資治通鑑唐紀 穆宗睿聖文惠孝皇帝 長慶 元年 821年
正月 曹華の移鎮請願と憲宗の急死
- 沂海兗密観察使の曹華は、治所を沂州から兗州へ移すことを願い、許可された。
- 義成節度使の劉悟が入朝した。
- 以前、左軍中尉の吐突承璀は澧王惲を太子に立てようと図ったが、憲宗は許さなかった。憲宗が病に伏した後も、その企ては完全にはやんでいなかった。
- 太子はこれを聞いて憂え、密かに外戚の郭釗に相談した。郭釗は、ただ孝を尽くして時を待て、ほかを心配するなと答えた。
- 憲宗は金丹を服用してから怒りっぽくなり、宦官や近侍がしばしば罪に問われ、死ぬ者も出ていたため、宮中の人々は皆身の危険を感じていた。
- 庚子、憲宗は中和殿で急死した。享年四十三。内常侍の陳弘志が弑逆したという説が当時から広まったが、真相は曖昧で、史官も確定的には記さなかった。
- 梁守謙・馬進潭・劉承偕・韋元素・王守澄らの宦官は太子を擁立し、吐突承璀と澧王惲を殺した。
- 左右神策軍には一人五十緡、六軍威遠には三十緡、左右金吾には十五緡の賞銭が与えられた。
閏正月 穆宗即位
- 丙午、穆宗が太極殿東序で即位した。
- この日、段文昌・薛放・丁公著ら太子侍読経験者が思政殿に召し出され、機密に参与した。薛放と丁公著は宰相にと望まれたが固辞した。
- 丁未、西宮で朝夕の哭礼を行い、群臣を月華門外に集めた。
- 皇甫鎛は崖州司戸に左遷され、市井の人々はこれを喜んだ。
- 宰相人事では令狐楚が蕭俛を推し、辛亥、蕭俛と段文昌がともに同平章事となった。
- 穆宗は皇甫鎛を処刑しようと考えたが、蕭俛や宦官が助命を求めたため死は免れた。
- 壬子、柳泌と僧大通を杖殺し、他の方士はみな嶺南へ流した。李道古も循州司馬に左遷された。
- 癸丑、薛放を工部侍郎、丁公著を給事中とした。
- 乙卯、郭貴妃を皇太后とし、丁卯には群臣とともに服喪を解いて吉礼に復した。
二月 穆宗の遊楽と諫争
- 丁丑、穆宗は丹鳳門楼に出御して大赦を行い、その後、門内に楽人や雑伎を並べて観覧した。
- 丁亥には左神策軍で相撲や雑技を見物した。
- 庚寅、監察御史の楊虞卿は、群臣を広く引見して柔和な顔色で接し、忠言が利益を求めるかのように進み出る政治を行えば太平は必ず来ると上疏した。
- 衡山の趙知微も遊猟に節度がないと諫めた。穆宗は用いなかったが、罪には問わなかった。
安南・邕管の処置
- 壬辰、邕管を廃し、容管経略使の陽旻に兼領させた。
- 安南都護の桂仲武が安南へ着くと、楊清が国境で拒んで入れなかった。楊清は刑罰が残酷で党与の心も離れており、桂仲武が豪族たちを説得すると数か月で帰順者が相次ぎ、兵七千余を得た。
- しかし朝廷は桂仲武を出兵をためらっているとみなし、甲午、裴行立を安南都護、乙未、杜式方を桂管観察使とし、丙申、桂仲武を安州刺史へ左遷した。
- 丹王逾が死去した。
回鶻・柳公権
- 憲宗末年、回鶻は合達干を派遣して強く婚姻を求め、憲宗はこれを承認していた。
- 三月癸卯朔、穆宗は合達干を帰国させた。
- 夏州観察判官の柳公権の書を見て気に入り、辛酉、右拾遺・翰林侍書学士に任じた。
- 穆宗が、どうしてそのように書が巧みなのかと問うと、柳公権は「筆を使う要は心にあり、心が正しければ筆も正しい」と答えた。穆宗は、これは書を借りた諫言だと悟って顔色を改めた。
