資治通鑑唐紀五十六 憲宗 元和十二年 817年

春正月:李愬が唐州に赴任し、淮西攻略の布石を打つ

  • 正月甲申、袁滋は撫州刺史に左遷された。これは淮西討伐で敗戦が続いた責任を問われたものだった。
  • 李愬が唐州に到着した時、軍中は過去の敗戦の余波で士気が低く、兵は戦うことを恐れていた。そこで李愬は、あえて自分は攻戦を得意としないと語り、兵を安心させたうえで、負傷者や病者を自ら見ていたわり、表向きは軍紀にも厳しすぎない姿勢を見せた。
  • これは敵に油断させるための策であり、淮西側は高霞寓や袁滋を破った経験から李愬を軽く見て、防備を緩めるようになった。
  • 朝廷は江淮の財賦を監督させるため塩鉄副使の程异を派遣した。
  • 回鶻はたびたび公主降嫁を求めていたが、その費用は莫大で、中原で戦争中でもあったため、憲宗は許可しなかった。

二月:回鶻対応と李愬の諜報・懐柔策

  • 二月辛卯朔、回鶻の摩尼僧らを帰国させ、宗正少卿の李誠を使者として派遣し、婚姻問題の返答を先延ばしにした。
  • 李愬は蔡州奇襲の構想を抱き、援軍を求めた。朝廷は昭義・河中・鄜坊から歩騎二千を補充した。
  • 丁酉、李愬の部将馬少良が巡邏中に呉元済配下の猛将・丁士良を捕らえた。兵は彼を惨殺しようとしたが、李愬はその胆力を見て助命し、厚遇した。
  • 丁士良は、自分はもとより淮西の人ではなく、かつて呉氏に命を救われた恩義から尽くしてきたが、今また李愬に命を救われたので報恩したいと述べた。李愬は彼を捉生将に任じた。
  • 己亥、淮西行営が蔡州の古葛伯城を奪取したと報じた。

二月後半:文城柵攻略と帰順者の受け入れ

  • 丁士良は、文城柵の呉秀琳が淮西の重要拠点を守っており、その参謀の陳光洽を捕えれば秀琳は降ると進言した。
  • 戊申、丁士良は陳光洽を生け捕りにして帰り、李愬の策は功を奏した。
  • 鄂岳観察使の李道古は穆陵関から申州を攻め、外郭は取ったが、夜襲を受けて軍が乱れ、多くの死者を出した。
  • 数年の戦乱で淮西の物資は尽き、民は食糧難に陥っていた。菱・芡・魚・鼈・鳥獣まで食べ尽くされ、多くの民が官軍側へ逃れてきた。
  • 庚申、朝廷は流入民を仮の行政区に収容し、県令を選んで保護させ、兵も置いて守らせた。
  • 戊子、李愬は文城の西五里まで進み、最初は部将李進誠を先にやったが城中から激しい攻撃を受けた。李愬はこれを偽りの抵抗ではなく、自分の到着を待っていたのだと判断して自ら前進した。
  • 呉秀琳は兵をまとめて降伏し、その配下三千も帰順した。配下の勇将・李憲は李忠義と改名されて用いられた。
  • 李愬は文城兵の家族を唐州へ移し、兵の離反を防いだ。さらに降伏者を便宜に応じて配置し、父母のいる者には食糧や布を与えて帰郷させたため、人心は大いに感服した。

三月:諸戦線の進展

  • 三月乙丑、李愬は唐州から宜陽柵へ移った。
  • 郗士美は柏郷で敗れ、陣営を捨てて撤退し、千余人が死んだ。
  • 戊辰、程執恭は名を程権と賜った。
  • 戊寅、王承宗は二万の兵を東光に入れて白橋の交通路を断ち、程権は防げず滄州へ退いた。河北の諸将は王承宗を容易に抑えられなかった。
  • 官軍諸軍は溵水を挟んで対峙し、どの軍も渡河をためらっていたが、陳許兵馬使の王沛が先に五千を率いて渡河し、要地に城を築いた。これに続いて河陽・宣武・河東・魏博の諸軍も渡河して郾城に迫った。
  • 丁亥、李光顔は郾城で淮西兵三万を破り、敵将張伯良を敗走させた。
  • 己丑、李愬は董少玢らに諸柵を攻めさせ、馬鞍山や路口柵を攻略した。

