資治通鑑唐紀五十九 穆宗睿聖文惠孝皇帝下 長慶 四年 704年
元日の朝会と方士批判
- 春正月辛亥朔、皇帝は初めて含元殿で朝会を受けた。即位後すでに四年であったが、この年の元日にようやく正牙での大朝会を行った。
- かつて柳泌らが誅されて以後も、方士は再び側近を通じて出入りしていた。皇帝も金石の薬を服していた。
- 処士張皋は上疏し、心を澄ませ欲を節すべきで、病がないのに薬を服してはならない、先帝も方士の妄説を信じて薬害で病を得たではないか、と痛切に諫めた。
- 皇帝はその言を嘉したが、張皋本人を探させても見つからなかった。
黄洞蛮の再侵攻と穆宗崩御
- 丁卯、嶺南から黄洞蛮が欽州を襲い、将吏を殺したとの報が届いた。
- 庚午、皇帝の病が再発し、壬申には危篤となった。皇太子に監国を命じた。
- 宦官たちは郭太后に臨朝称制を請おうとしたが、太后は武后の前例を引いてこれを厳しく拒み、太子が幼くとも賢相が補佐すれば足りるとして、宦官が朝政に関わるなと戒めた。制書を手で裂いて退けた。
- その兄の郭釗も、もしその議に従うなら自分は一族を率いて官爵を返上し田里に帰ると密奏した。太后は涙を流してこれを喜んだ。
- その夜、皇帝は寝殿で崩じた。年三十。
敬宗即位
- 癸酉、李逢吉を冢宰摂行とした。
- 丙子、皇太子が太極殿東序で即位した。これが敬宗である。
神策軍への賞与
- 先に穆宗即位時、神策軍の兵士には一人あたり五十千の大きな恩賞が出ていた。
- 今回は宰相たちが「前例が厚すぎて今後継続できない」として詔を起草し、宿衛の勤労は賞すべきだが、旱害や財政難、辺軍の衣料不足もあるとして、神策軍には絹十匹・銭十千、畿内諸鎮にはさらに少なく与え、加えて内庫から綾二百万匹を度支に回して辺軍の春衣に充てた。世論はこれを善政とした。
宦官への濫賞
- 戊寅から庚辰にかけて、敬宗は宦官たちに服色・錦彩・金銀を次々と与えた。今日は緑、明日は緋という具合で、近習に対する恩賞は際限がなかった。
李紳失脚の工作
- 李逢吉はもともと李紳を深く憎んでいた。李紳の族子李虞が、かつて李紳を批判する手紙をめぐって恨みを抱き、逢吉に接近して李紳が密かに逢吉を論じていた内容をすべて告げた。
- 逢吉は張又新・李仲言らに命じて李紳の欠点を探させ、士大夫の間に流布させた。また、李紳が群れて議論する者を朋党として皇帝に密告している、と噂して士大夫の反感も誘った。
- 敬宗が即位すると、逢吉一派は李紳の失勢を喜びつつ、再起を恐れて害そうとした。楚州刺史蘇遇は、新帝が延英で次対官を引見する前に手を打たねばならないと進言した。
- 逢吉は王守澄を通じて、「殿下が皇太子となったのは逢吉の力であり、杜元穎や李紳らは深王を立てようとしていた」と吹き込ませた。李続之らも追従した。
- 敬宗はまだ十六歳で疑い半ばだったが、逢吉もまた李紳が自分に不利だと奏請し、ついに二月癸未、李紳を端州司馬へ左遷した。
- 逢吉は百官に表賀させ、さらに中書へも祝賀に来させた。門前で張又新は、自分こそ李紳追放の立役者だと公言して人々を震え上がらせた。
- 右拾遺の呉思だけは祝賀に加わらず、逢吉は怒って彼を吐蕃への告哀使に出した。
- 丙戌、龐厳を信州刺史、蔣防を汀州刺史へ左遷した。二人はいずれも李紳に引き立てられた人物だった。
- 給事中于敖は龐厳・蔣防と親しく、勅書を封還して減刑に抗議するのかと周囲に見られたが、実際には「この処分は軽すぎる」と言って逢吉に取り入った。
- 張又新らはなお李紳を憎み、ついには死に追いやろうとまで上書した。
