正月 改元と朝廷の始動
- 春正月、憲宗は群臣を率いて興慶宮に赴き、上皇に尊号を奉った。これは百官の請願を受け入れたものである。
- ついで大赦を行い、元号を元和と改めた。
- 韓臯を奉義節度使に任じ、伊宥を安州刺史・安州留後とした。王士真には同平章事を加えた。
- この月、上皇が興慶宮で崩じた。享年四十六。
劉闢の反乱と蜀討伐の決定
- 西川節度の旌節を得た劉闢は、さらに三川の兼領を求めたが許されず、ついに兵を起こして東川節度使李康を梓州で包囲した。
- 劉闢は自派の盧文若を東川節度使に据えようとしたが、推官の林蘊が強く挙兵を諫めた。劉闢は怒って林蘊を投獄し斬ろうとしたが、林蘊が少しも屈しなかったため、その忠烈を惜しんで唐昌尉に左遷するにとどめた。
- 朝廷では蜀への出兵を慎重視する声が多かったが、杜黄裳は「劉闢は軍略家ではなく、討つのはたやすい」と断じ、高崇文の起用を勧めた。李吉甫もまた討蜀を進言し、憲宗はこれを容れて征討を決意した。
- 高崇文を前軍、李元奕を次軍として、山南西道節度使厳礪とともに蜀討伐を命じた。名望ある宿将たちは自分こそが征蜀の将に選ばれると思っていたため、高崇文の抜擢に驚いた。
- 杜黄裳はさらに、徳宗朝では節度使の任命がほぼ藩鎮内部の推戴に委ねられ、朝廷の統制が失われていたと述べ、今後は法度で諸鎮を抑えるべきだと説いた。憲宗はこれを深く是認し、以後の藩鎮削平の基本方針となった。
高崇文の進軍
- 高崇文は長武城で常に敵襲を想定して兵を訓練していたため、詔命が下ると即座に出発できた。兵器も食糧も不足がなかった。
- 高崇文は斜谷から、李元奕は駱谷から入り、梓州を目指した。高崇文は途中、宿屋で箸を折って騒ぎを起こした兵を斬り、軍紀を示した。
- 一方、劉闢は梓州を陥し、李康を捕らえた。
二月 蜀・北方・政論
- 厳礪は剣州を攻め落とし、刺史文徳昭を斬った。
- 奚王誨落可が入朝し、饒楽郡王に封じられて帰国した。
- 田季安には同平章事を加えた。
- 憲宗が古来の帝王の政務への関わり方について宰相に問うと、杜黄裳は「君主は賢者を選んで任せ、賞罰を公正にすべきで、細事まで自ら裁くべきではない」と答えた。秦の始皇帝・魏明帝・隋文帝のように万事に介入した例は、効果もなく後世の笑いものになったと論じた。憲宗はその言を深く納得した。
三月 梓州奪回と楊恵琳の乱
- 高崇文が閬州から梓州へ進むと、劉闢の将邢泚は退却し、高崇文は梓州に入った。
- 劉闢は李康を返還して罪の軽減を図ったが、高崇文は「守地を失い軍を敗った」として李康を斬った。
- 厳礪は梓州奪回を奏上し、朝廷は劉闢の官爵を剥奪した。
- 同じころ、夏綏では楊恵琳が兵を率いて新任節度使李演の着任を拒み、「将士に推されて節度使を称した」と上表した。河東節度使厳綬は討伐を請い、河東・天徳の兵でこれを攻めた。
- 厳綬配下の阿跌光進・阿跌光顔兄弟が出兵し、夏州兵馬使張承金が楊恵琳を斬って首を京師に送った。
四月 東川経営と人事
- 東川節度使韋丹は、遠征軍の高崇文に梓州を与えて根拠地とし士気をつなぐべきだと建言した。そこで高崇文を東川節度副使・知節度事とした。
- 潘孟陽は赴任先で遊宴と収賄にふけったため、度支・塩鉄・転運副使を罷免され、大理卿に左遷された。
- 制挙では元稹・独孤郁・白居易・蕭俛・沈伝師らが登用された。
- 杜佑は財政職の兼任を解かれ、司徒に進んだ。後任には李巽が任ぜられた。李巽は短期間で租税収入を大いに増やしたが、その増収は民間への負担増の上に成り立つものだった。
- 劉澭は保義軍節度使となった。
- 元稹は左拾遺、白居易は盩厔尉・集賢校理、蕭俛は右拾遺、沈伝師は校書郎となった。
元稹の諫言
- 元稹は上疏して、唐太宗の時代には諫官が君主の側近くにいて大政にも参加したのに、今の諫官は列席して朝拝するだけで、召見も時政参与もないと批判した。延英殿での召対を復活させ、諫官に本音を言わせるべきだと訴えた。
- さらに、治乱には前兆があり、率直な言論を開くのが治の萌しであり、へつらいがはびこるのが乱の兆しだと述べた。太宗が孫伏伽の諫言を賞して言論の風を開いた故事を挙げ、今の朝廷はそれに及ばないと論じた。