四月:淮西包囲の進展

  • 四月辛卯、馬少良が嵖岈山を下し、柳子野を捕らえた。
  • 郾城では、呉元済が城令の董昌齢の母を人質にしていたが、母はむしろ息子に順に帰して死ぬ方がましだと諭した。
  • 官軍が青陵を囲んで郾城の退路を断つと、守将の鄧懐金は董昌齢と相談し、李光顔に対して、まず城を攻める姿勢を見せて援軍を誘い、その援軍を打ち破ってから降る案を示した。
  • 乙未、郾城は李光顔に降り、彼は入城して拠点とした。呉元済はこれを聞いて大いに恐れ、親兵や守城兵まで洄曲の董重質のもとへ送って防がせた。
  • 李愬配下では、媯雅・田智栄が冶炉城を落とし、閻士栄が白狗・汶港の二柵を攻略し、さらに西平や楚城も陥落した。

五月:河北討伐の中止と李祐の捕縛

  • 六鎮の兵十余万で行っていた王承宗討伐は、統一指揮がなく、互いの距離も遠く、約束も揃わず、二年戦っても成果がなかった。輸送の負担も重く、牛馬の損耗は甚大だった。
  • 劉総は武強を奪った後もほとんど進軍せず、ただ軍費だけを受け取っていた。
  • 李逢吉らは、まず全力で淮西を平定し、その勢いで恒州・冀州を取るべきだと主張し、憲宗もついにこれに従った。
  • 丙子、河北行営は廃止され、各軍は本鎮へ帰還を命じられた。
  • 丁丑、李愬は李栄宗に青台鎮を攻めさせてこれを抜いた。
  • 李愬は降伏兵を一人一人自ら呼んで事情を聞き、敵地の険易・遠近・虚実を詳しく把握した。
  • 呉秀琳は、蔡州攻略には興橋柵を守る勇将・李祐の取り込みが不可欠だと進言した。
  • 庚辰、李祐が張柴村で麦刈りをしているところを、史用誠が伏兵で襲い、生け捕りにした。
  • 諸将は過去に官軍を多く殺した李祐の処刑を求めたが、李愬は客礼で遇し、夜ごと密談した。周囲は内応を疑ったが、李愬はひそかに朝廷へ事情を報告し、もし李祐を殺せば成功できないと訴えた。
  • 朝廷は李祐を赦して李愬のもとへ戻し、李愬はさらに厚遇して側近とし、ついには六院兵馬使に任じた。
  • 諜者をかくまった者の一族を殺す旧令も廃止され、李愬が諜者を厚遇すると、逆に彼らが情勢を密告するようになった。
  • 乙酉、朗山攻撃で官軍は敗れたが、李愬はかえって喜び、敵を油断させる計画通りだとした。
  • そこで敢死の三千人を募り「突将」と号し、朝夕訓練して蔡州奇襲に備えた。
  • 閏月己亥、程异が江淮から戻り、軍資金百八十五万緡をもたらした。

閏月:韋綬罷免

  • 諫議大夫の韋綬は太子侍読を兼ねていたが、珍味を贈ったり戯れの話で太子を喜ばせたりしていたため、憲宗はこれを聞いて丁未に侍読を罷免し、のち虔州刺史へ出した。

六月:呉元済の謝罪表

  • 呉元済は部下の離反が相次ぎ、兵勢が日ごとに窮して、六月壬戌に謝罪の上表を出し、自ら身を縛って降る意志を示した。
  • 憲宗は中使に詔を持たせ、死罪は免ずると伝えたが、呉元済は董重質らに制されて出頭できなかった。

秋七月:孔戣の抜擢と裴度の親征決定

  • 大水があり、平地でも二丈に達するところがあった。
  • 以前、孔戣が華州刺史であった時、明州からの海産物の進献は輸送の労苦が大きいとして停止を奏請していた。嶺南節度使崔詠が死ぬと、憲宗はこの人物を思い出し、孔戣を嶺南節度使に起用した。
  • 淮西討伐は四年目に入っても決着せず、輸送は疲弊し、民は牛も失って驢馬で耕す有様だった。憲宗は宰相に意見を求めたが、李逢吉らは罷兵を望んだ。
  • 裴度だけは沈黙し、問われると、自ら行営に赴いて督戦したいと願い出た。呉元済は実際には窮しており、諸将の心が一つでないために降らないだけだ、と説いた。
  • 憲宗は喜び、丙戌、裴度を門下侍郎同平章事のまま彰義節度使・淮西宣慰招討処置使とした。崔羣も宰相に加えられた。
  • 裴度は韓弘が都統である点に配慮し、自分の名目は宣慰処置使にとどめたいと願い、副使に馬摠、行軍司馬・判官書記に韓愈らを求め、許可された。
  • 裴度は、賊が滅びれば朝廷に戻る日があるが、賊が残る限り帰朝しないと述べ、憲宗は涙を流した。