- ただ一人、翰林侍読学士韋処厚だけが上疏し、李紳は逢吉の党による讒言で陥れられたのであり、たとえ罪があっても先帝に用いられた者をすぐに重罪にすべきではない、と論じた。皇帝もようやく心を開き始めた。
- その後、宮中文書を閲覧した際、穆宗の文書箱から裴度・杜元穎・李紳らが敬宗を太子に立てるよう請うた上疏が見つかり、敬宗は感嘆して李紳を誣告する書をすべて焼いた。以後は、李紳を害そうとする言を聞き入れなくなった。
太后尊号と遊宴
- 己亥、郭太后を太皇太后とした。
- 乙巳、敬宗の母王妃を皇太后とした。王太后は越州の人である。
- 丁未、皇帝は中和殿で撃毬を行い、以後しばしば遊宴・撃毬・音楽に耽った。宦官や楽人への恩賞は数え切れない。
天下赦と延英対見
- 三月壬子、天下を赦し、諸道に対して常貢以外の進奉を禁じた。
- 甲寅、皇帝は初めて延英殿で宰相と対した。
牛元翼一族の誅殺
- かつて襄陽にいた牛元翼は、王庭湊にしばしば賄賂を送って家族の返還を求めたが、許されなかった。
- その牛元翼が死ぬと、甲子、王庭湊はその家族を皆殺しにした。
遅い朝見への諫争
- 皇帝は朝見に出る時刻がしばしば遅く、戊辰には日が高くなってもまだ着座しなかった。百官は紫宸門外に整列したまま、老病者の中には倒れそうになる者もいた。
- 諫議大夫李渤は宰相に抗議し、さらに左拾遺劉栖楚が独り残って面前で激しく諫めた。先帝らでさえ天下には叛乱が多かったのに、陛下は若くして即位したばかりでありながら、寝坊・色欲・音楽にふけり、梓宮がまだ殯にあるのに鼓吹が騒がしい、悪名が遠くまで広まる、と述べ、頭を石段に打ちつけて流血した。
- 栖楚はさらに宦官のことまで論じ、皇帝に退出を命じられても従わず、「用いないなら死をもって諫める」と言った。
- 宰相牛僧孺は上意を伝えてようやく退かせた。のちに皇帝は中使を遣わして李渤と栖楚を慰撫し、まもなく栖楚を起居舍人に抜擢し緋衣を賜ったが、栖楚は病を理由に受けず東都へ去った。
八関十六子と李逢吉派
- 夏四月甲午、淮南節度使王播を塩鉄転運使から解いた。
- 乙未、布衣の姜洽を補闕・試大理評事に、陸洿・李虞・劉堅を拾遺に任じた。
- このころ李逢吉に近い者として、張又新・李仲言・李続之・李虞・劉栖楚・姜洽・張権輿・程昔範らが知られ、さらにこれに追随する者もいた。世人は彼らを「八関十六子」と呼んで批判した。
張韶・蘇玄明の乱
- 卜者蘇玄明は染坊の供人張韶と親しく、「お前は殿上に座る身になる」と占って煽った。敬宗が昼夜球技や遊猟にふけり、宮中に不在のことが多いのを見て、二人は事を起こせると考えた。
- 染工の無頼者百余人を集め、丙申、武器を紫草車に隠して銀台門から宮中へ運び込んだ。
- 夜に至って疑われると、張韶らはこれを殺し、禁中へ突入した。皇帝は清思殿で撃毬中だったが、宦官たちは驚いて門を閉じ、盗賊が入ったと告げた。
- 皇帝は右軍へ逃れようとしたが、近い左軍へ向かうよう勧められ、左神策中尉の馬存亮が迎えて軍中へ入れた。馬存亮は涙を流して皇帝を背負って入った。
- 康藝全が騎兵を率いて宮中に入り、右軍兵馬使尚国忠とともに乱兵を討った。また馬存亮は五百騎を派して二太后も保護した。
- 張韶は清思殿の御榻に座り蘇玄明とともに飲食したが、玄明は「事はここまでなのか」と驚き、張韶は恐れて逃げた。ほどなく官軍がこれを撃ち、張韶・蘇玄明以下を斬った。死体は入り乱れ、夜になってようやく鎮定された。
- 翌日、残党も捕らえられた。宮門は閉ざされ、皇帝がどこにいるか外には分からず、都人は大いに動揺した。
