資治通鑑唐紀 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝 元和 十四年 819年
二月 淄青討伐の進展
- 李聽が海州を奇襲し、東海・朐山・懷仁などの県を攻略した。
- 李愬は沂州で平盧軍を破り、丞県を奪取した。
李師道の疑心と劉悟への警戒
- 官軍の圧迫を聞いた李師道は、鄆州の城壁や濠を修築させ、婦人にまで動員を及ぼしたため、民衆の恐怖と怨みはいっそう深まった。
- 都知兵馬使の劉悟は、陽穀に一万余を率いて駐屯したが、軍中で寛大にふるまい、兵に慕われて「劉父」と呼ばれた。
- 田弘正が黄河を渡って進撃すると、劉悟軍は備えが薄く、しばしば敗れた。これを見て李師道の側近は、劉悟が軍規を整えず兵心ばかり集めるのは異志の兆しだと訴え、早く除くべきだと勧めた。
- 李師道は劉悟を呼び寄せて殺そうとしたが、いま官軍に包囲される中で有力将を失えば他の諸将も離れるとの諫めで思いとどまり、十日ほど留めたのち贈り物を与えて帰した。
- 劉悟は自分が疑われたと悟り、帰営後はひそかに備えを固めた。
- 李師道は劉悟の子・劉從諫を門下別奏に取り立てたが、これは軍門の近侍として差し置くもので、劉從諫は李師道の家中で日ごろ耳にした密謀を父に知らせた。
劉悟の決起と鄆州急襲
- 丙辰、李師道は密かに使者二人を張暹のもとに送り、劉悟を討ち取らせようとした。
- しかし張暹はもともと劉悟と親しく、表向きは使者に従うふりをしながら、ひそかに劉悟へ計画を知らせた。劉悟は先に使者を捕えて殺し、夕刻にゆっくりと営へ戻って厳重に自衛した。
- 劉悟は諸将を集め、李師道は讒言を信じて自分の首を求めている、自分が死ねば次は諸君だと告げたうえで、天子が誅したいのは李師道一人なのだから、旗を巻いて鄆州へ帰り、朝命を奉じて李師道を討てば危難を免れるだけでなく富貴も得られると説いた。
- 諸将のうち趙垂棘が成否を問い、他にもためらう者がいると見るや、劉悟はこれを李師道との通謀とみなして次々に斬り、さらに軍中で嫌われていた者も合わせて三十余人を処刑した。残る者は震え上がって従った。
- 劉悟は、入城後は兵庫に近づくなと命じた一方、節度使の邸宅や逆党の財産は略奪を許し、恨みのある者には報復させる方針を示して兵を鼓舞した。
- 夜半、兵は口に枚を含み、馬の口を縛って密かに出発した。途中で人に会えば捕え、鄆州近くまで誰にも知らせなかった。
- 夜明け前、城上の柝の音が止むのを待って先鋒十人を城門へ進ませ、「劉都頭が帖を奉じて入城する」と言わせた。門番が李師道へ取り次ごうとすると、先鋒が刃を示して脅し、門番は逃げ散った。
- 劉悟の本隊が続いて突入すると、子城はすでに開かれ、牙城だけが抵抗した。やがて火を放って門を壊し、突入した。
李師道父子の最期
- 劉悟は兵に命じて李師道を捜索させ、李師道と二人の子は便所の寝台の下に隠れているところを見つかった。
- 劉悟は、密詔を奉じて李師道を都へ送るのだが、いまさらどんな顔で天子に会えるのかと告げた。李師道はなお生存を望んでいる様子だったが、その子の李弘方が、ここまで来た以上は早く死ねるのが幸いだと言ったため、ほどなく父子ともに斬られた。
- 李正己以来、淄青を四代五十四年にわたって保ってきた李氏の勢力は、ここに滅んだ。
鄆州平定後の処置
- 劉悟は城内を鎮定し、両都虞侯に市中巡察を命じ、略奪を禁じた。午頃にはおおむね秩序が回復した。
- 兵民を毬場に集めて自ら馬で巡り、慰撫した。
- 李師道の謀議に加わった者二十余家を処刑し、獄にあった賈直言を出して幕府に迎え入れた。
