射李絳は、兵機は迅速さが肝要であるとして、ただちに近隣の将を昭義節度使に任じ、繒五十万匹を持たせて赴任させれば、軍心は新主に帰し、従諫に統率力も資金力も乏しい以上、抵抗は難しいと上疏した。
- だが李逢吉と王守澄はすでに方針を決めており、この策は用いられなかった。
- 十二月辛丑、劉従諫を昭義留後とした。劉悟は苛酷であったが、従諫は寛厚さを示したため、軍中には従う者が多かった。
李絳の礼制主張と失脚
- 李絳は直言を好み、李逢吉はこれを憎んだ。
- 旧制では僕射はもとは正宰相格であり、百官の礼遇も重かった。中丞王播は逢吉の勢いを頼んで、李絳と道で会っても避けなかった。
- 李絳は旧例を引いて、もし位に不相応な人材なら別職に任ずべきで、朝命によってその官にある者に対して礼法を欠いてはならぬと奏した。議者の多くが賛成し、旧儀が復活した。
- 甲子、李絳は足病を理由に太子少師・分司となった。
裴度の入朝
- 裴度の賢を称えて藩鎮に置くべきでないとの意見が多く、皇帝もしばしば使者を興元に遣わして慰労し、復帰時期を示唆していた。
- 裴度はこれを受けて入朝を求め、翌年正月、ついに実現する運びとなった。