八月:裴度出征と軍令の一本化

  • 庚申、裴度は淮西へ向かい、憲宗は通化門まで見送った。
  • 右神武将軍の張茂和は裴度に起用されたが、病を理由に辞退した。裴度は処刑を求め、憲宗は忠臣の家柄ゆえ死罪は避けて永州司馬に左遷し、高承簡を都押牙に任じた。
  • 李逢吉は蔡州討伐に消極的で、翰林学士の令狐楚とも親しかったため、裴度は中外で結んで軍事を妨げるのを恐れ、楚を中書舎人へ出させた。
  • 癸亥、李光顔と烏重胤は賈店で淮西兵に敗れた。
  • 裴度が襄城南の白草原を通ると、淮西の騎兵七百が襲ったが、曹華が備えて撃退した。
  • 甲申、裴度は郾城に到着し、先行の諸軍に付いていた中使の監軍をすべて外させた。これまでは主将の裁量が奪われ、勝てば先に功を奪い、負ければ妨害する弊害が大きかったが、これ以後は諸将が専心して戦えるようになった。

九月:李逢吉失脚と李愬の呉房攻略

  • 庚子、淮西兵は溵水鎮を襲い、将三人を殺して草を焼いて去った。
  • 李逢吉は寵臣の張宿を嫌っていた。憲宗が張宿を諫議大夫にしようとすると、李逢吉は小人にその職はふさわしくないと強く反対した。もともと裴度とも対立していたため、丁未、東川節度使へ出された。
  • 甲寅、李愬は呉房を攻めた。諸将は暦の凶日を理由に止めたが、李愬は、兵が少ない以上、相手の不意を突くしかないとして進軍した。
  • 外城は陥落し千余を斬ったが、子城の兵はこもった。李愬はあえて引いて敵を誘い、追撃してきた孫献忠の騎兵五百を迎え撃った。
  • 軍が動揺すると、李愬は馬を降りて胡床に腰かけ、退く者は斬ると命じ、旗を返して力戦させた。孫献忠は戦死し、敵は退いた。
  • 諸将はそのまま子城を攻めるべきだと言ったが、李愬は本意ではないとして退いた。
  • 李祐は、蔡州の精兵は洄曲と各境の守備に出払っており、州城には老弱が多いので、直進すれば賊将が知る前に元済を捕らえられると進言した。
  • 冬十月甲子、李愬は掌書記の鄭澥を郾城に遣わし、密かに裴度へ計画を伝えた。裴度は奇策でなければ勝てないとして賛同した。

十月:蔡州奇襲と呉元済捕縛

  • 裴度が沱口で築城を視察していると、董重質が五溝から騎兵で襲いかかった。李光顔・田布が防ぎ、帰路を断たれた敵は多数が溝で圧死した。
  • 辛未、李愬は史旻に文城守備を任せ、李祐・李忠義に突将三千を率いさせて先鋒とし、自ら三千を中軍、李進誠に三千を後軍とさせて出発した。軍中にも行き先は明かさなかった。
  • 張柴村に夜着すると、戍兵と烽子を皆殺しにし、その柵を押さえ、少し休んで乾飯を食べ、馬具を整えた。義成軍五百を残して洄曲方面の橋梁を断たせ、再び夜陰に乗じて進軍した。
  • 諸将が行先を問うと、李愬は蔡州へ入って呉元済を捕えるのだと告げた。皆色を失い、監軍は李祐の奸計にはめられたと泣いた。
  • 大風雪で旗は裂け、人馬の凍死者も出たが、李愬の威に押されて誰も逆らえなかった。雪の深い夜半、城下の鵝鴨池を叩かせて軍声を紛らわせた。
  • 呉少誠以来三十余年、官軍が蔡州城下まで来たことはなく、守備は全く油断していた。
  • 壬申四更、李祐らが城壁を掘り崩して先登し、熟睡していた門兵を殺し、打柝の者だけはそのまま番を続けさせて異変を悟らせず、外城・内城とも門を開いて兵を入れた。城中は夜明けまで気づかなかった。
  • 李愬は呉元済の外宅に入り、最初の急報を聞いた元済は、捕虜が騒いでいるだけだと笑った。さらに城陥落の報が届くと、洄曲の兵が寒衣を求めに来たのだろうと考えた。
  • やがて李愬軍の号令が響き、元済は初めて事態を悟って牙城に登った。
  • 李愬は元済の望みが董重質の救援だけだと見抜き、その家族を厚遇し、子に手紙を持たせて説得した。董重質は単騎で降った。
  • 李進誠が牙城を攻め、外門を壊して武器庫を押さえ、翌癸酉には南門を焼いた。住民も薪や草を担いで攻撃を助けた。
  • 晡時、門が破れると、呉元済は城上で罪を請い、李進誠が梯子を下ろして降ろした。
  • 甲戌、李愬は檻車で呉元済を京師へ送った。
  • その日、申州・光州および諸鎮の兵二万余も相次いで降伏した。
  • 李愬は元済捕縛後、一人もみだりに殺さず、官吏・帳下・厨人・厩卒まで旧職に復させて不安を除き、裴度の到着を待って鞠場に駐屯した。
  • 己卯、淮西行営から呉元済捕獲の奏聞が届いた。
  • 光禄少卿の楊元卿は淮西の財宝を取りに行けると進言したが、憲宗は、淮西討伐は人々の害を除くためであって、財宝のためではないと退けた。
  • 董重質が洄曲軍を捨てて去ると、李光顔はその陣に入り、兵をことごとく降した。
  • 庚辰、裴度は馬摠を先に蔡州へ入れて慰撫させ、辛巳には自ら節将・降卒一万余を率いて入城した。
  • 李愬は武装を整えて路左に出迎え、蔡州の人々は長年朝廷の上下を知らないので、裴度の威を示してほしいと願った。裴度はこれを受け入れた。
  • 李愬はその後、文城へ軍を戻した。
  • 諸将が戦略の理由を尋ねると、李愬は、朗山の敗北は敵を油断させるため、呉房を落とし切らなかったのは敵兵を蔡州へ集中させぬため、風雪を冒したのは烽火連絡を断つため、孤軍深入したのは兵を必死にさせるためだと説明した。
  • 李愬は自らの生活には倹約しつつ、士への待遇は厚く、賢者を疑わず、判断すべき時に決断したことが成功の理由とされた。
  • 裴度もまた、蔡州兵を自軍の牙兵に取り立て、疑わなかったため、人心を得た。
  • さらに、呉氏政権下では道での私語や夜の灯火、酒食の贈答まで死罪で取り締まっていたが、裴度は盗賊だけを禁じ、その他は不問とした。蔡州の人々は初めて平穏な生活の楽しさを知った。