- 劉悟は陽穀から鄆州へ向かう際、あらかじめ田弘正へ密使を送り、もし入城に失敗したら援軍を頼み、成功したときは功績をすべて田弘正に帰すと伝えていた。
- 田弘正は烽火を見て成功を知り、使者を送って祝賀した。劉悟は李師道父子三人の首を函に納めて田弘正の軍へ送った。
- 田弘正は勝利を朝廷へ急報し、淄青十二州がすべて平定されたと奏した。
- 田弘正は当初、届けられた首が本当に李師道のものか疑い、夏侯澄に確認させた。夏侯澄は首を見て長く泣き伏し、抱いて塵をぬぐいながら慟哭したが、田弘正はその旧恩を咎めなかった。
朝廷の淄青分割と劉悟の転任
- 壬戌、田弘正の捷報が届き、乙丑に楊於陵を淄青宣撫使とした。
- 己巳、李師道の首級が到着した。安史の乱後、広徳以来およそ六十年、河南・河北三十余州の藩鎮は官吏任命や租税を朝廷から独立して行ってきたが、ここに至ってすべて朝廷の統制に従う形となった。
- 楊於陵は地図や戸籍、兵馬、倉庫の実情を調べ、旧李師道領を三道に分割する案を作った。鄆・曹・濮を一道、淄・青・齊・登・萊を一道、兗・海・沂・密を一道とし、朝廷もこれを採用した。
- 劉悟は、かつての詔に「李師道を殺して降る部将には、その官爵を与える」とあったので、自分が十二州全体を得るつもりで、すでに文武の人事や州県長官の交代を進めていた。
- 憲宗は劉悟を他鎮へ移すと拒むおそれがあり、再び兵を用いることを避けるため、田弘正にひそかに様子を探らせた。
- 劉悟は力自慢で、鄆州奪取後は連日、軍中の壮士に相撲を取らせ、魏博の使者にも見せて上機嫌だった。田弘正はその報を聞き、転任の命令が出ればすぐ従う人物だと見抜いた。
- 庚午、劉悟を義成節度使に任じる詔が出ると、劉悟は驚きうろたえたが、翌日には出発した。
- 田弘正は各道の兵を率いて城西まで迫っており、客亭で劉悟と会って節を受け継ぎ、そのまま滑州へ赴いた。
- 劉悟は李公度・李存・郭昈・賈直言らを召して随行させた。
李文會の誅殺
- 劉悟は旧知の李文會を鄆州へ呼び寄せていたが、到着前に自分の転任が決まった。
- 郭昈・李存は、李文會は佞臣で淄青を乱し、李師道一族を滅ぼした張本人であり、万人の怨敵だから今のうちに殺して三齊の怨みを晴らすべきだと考えた。
- そこで劉悟の命令書を偽造し、使者に李文會の首を取らせた。使者は豊齊駅で李文會を斬ったが、帰着したときには劉悟らはすでに出発しており、命令の出どころを問う者もいなかった。
- 李文會の一子は逃亡し、一子は獄死した。家財は略奪され、田宅は官収された。
- 劉悟の功を称えて、淄青行営副使の張暹は戎州刺史に任じられた。
田弘正の統治
- 癸酉、田弘正に検校司徒・同平章事を加えた。
- 李師道が敗色を見せた数か月前から、鄆州では風が吹き鳥が飛ぶだけでも変事を疑い、親族・知人の宴会や街路での私語まで禁じていた。
- 田弘正は入城後、こうした苛酷な禁令をすべて撤廃し、自由な往来や遊楽を許し、寒食の時節には七昼夜も通行を禁じなかった。
- 周囲は、長く賊地だった鄆州ではまだ人心が安定していないから、厳重な警戒が必要だと諫めた。
- しかし田弘正は、暴政を行う者を除いた以上、次は寛大さを施すべきで、再び厳しく監視すれば「桀をもって桀に代える」ようなもので少しも改善にならないと答えた。
- 以前、李師道はたびたび刺客を関中に送り、陵墓の戟を切らせ、倉場を焼かせ、流言飛語で京師を震え上がらせて官軍の士気をくじいていた。潼関の役人は旅人の袋や箱まで検査したが、防ぎ切れなかった。