安南平定と元稹の起用
- 辛未、安南の将士が城門を開いて桂仲武を迎え入れ、楊清を捕えて斬った。
- 裴行立は海門まで来て死去したため、桂仲武が再び安南都護に任じられた。
- 吐蕃は塩州に侵入した。
- 膳部員外郎だった元稹は、かつて江陵士曹に左遷された身だったが、監軍の崔潭峻と親しかった。
- 東宮時代から宮人が元稹の詩を誦していたことで穆宗はその才能に関心を持っており、即位後、崔潭峻が帰朝して元稹の詩百余篇を献じると、その所在を尋ねた。
- 五月庚戌、元稹を祠部郎中・知制誥に抜擢したが、朝廷の論者はこれを軽んじた。
- 同僚と閣下で瓜を食べていたとき、青蠅が集まると、中書舍人の武儒衡は扇で追い払い、「どこから来てここへ群がったのか」と言って、元稹を蠅になぞらえて嘲った。同席者は凍りついたが、武儒衡は平然としていた。
憲宗の葬送と崔羣召還
- 庚申、神聖章武孝皇帝を景陵に葬り、廟号を憲宗とした。
- 六月、湖南観察使の崔羣を吏部侍郎として召し返した。
- 別殿で穆宗が、太子のころから卿は自分を助けてくれたと言うと、崔羣は、先帝の意志が早くから陛下に傾いていたのであって、自分に大した力はないと控えめに答えた。
- 皇太后は興慶宮に住み、毎月の朔望には穆宗が百官を率いて拝賀した。
- しかし穆宗はもともと奢侈を好み、皇太后への奉養もことさらに華美だった。
七月 藩鎮と宰相の動き
- 乙巳、鄆曹濮節度は天平軍と改号された。
- 令狐楚は山陵使としての部下が官物を盗み、工人への賃金を十分に払わず、余剰金十五万緡を献じたことから怨嗟を招き、丁卯、宣歙池観察使に出された。のち、さらに衡州刺史へ左遷された。
- 八月癸巳、神策兵二千人を動員して魚藻池を浚渫した。
- 戊戌、崔植を同平章事とした。
- 穆宗は喪が明けるとすぐに遊猟や音楽、賜与にふけった。
九月 重陽宴をめぐる諫争
- 重陽の大宴を開こうとすると、拾遺の李珏は同僚を率いて上疏した。
- まだ年号も改まっておらず、園陵も新しく、遠方の弔問使も帰っていないのに、喪中の心を忘れて後宮に音楽を奏するのは礼にかなわないと論じたが、穆宗は聞き入れなかった。
- 戊午、李光顔と李愬に同平章事を加えた。
十月 成徳の王承宗死去と王承元の処置
- 王承宗が死んだが、その部下は喪を秘して公表しなかった。二人の子は朝廷に人質としていたため、諸将は一族以外から帥を立てようとした。
- 参謀の崔燧は、承宗の祖母である涼国夫人の命を借りて諸将と親兵を諭し、承宗の弟で観察支使の王承元を立てた。
- 王承元は二十歳で、将士の前に拝礼して固辞したが、ついに軍務を引き受けることとなった。ただし自らを留後と呼ばせず、参佐に政務を委ね、朝廷に正式な節度使任命を願う密奏を送った。
- 庚辰、監軍は王承宗が危篤で弟の承元が権知留後になったこと、さらに承元自身も正式な任命を求めていることを奏聞した。
- 党項は再び吐蕃を引き入れて涇州へ侵攻させた。
- 辛巳、柏耆を鎮州へ派遣して宣慰させた。
入閤での諫言
- 壬午、群臣の入閤の際、鄭覃・崔郾ら五人の諫官が進み出て、宴楽が多く遊猟が度を過ぎていると諫めた。
