資治通鑑唐紀五十九 穆宗睿聖文惠孝皇帝下 長慶 三年 703年
正月・二月の恩賜
- 春正月癸未、皇帝は左右神策軍の中尉以下に銭を下賜した。
- 二月辛卯、統軍・軍使らにも錦・彩帛・銀器などを身分に応じて与えた。
牛僧孺の宰相任命と牛李の対立激化
- 戸部侍郎の牛僧孺は、もとより皇帝の信任が厚かった。韓弘の遺産をめぐる訴訟で、韓弘が諸方面の有力者に賄賂を送っていた記録が調べられたが、牛僧孺だけは大金を受け取らなかったことが判明し、皇帝はいっそうその廉潔を喜んだ。
- 三月壬戌、牛僧孺を中書侍郎・同平章事とした。
- 当時、牛僧孺と李徳裕はいずれも宰相候補と目されていた。李徳裕は浙西観察使として長く据え置かれており、自身が登用されなかったのは李逢吉が牛僧孺を推したためだと疑った。このため、牛党と李党の対立はいっそう深まった。
安南・嶺南方面の騒乱
- 夏四月甲午、安南から、陸州で獠が州県を襲撃しているとの報が届いた。
- 七月癸亥、嶺南から黄洞蛮が邕州に侵攻し、左江鎮を破ったと奏上された。
- 丙寅にはさらに、黄洞蛮が欽州の千金鎮を破り、刺史楊嶼が石南寨へ逃れたという報が届いた。
- 八月癸巳、邕管が黄洞蛮を撃破したと奏上した。
宣徽院・宦官周辺への厚遇
- 四月丙申、宣徽院の供奉官以下に大量の銭を与え、紫衣の者から承旨に至るまで差等を設けて下賜した。皇帝の近侍・内廷機関への褒賞はこの種のものが多く、記し尽くせないほどであった。
鄭注の台頭
- もと翼城の鄭注は、容貌こそ見すぼらしかったが、才知と追従に長け、医術をもって各地を渡り歩いた。
- 徐州で李愬に取り立てられて軍政に関与し、さらに監軍王守澄に取り入って強い後ろ盾を得た。王守澄が枢密を掌握すると、鄭注もこれに従って住居や俸給を与えられ、ついには皇帝にも推薦された。
- 皇帝が病を得て以後、王守澄が国政を専断するようになると、鄭注はその家に昼夜出入りして密議を重ね、賄賂や人事の仲介にも関わった。数年のうちに、彼の門前には高官の車馬が群がるようになった。
- 工部尚書鄭権は生活苦から守澄への取り次ぎを鄭注に頼み、その結果、己酉に嶺南節度使へ転じた。
柳公綽の法の運用
- 五月壬申、尚書左丞の柳公綽を山南東道節度使とした。
- 赴任途中、鄧県で二人の官吏の事件を裁いた。一人は収賄、一人は法文を弄して人を陥れた者であった。人々は賄賂を取った方が死罪になると思ったが、柳公綽は「賄賂の罪は法にあるが、法を歪める者は法そのものを亡ぼす」として、後者を誅した。
保義軍の設置
- 丙子、晋州・慈州の二州をもって保義軍とし、観察使李寰を節度使とした。
韓愈の京兆尹任命
- 六月己丑、吏部侍郎韓愈を京兆尹とした。
- 六軍の兵たちは「この人はなお仏舎利を焼こうとしたほどの人物だ、法を犯してよい相手ではない」と私語し、違法行為を控えた。
南詔王位継承
- 南詔では勧利が死去し、国人がその弟の豊祐を立てることを請うた。
- 豊祐は勇敢で人心の扱いに長け、父祖のように名を連ねず、中国風のあり方を慕った。これは後の南詔強盛の伏線となった。
皇帝の遊興と濫賞
- 八月丙申、皇帝は複道を通って興慶宮へ赴き、通化門楼から絹二百匹を投げて山僧に施した。
- 皇帝の下賜には、このように節度を欠いた類が多く、いちいち記しきれない。
裴度の外任
- 癸卯、左僕射裴度を司空・山南西道節度使とし、宰相職は兼ねさせなかった。
- 李逢吉は裴度を憎み、右補闕張又新らもこれに同調して裴度を中傷したため、ついに朝廷から外へ出された。
李紳排斥の布石
- 九月丙辰、昭義節度使劉悟に同平章事を加えた。
- 李逢吉は王守澄と結んで朝廷内外に大きな勢力を築いたが、翰林学士李紳だけはたびたび皇帝の諮問に応じて逢吉の案に難色を示し、人事案にも多く批判を加えた。
- 李逢吉はこれを憂い、御史中丞の欠員に李紳を推薦して内廷から遠ざけようとした。皇帝はこれを認めた。
- そこで李逢吉は、京兆尹で御史大夫を兼ねる韓愈と李紳との間で、台参や文書往復をめぐる争いをあえて激化させた。
- 冬十月丙戌、韓愈を兵部侍郎、李紳を江西観察使へ出した。
- しかし韓愈と李紳が辞謝の際にそれぞれ事情を訴えると、皇帝は真相を悟り、壬辰に韓愈を吏部侍郎、李紳を戸部侍郎として呼び戻した。
杜元穎の西川転出
- 己丑、中書侍郎・同平章事の杜元穎を同平章事のまま西川節度使に任じた。のちの西川騒乱の伏線となる。