- 田弘正が李師道の文書を調べると、武元衡暗殺の実行者に対する褒賞記録や、潼関・蒲津の吏卒への支払い記録が見つかり、かつての妨害は関津の役人が賊から賄賂を受けて手引きしていたことが明らかになった。
裴度の献書
- 裴度は、蔡州・鄆州の平定に至るまでの憲宗の憂慮や作戦上の働きをまとめ、宴席でこれを献上し、内廷の印を押して史官に渡すよう請うた。
- 憲宗は、それでは自分から望んで記録させたように見えてしまうとして許さなかった。
三月 平盧旧領の再編
- 戊子、馬摠を鄆曹濮節度使とした。
- 己丑、薛平を平盧節度使・淄青齊登萊観察使、王遂を沂海兗密観察使とした。
- これ以後、淄青の節度号は平盧に専属し、鄆州にはのちに天平軍の号が与えられることになる。
- 横海節度使の烏重胤は、河北諸鎮が長年朝命に逆らえたのは、各州県に鎮将を置いて刺史・県令の権限を奪わせたからだと奏した。自ら徳・棣・景三州では州兵を刺史の管轄に戻したと述べ、以後、諸道でも支郡の兵馬は刺史に統轄させるべきだと主張した。
- 四月丙寅、朝廷はこれを認め、諸道の支郡兵馬を刺史に属させるよう命じた。
宰相人事と諫言
- 辛未、同平章事の程异が死去した。
- 裴度は宰相として率直に諫めたが、皇甫鎛の一派はひそかにこれを排斥し、丙子、裴度を河東節度使として外に出した。
- 皇甫鎛は財貨の徴発で憲宗に取り入っていたが、諫議大夫の武儒衡がこれを上疏で批判した。皇甫鎛が仕返しを訴えると、憲宗は私怨ではないかとたしなめ、鎛も引き下がった。
- 史館修撰の李翺は、いま天下は武功で平定されたが、太平を維持するには文徳が必要だとして、旧制への復帰、忠良の登用、邪佞の遠ざけ、税法の是正、進献の停止、辺兵の充実、待制官への諮問などを求めた。
- また、天下平定の後には怠惰と奢欲が生じやすいから、今こそそれを抑えるべきだと強く戒めた。
七月 武元衡暗殺犯の処断
- 丁丑朔、田弘正は武元衡を殺した賊として王士元ら十六人を送った。朝廷は京兆府と御史台に命じて詳しく取り調べた。
- 彼らは罪を認めたが、京兆尹の崔元略が武元衡の容貌や当時の様子を確かめると証言に食い違いが多かった。
- 追及すると、実際には恒州と鄆州が共謀して別の刺客を送っており、王士元らは遅れて到着したのち、すでに成し遂げられた仕事を自分たちの手柄として報告し、褒賞を受けていたにすぎないと答えた。
- しかし憲宗は深く掘り返して真相を正すことを望まず、彼らをまとめて処刑した。
韓弘の入朝と王遂の乱
- 戊寅、宣武節度使の韓弘がようやく入朝した。憲宗は厚く遇し、韓弘も大量の馬・絹・繒・金銀器を献じた。汴州の府庫にはなお巨額の財物・兵糧が残っていた。
- 己丑、群臣は憲宗に「元和聖文神武法天応道皇帝」の尊号を奉った。
- いっぽう沂海兗密観察使の王遂は、もとは財政官吏で視野が狭く性急であり、新しく分割されたばかりの地方で人心が安定していないにもかかわらず、苛酷な刑罰と過重な使役で統治した。杖刑は常例より大きい杖を用い、兵士を「反虜」と罵り、真夏に官舎造営を急がせた。
- 辛卯、役夫の王弁は仲間四人と沂水で入浴しながら密議し、どうせ労役でも罪でも死ぬなら、思い切って事を起こしたほうがましだと決めた。
- 壬辰、王遂が宴飲しているさなか、五人は直房前で弓刀を奪い、副使の張敦実を射殺した。王遂と監軍は逃げたが、王弁は王遂を捕え、酷暑に土木工事を強行し、刑罰も残酷だとして責め、その場で斬った。
- 王弁は自ら留後と称し、監軍と対等の礼を取り、将吏を集めて参賀させた。皆恐れて従った。