- 胡賊が国境を圧しているのに急報が届いても天子がどこにいるかわからぬこと、倡優と親しみすぎること、金帛の賜与が過度で結局は民の膏血に由来することなどを述べ、倉庫に余裕があっても無駄遣いを慎み、非常時に百姓から重税を取り立てることのないよう求めた。
- 久しく入閤で政治を論ずる者がいなかったため、穆宗は初め驚いたが、彼らが諫官だと知るとねぎらいの言葉を送った。ただし実際には改めなかった。
- 給事中の丁公著も、外間に宴遊の風が広がるのは良い兆しではなく、天宝以来の遊宴と奢侈が百官の職務を廃れさせたと戒め、多少の禁制を加えるよう勧めた。
吐蕃侵攻と成徳・魏博の大移動
- 癸未、涇州から、吐蕃が州城三十里まで迫ったと急報が届いた。
- 梁守謙が左右神策京西北行営都監として四千兵を率い、さらに近畿八鎮の全軍も動員して救援に向かった。
- 吐蕃からの和議要求に応じるため、邵同が回答使に任じられた。
- 以前、田洎が吐蕃へ弔祭使として赴いた際、長武城下での盟約を持ちかけられ、拘束を恐れて曖昧に返答したところ、吐蕃はこれを口実に、党項に誘われて侵入したと主張した。田洎はその責を負って郴州司戸に左遷された。
- 乙酉、朝廷は正式に王承宗の死を受け、田弘正を成徳節度使、王承元を義成節度使、劉悟を昭義節度使、李愬を魏博節度使とし、田布を河陽節度使とした。
- 渭州刺史の郝玭はしばしば吐蕃営を襲って戦果をあげた。
- 李光顔が邠寧兵を率いて涇州救援に向かうと、邠寧兵は神策軍ばかり厚賞されることに不満を爆発させた。李光顔は涙ながらに大義を説き、ようやく兵を感服させて進軍した。吐蕃はこれを恐れて退いた。
- 丙戌、神策行営は解散された。
- 西川・塩州方面でも吐蕃の侵攻が報じられたが、ほどなく退いた。
十一月 王承元の出鎮
- 癸卯、鄭覃を鎮州に派遣し、将士に賞銭百万緡を与えた。
- 王承元は朝命を請うたのちも、諸将や近隣諸道から旧例を持ち出して留任を勧められたが、受け入れなかった。
- 義成への転任が決まると、将士は騒ぎ立てて命を拒んだ。王承元は柏耆とともに詔旨を説いたが、諸将は泣いて従わなかった。
- 王承元は私財を分け与え、功績ある者を抜擢し、もし朝命に背けば自分の罪は大きい、李師道もかつて諸将に引き留められたが最後はその諸将に殺されたではないかと泣いて説いた。
- それでも十将の李寂ら十余人が強硬に留任を求めたため、王承元はこれを斬って軍中に示し、ようやく鎮定した。
- 丁未、王承元は滑州へ赴任した。器用や財貨を持ち出そうとする将吏がいても、すべてその地に残させた。
華清宮行幸強行
- 穆宗は華清宮へ行幸しようとした。
- 戊午、宰相と両省の供奉官は延英門に詣でて三度上表し、強く諫めた。もし行幸するなら自分たちも扈従すると述べ、面会も求めたが許されなかった。
- 諫官らは門下に伏して暮れるまで抗議したが、やがて退いた。
- 己未、夜明け前、穆宗は複道を通ってひそかに出城し、華清宮へ幸した。公主・駙馬・中尉・神策六軍使らと禁兵千余人だけが従い、夕刻に帰宮した。
十二月 吐蕃・南詔・韓愈の嶺南論
- 己巳朔、塩州から吐蕃千余が烏白池を包囲したと報じた。
- 庚辰、西川からは南詔二万が侵入したので吐蕃討伐を求める奏があった。
- 癸未、容管から、黄少卿の一万余を破り、営柵三十六を奪ったと報じた。
- 黄少卿はなお久しく平定されていなかったため、韓愈は上言した。