- 丁酉、皇帝は還宮した。宰相以下が延英門で賀したが、参集した者は数十人にすぎなかった。
- 盗賊が通過した諸門を守っていた監門宦官三十五人は本来死罪相当だったが、己亥の詔で杖刑にとどめ、職も解かなかった。両中尉や宦官への配慮が働いたのである。
- 壬寅、左右神策軍の立功将士に厚賞を与えた。
李程・竇易直の入相
- 五月乙卯、吏部侍郎李程と、戸部侍郎で判度支の竇易直をともに同平章事とした。
- 皇帝が宰相人事を李逢吉に問うた際、当時資望のある大臣を列挙させ、その筆頭が李程だったため起用された。
- 皇帝は宮殿の新築を好んだが、李程が用意済みの木石を山陵に回すよう諫めると、ただちに従った。
裴度の復権
- 六月己卯朔、康藝全を酈坊節度使とした。張韶討伐の功に対する賞である。
- 皇帝は王庭湊が牛元翼の家族を虐殺したことを聞き、宰相たちの無能を嘆いた。
- 韋処厚は上疏し、裴度は勲功・名望ともに群を抜くのだから朝廷に留めて河北・山東の軍政を裁決させるべきだ、人を信じて用い、効がなければ初めて退けるのでなければ人材は育たない、と説いた。
- 皇帝が、裴度の奏状に平章事の字がないのはなぜかと問うと、韋処厚は李逢吉がこれを妨げた事情を詳しく述べた。李程も裴度を厚遇すべきだと進言した。
- 丙申、裴度に同平章事を加えた。
温造の弾劾
- 七月、馬百五十匹が進上されたが、皇帝は受け取らなかった。
- 甲戌、侍御史温造は閤内で李祐が禁令に背いて進奉を行ったと弾劾した。詔により罪は許されたが、李祐は「私はかつて夜中に蔡州城へ入って呉元済を捕えた時でも心が動かなかった。今日は温御史の前で胆を落とした」と語った。
牛心山修補と異国献上
- 八月、安南から黄蛮の侵入が報じられた。
- 龍州刺史尉遅鋭は、牛心山は王朝祖先に関わる霊地であり、断ち切られた山脈を補修すべきだと上奏した。朝廷はこれに従い、絶険の地に数万人を動員したため、東川は大いに疲弊した。
- 九月丁未、波斯の李蘇沙が沈香で作った亭子材を献じた。左拾遺李漢は、これは瑶台瓊室にも等しい奢侈であると諫めた。皇帝は怒りつつも処罰はしなかった。
韋処厚の再諫と穆宗葬送
- 冬十月戊戌、翰林学士韋処厚は、先帝は酒色のために病を得て寿を損ねた、今や皇子はまだ一歳にすぎず、死を恐れて諫めないわけにはいかないと述べた。皇帝は感動して錦彩百匹と銀器四十を賜った。
- 十一月戊午、安南から黄蛮が環王と結んで陸州を落とし、刺史葛維を殺したと報じられた。
- 庚申、穆宗を光陵に葬り、廟号を穆宗とした。
王播の利権回復工作
- 王播は十万緡を王守澄に賄賂として送り、塩鉄の利権を再び握ろうとした。
諫官の弾劾と劉栖楚の昇進
- 十二月癸未、独孤朗・張仲方・柳公権・宋申錫・李景譲・薛廷老らが、延英を開いて奸邪を論じるよう請うた。
- 皇帝は「以前、廷で争った者は今いないのか」と尋ね、その日のうちに劉栖楚を諫議大夫に任じた。
- 庚寅、天平節度使烏重胤に同平章事を加えた。
泗州戒壇の設置問題
- 乙未、徐泗観察使王智興は、皇帝の誕生日の福徳を祈るため、泗州に戒壇を設けて僧尼を度したいと願い出た。
- 元和以来、朝廷はこうした濫度を禁じていたが、王智興は財貨を集めるために真っ先にこれを請い、許されると四方から人が群がった。とくに江淮で盛んとなり、王智興の家産は巨万に至った。
- 浙西観察使李徳裕は、このままでは誕生日までに両浙と福建だけで六十万を失うと上言した。奏が届くと、その日のうちに戒壇は停止された。
回鶻の王位交替
- この年、回鶻の崇徳可汗が死に、弟の曷薩特勒が立った。