- 甲午、韓弘はさらに大量の絹・絁・銀器を献上し、左右軍中尉も進献した。淮西平定以来の「助軍」「賀礼」「助賞」などの名目での進奉は、このころますます弊害を広げていた。
- 丁酉、令狐楚を同平章事に任じた。これは皇甫鎛と同年進士の縁によるところが大きかった。
- 朝廷は沂州の乱を聞き、甲辰、曹華を沂海兗密観察使とした。
張弘靖・田弘正・李渤
- 韓弘は重ねて京師滞在を願い、八月己酉、司徒兼中書令を与えられた。
- 癸丑、張弘靖を同平章事のまま宣武節度使に任じた。彼は宰相の家柄で、普段は寡黙だったが、河東・宣武の両鎮ではその廉潔と寛大さが歓迎された。
- 己未、田弘正が入朝し、憲宗はとくに厚遇した。
- 戊辰、陳許節度使の鄷士美が死去し、李渤が弔祭使となった。
- 李渤は帰途、渭南・閺郷などで戸数が激減しているのを見て、逃亡戸の租税を近隣に転嫁する制度が人々を連鎖的に逃散させていると上奏した。逃戸の田産を処分しても足りない分は免除し、転嫁をやめれば数年で農民は戻るだろうと述べたが、執政者に嫌われ、病を理由に東都へ退いた。
吐蕃・王弁処置・曹華の誘殺
- 癸酉、吐蕃が慶州に侵入し、方渠に営を構えた。
- 朝廷は王弁の乱を武力討伐すると、青州・鄆州方面の旧李師道勢力と連動して再び騒乱が広がるのを恐れたため、ひとまず王弁を開州刺史に任じると称して中使に告身を持たせた。
- 中使は、すでに開州から迎えが来ているので急いで出立せよと偽り、王弁はそれを信じて沂州を出た。道中で供を減らされ、ついに枷をはめられ、驢馬に乗せられて入関した。
- 九月戊寅、王弁は東市で腰斬された。
- さらに朝廷は、王遂の死をもってなお李師道残党の凶暴さが去っていないとみなし、曹華に棣州兵を率いて赴任させた。
- 沂州の将士が迎えに出ると、曹華は柔らかな言葉で安んじさせ、まず彼らを城内に入れた。
- 着任から三日後、大宴を開き、幕下に千人の伏兵を置いたうえで将士を集め、鄆州出身者は左、沂州出身者は右に立てと命じた。
- 配置が定まると、沂州出身者を外へ出し、残った鄆州兵に向かって、天子の命で来た王遂をなぜ殺したのかと問いかけた。言い終わらぬうちに伏兵が出て彼らを包囲し、千二百人を皆殺しにした。
司馬光の論評にかかわる事件の帰結
- この事件については、天子の詔書を人をおびき出す餌に使い、しかも作乱者はわずか五人なのに千余人を殺したのは行き過ぎだという批判が成り立つ。
- こうしたやり方は兵卒に将帥への猜疑心を植えつけ、上下が仇敵のように警戒し合う悪例となった。
田弘正の帰鎮と玄宗政治への言及
- 甲辰、田弘正に侍中を加え、魏博節度使のままとした。田弘正は朝廷に留め置いてほしいと重ねて願ったが、許されなかった。
- 彼は自分が急死した際に魏人が旧例で一族を推戴することを恐れ、兄弟や子姪をみな朝廷に出仕させ、高位を授けられた者が庭に満ちたので、当時これを栄誉とみなした。
- 乙巳、憲宗が玄宗の政治はなぜ先に治まり後に乱れたのかを宰相に問うと、崔羣は、姚崇・宋璟・盧懐慎・蘇頲・韓休・張九齢を用いたときは治まり、宇文融・李林甫・楊国忠を用いたときは乱れたのだと答えた。
- とくに、安禄山の反乱が始まりではなく、開元二十四年に張九齢を罷めて李林甫を専任したときこそが治乱の分かれ目だとし、憲宗に開元初年を法とし天宝末年を戒めとするよう勧めた。
- 皇甫鎛はこの発言を深く憎んだ。
十月 安南の乱
- 壬戌、容管から、安南の楊清が都護府を陥落させ、都護の李象古とその妻子、官属、部曲千余人を殺したと報じた。