- 韓愈は、自分は前年嶺外へ左遷されて事情を熟知しているとして、黄家の賊は山険に拠る小集団で、邕管経略使たちが徳なく威なく、かえって侵害して怨恨を招いたため反乱が起きたのだと述べた。
- 裴行立・陽旻は遠謀なく、戦功と褒賞を狙って拙速に兵を動かし、二年で二万余を殺したと奏しても賊が尽きない以上、報告は欺罔だと批判した。
- 邕・容二管は疲弊し、死傷や疫病で十室九空に近いとして、このままでは嶺南は安寧を取り戻せない、賊もまた損耗しているのだから、大赦に合わせて罪を赦し、威信ある経略使を選べば永く反叛はやむはずだと説いた。
- しかし穆宗は採用しなかった。
長慶改元と政争の始まり
- 辛丑、穆宗は圓丘に祀り、大赦を行って長慶と改元した。
- 河北諸道には両税を均等に定めるよう命じた。
- 宰相の蕭俛は潔癖で悪を憎み、官職授与を重く考えて軽々しく人を引き立てなかった。
- 西川節度使の王播は、盛んに貢献と賄賂で宦官に取り入り、宰相を求めた。段文昌もこれを助けた。
- 蕭俛は延英でたびたび反対し、王播は邪険で世論も沸騰しており、台司を汚してはならないと力説したが、穆宗は聞き入れなかった。
- 俛はついに辞職を願い、己未に王播が入京し、壬戌、蕭俛は右僕射に罷められた。彼はこの任も固辞した。
二月 劉総の出家願い
- 劉総は、かつて父兄を殺して幽州を奪って以来、つねに父兄の亡霊に祟られると思い込み、昼夜僧に読経させ、自宅で仏事を行わせていた。
- 視事ののちは僧房にこもり、他室へ移ると不安と動悸で眠れないほどで、晩年になると恐怖はさらに深くなった。
- また、河南・河北の諸鎮が次々と朝廷に服するのを見て、己卯、官を捨てて僧になりたいと上奏した。百万人分の賞銭も求めた。
- 王播は京師に留まりたいと願い、ちょうど段文昌が退こうとしたので、壬申、段文昌を西川節度使に出し、杜元穎を宰相、王播を塩鉄転運使とした。
三月 盧龍処置と科挙事件
- 癸丑、劉総を侍中兼天平節度使とし、張弘靖を盧龍節度使、盧士玫を瀛莫観察使とした。
- 丁巳、劉総の兄弟子姪には官を授け、大将や僚佐も特進させ、百姓には一年の復除、軍士には賞銭百万緡を与えた。
- 戊午、穆宗は多くの皇弟・皇子を王に封じた。
- 劉総は私邸を寺とすることを願い出て、朝廷は寺号や僧衣、さらに天平の節鉞と侍中の告身まで与え、望み通りにさせた。
- だが詔が届く前に劉総はすでに剃髪しており、将士が遮って引き留めようとしたため、唱導した者十余人を殺し、夜のうちに印綬と節を留後の張玘に渡して逃げた。
- 翌朝、軍中は初めてこれを知った。癸亥、劉総は定州境で死去した。劉怦以来三代三十六年続いた盧龍の劉氏はここで終わった。
牛李党争の発端
- 李徳裕は李吉甫の子であり、李宗閔がかつて対策でその父を批判したことを恨んでいた。宗閔はまた元稹とも進退を争って不和があった。
- 右補闕の楊汝士と礼部侍郎の銭徽が科挙を主管した際、段文昌・李紳はそれぞれ親しい進士の推薦状を銭徽に送ったが、合格発表ではいずれも落ちた。
- 合格したのは鄭朗、裴譔、蘇巣、楊殷士らで、いずれも有力者の子弟や姻戚だった。
- 段文昌は、今年の礼部試ははなはだ不公正で、芸もない子弟が口利きで及第したと穆宗に訴えた。