十一月:論功行賞と呉元済の処刑

  • 甲申、韓弘と裴度に、平蔡の将士の功績と降伏者の等級を整理して報告するよう詔があった。降伏の時期や事情に応じて処遇を分ける意図だった。
  • 淮西の州県百姓には二年の租税・徭役免除が与えられ、賊境に近かった四州は翌年の夏税も免除された。戦死者は埋葬され、その家には五年分の衣糧が支給され、傷痍兵にも終身に近い扶助が命じられた。
  • 十一月、憲宗は興安門で俘虜を受け、呉元済を宗廟・社稷に告げたのち、独柳の下で斬った。
  • 淮西の人々は、李希烈・呉少誠以来の威虐に縛られて朝廷を忘れ、将ごとに勝手に戦わせる風俗の中で、官軍への憎悪も深めていた。かつて韓全義の陣中から、蔡州攻略後に将士の妻女を所望する朝貴の書簡が見つかり、それが敵兵の憤激を招いたこともあった。こうした事情が、淮西平定を困難にしていた。

十一月:戦後人事

  • 戊子、李愬は山南東道節度使となり、凉国公に封じられた。韓弘には侍中が加えられ、李光顔・烏重胤らもそれぞれ昇進した。
  • 壬辰、これまで御史が兼ねていた駅伝監督の職を、宦官に与える詔が出た。左補闕の裴潾が、内臣と外官の職掌は分けるべきだと諫めたが、聞き入れられなかった。
  • 甲午、恩王李連が薨じた。
  • 辛丑、李祐は神武将軍・知軍事に任ぜられた。
  • 裴度は馬摠を彰義留後とした。
  • 癸丑、蔡州では、朝廷から送られた剣で呉元済旧将を誅すべき命があったが、裴度は郾城で使者に会うとともに蔡州へ入り、罪に応じて刑を施し、詔意どおりには皆殺しにしない旨を上疏した。

十二月:裴度帰朝と李鄘の辞退

  • 壬戌、裴度は晋国公に封じられ、再び朝政を知ることになった。馬摠は淮西節度使に任じられた。
  • 吐突承璀はかつて淮南監軍だったが、李鄘と互いに一線を守っていた。承璀は帰京後、李鄘を宰相に推した。
  • しかし李鄘は、宦官の推薦で宰相になったことを恥じ、赴任の途中でも涙を流して、自分は外鎮に老いるべきで宰相の任ではないと語った。
  • 戊寅に京師へ着いても病と称して参内せず、政務も見ず、百官の訪問にも応じなかった。
  • 庚辰、淮西降将の董重質は春州司戸に左遷された。憲宗は本来彼を殺したかったが、李愬が不殺を約したので、その約束を重んじた。