- 李象古は李道古の兄で、貪欲で放縦、しかも苛刻だったため人心を失っていた。楊清は代々蛮酋の家で、李象古に牙将として用いられていたが鬱々としていた。
- 李象古が楊清に三千兵を与えて黄洞蛮討伐を命じると、楊清は人々の怨みにつけ込み、夜に軍を返して府城を襲い、これを落とした。
- 黄少卿ら嶺南の蛮勢力は貞元以来たびたび反復していた。桂管の裴行立と容管の陽旻は手柄を争って討伐を請い、憲宗はこれを許したが、孔戣は禽獣のような相手に大軍を発しても得るところは少ないと繰り返し諫めた。
- しかし憲宗は聞き入れず、江淮・湖南方面から大軍を動員して容・桂二管とともに討伐させたため、士卒は瘴癘で大量に死に、安南ではその隙に都護殺害が起きた。裴行立と陽旻は成果を挙げられず、二管は疲弊したが、孔戣の管内だけは比較的安定していた。
- 丙寅、桂仲武を安南都護とし、楊清には赦免のうえ瓊州刺史を与えるとした。
吐蕃の塩州包囲
- この年、吐蕃の論三摩らが十五万を率いて塩州を包囲し、党項もこれに加勢した。
- 刺史の李文悦は力戦して二十七日守り抜いた。
- 朔方の牙将・史奉敬は、二千五百兵と三十日分の糧を与えられて吐蕃の後背へ回り込んだ。長く消息がなく、朔方では全滅したと思われたが、やがて別路から吐蕃背後に現れたため、吐蕃軍は驚いて潰走した。
- 史奉敬はこれを大破し、戦果は数え切れないほどだった。鳳翔の野詩良輔、涇原の郝玭と並んで、勇名をもって吐蕃に恐れられた。
柳泌の失脚と薬への諫め
- 柳泌は台州で吏民を駆り立てて仙薬を探させたが、一年以上たっても得られず、ついには家族とともに山中へ逃げ込んだ。浙東観察使がこれを捕えて京師へ送った。
- 皇甫鎛と李道古は柳泌をかばい、憲宗はなお翰林待詔としてその薬を服用し続けたため、ますます焦躁と口渇が激しくなった。
- 起居舍人の裴潾は、天下に益を与える者こそ天下の福を受けるのであり、黄帝以来の長寿の王はその道を行ったのだと述べ、近ごろ各地から方士の推薦が相次ぐが、真に神仙がいるなら権門の前で奇技を売り物にするはずがないと批判した。
- また、金石の薬は毒性と火気が強く、人の臓腑には耐えがたいとして、もし献薬者が本物だというなら、まず本人に一年服させてみよと求めた。
- 憲宗は怒り、十一月己亥、裴潾を江陵令に左遷した。
皇甫鎛への怨嗟
- 尊号を議した際、皇甫鎛は「孝徳」の二字を加えようとしたが、崔羣は「聖」といえば孝はその内に含まれると述べた。
- 皇甫鎛はこれを利用し、崔羣が皇帝に「孝徳」の二字を惜しんだと讒言したため、憲宗は崔羣に怒った。
- 皇甫鎛が辺軍への賜与を遅配し、しかも支給品が粗悪だったことから軍士の不満が高まり、流言も広がった。邠寧の李光顔は動揺して自殺まで考え、人を遣わして訴えたが、憲宗は信じなかった。
- 崔羣が内外の不安を詳しく奏すると、皇甫鎛はこれを崔羣があおって名声を求め、怨みを天子へ向けさせているのだと取りなした。
- 憲宗はこれを信じ、十二月乙卯、崔羣を湖南観察使へ出した。朝野の人々はますます皇甫鎛を憎んだ。
令狐楚と武儒衡
- 中書舍人の武儒衡は節義があり直言を好み、憲宗もこれを重んじていたので、近く宰相になるだろうと見られていた。
- 令狐楚はこれを妬み、山南東道節度推官の狄兼謩を推挙した。癸亥、兼謩は左拾遺内供奉に抜擢された。
- 令狐楚はその制書の中で、武后の簒奪と奸臣の専横の中で狄仁傑が中宗を守って復位させたことを大きく称えた。
- 武儒衡はこれに涙して憲宗へ訴え、自分の曾祖・武平一は武后朝で栄達を辞して終老したのだと述べたため、憲宗は令狐楚の人柄を軽んずるようになった。