- 穆宗が学士たちに意見を求めると、李徳裕・元稹・李紳らは文昌の訴えはその通りだと答えた。
- そこで王起らに再試験を命じ、四月丁丑、鄭朗ら十人を黜け、銭徽を江州刺史、李宗閔を剣州刺史、楊汝士を開江令に左遷した。
- 銭徽に対し、段文昌や李紳からの推薦状を提出すれば穆宗も真相を悟るだろうと勧める者がいたが、銭徽は、心に恥じるところがないなら得失は同じこと、他人の私書を奏上するのは士君子のすることではないと言って焼き捨てた。人々はこの態度を高く評価した。
- この事件以後、李徳裕と李宗閔の両派は朋党を形成し、互いに排斥し合うことが四十年近く続くことになる。
回鶻・茶税・吐蕃
- 丙戌、回鶻新可汗を冊立した。
- 五月丙申朔、回鶻は都督・宰相ら五百余人を派遣して公主を迎えに来た。
- 壬子、塩鉄使の王播は茶税を百銭につき五十加増するよう奏請した。
- 右拾遺の李珏らは、榷茶は貞元の多事の際に始まったものであり、いま天下に大きな患いがない以上、苛斂の科目は軽くするべきだと反対したが、採用されなかった。
- 丙辰、建王恪が死去した。
- 癸亥、太和長公主を回鶻に嫁がせた。吐蕃は唐と回鶻の婚姻を知ると、六月辛未、青塞堡へ侵攻したが、塩州刺史の李文悦に撃退された。
- 戊寅、回鶻は北庭・安西の両方面に各一万騎を出して吐蕃を防ぎ、公主を迎えると奏した。
盧龍分割と張弘靖の失政
- 劉総は、もとの所領を三道に分けて、幽・涿・営を一道、平・薊・媯・檀を一道、瀛・莫を一道とし、それぞれ張弘靖・薛平・盧士玫に任せるよう求めていた。
- 張弘靖は河東で寛簡によって人望を得ており、劉総は、燕の地の人々は長く桀驁であるから、彼のような人物なら安撫できると考えて後継に推した。
- 薛平は河朔の風俗を知り、朝廷に誠実であったために推薦され、盧士玫は劉総の姻族だった。
- 劉総はさらに、配下のうち精強だが統御しがたい朱克融らを選んで京師へ送り、朝廷の禄位をうらやませて燕人の心を帰順へ向けようとした。また戦馬一万五千匹を献じてから剃髪した。
- しかし穆宗は政務に無関心で、崔植・杜元穎にも長期的見通しがなかったため、瀛・莫二州だけを切り離して盧士玫に与え、残りはほぼすべて張弘靖に統轄させた。
- 朱克融らは長く京師に留め置かれて困窮し、衣食を乞うほどになっても官職を得られなかった。崔植と杜元穎は顧みず、張弘靖の赴任時になってようやく彼らを本軍へ追い返して使役したので、強い怨みを抱かせた。
- それまで河北の節度使はみずから兵卒と苦楽を共にしてきたが、張弘靖は赴任後、ゆったりと尊大に振る舞い、衆人の面前で肩輿に乗ったので、燕人は驚き怪しんだ。
- 彼は十日ほどに一度しか出てこず、坐して政務を裁くばかりで、賓客や将吏が言葉を交わす機会も少なかった。政事は多く幕僚に委ね、その判官の韋雍らは若く軽薄で、酒を好み、派手な供廻りで夜道を騒がしく行き来したため、燕人は大いに反感を抱いた。
- 朝廷から将士への賞銭百万緡が下ると、張弘靖はそのうち二十万緡を軍府の雑用に留め、韋雍らも軍士への糧賜を切り詰め、法で縛り立てた。
- しかもたびたび兵卒を「反虜」と罵り、「いまは天下太平なのだから、お前たちが二石の弓を引けても、一字を識る者のほうがましだ」と言ったため、軍中の怒りは頂点に達した。