- また、王伾・王叔文が東宮に取り入り永貞の政変を招いたことを踏まえ、皇子教育には品行正しい人材を充てるべきだと主張した。王府の師傅や諮議が閑職化し、まともな教育ができていない実情も批判した。
- 憲宗はこれらを概ね受け入れ、ときに元稹を召見した。
五月 政局と蜀の防衛線
- 邵王約が薨じた。
- 程執恭を横海節度使に任じた。
- 宰相鄭餘慶は罷免されて太子賓客となった。
- 太上皇后を皇太后とした。
- 劉闢は鹿頭関に城柵を連ね、一万余の兵を置いて高崇文を防いだ。
六月 鹿頭関攻防と李師古の死
- 高崇文は鹿頭関方面で劉闢軍を撃破し、続いて高霞寓に万勝堆を奪わせ、関城を見下ろす地歩を得た。八戦してすべて勝利した。
- 劉済・李師古に侍中を加えた。
- 高崇文は徳陽・漢州でも劉闢軍を破り、厳礪の将厳秦も綿州石碑谷で大勝した。
- このころ平盧節度使李師古は病が重くなり、異母弟李師道の力量を案じつつも、結局は骨肉である彼が後継になるだろうと側近に語った。李師道は州県実務を学ばせるため外に置かれていたが、なお将帥の器かどうかを疑われていた。
- 閏六月、李師古が死去すると、判官高沐・李公度らは喪を秘し、密かに密州から李師道を迎えて節度副使に据えた。
七月 蜀平定へ
- 高崇文は玄武で劉闢軍一万人を破った。
- 朝廷は、西川救援の諸軍はすべて高崇文の指揮に従うよう命じた。
- 順宗を豊陵に葬った。廟号は順宗。
八月 後宮と平盧
- 郭氏を貴妃とした。
- 皇子寧を鄧王、寛を澧王、宥を遂王、察を深王、寰を洋王、寮を絳王、審を建王に封じた。
- 李師道はしばらく軍務を総覧したが、朝命がまだ下らなかったので、将佐に諮った。出兵して周辺を略奪しようという意見もあったが、高沐はこれを止め、通常通り二税を納め、官吏を通し、塩法も守るべきだと勧めた。李師道は相次いで使者を送り、朝廷への恭順を示した。
- 杜黄裳はこの機に平盧を分割すべきだと主張したが、憲宗はまだ劉闢が未平定であったため、ひとまず李師道を平盧留後・知鄆州事とした。
九月 中書の吏・滑渙摘発
- 中書の堂後主書である滑渙は、知枢密の劉光琦と結んで権勢をふるい、宰相の議論まで左右していた。四方からの賄賂も絶えなかった。
- 李吉甫がその専横を弾劾したため、憲宗は中書の門を閉ざして捜索させ、不正の証拠を押収した。
- 滑渙は雷州司戸に左遷されたのち、まもなく死を賜り、数千万に上る家財は没収された。
九月 鹿頭関陥落から成都克服へ
- 高崇文は鹿頭関でさらに劉闢軍を破り、厳秦も神泉で勝利した。
- 河東の将阿跌光顔は、期日に一日遅れて行営に到着したため処罰を恐れ、自ら深入りして劉闢軍の糧道を断った。これが敵陣の不安を招いた。
- 劉闢側の李文悦・仇良輔らが相次いで城を挙げて降り、劉闢の婿蘇彊も捕らえられた。降兵は万を数えた。
- 高崇文は進撃を止めず、一気に成都へ向かい、諸所の敵は崩れるように瓦解した。
- 辛亥、高崇文は成都を克した。劉闢と盧文若は吐蕃へ逃れようとしたが、羊灌田で追いつかれた。劉闢は川に身を投げたものの死にきれず捕らえられ、盧文若は妻子を殺して自沈した。
- 高崇文は成都入城後も市中を乱さず、兵士の休息を許したが、商店を脅かさせず、財貨にも手を触れさせなかった。
- 劉闢は京師に送られ、邢泚や沈衍は誅された。西川の政務は韋皋時代の旧例に従って処理され、高崇文は大事小事をよく統べた。
- 旧西川幕僚の房式・韋乾度・独孤密・符載・郗士美・段文昌らが喪服姿で罪を請うと、高崇文は皆これを許し礼遇し、表を草して推薦し、餞別を与えて京師へ送った。段文昌については、将来必ず将相になる人物だと見込んだ。
- 劉闢の美しい妾二人を監軍が献上しようとしたが、高崇文は「討伐の主目的は民を安んずることであり、婦人を献じて媚びるのは天子の意ではない」と拒み、妻のない将吏に配した。
- 杜黄裳は征蜀を提案し、高崇文の起用と作戦の大筋を示した功で、憲宗から特に評価された。
十月 戦後処理と諸鎮人事
- 少室山の処士李渤に左拾遺を授けようとしたが、病を理由に赴任しなかった。ただし朝政の得失についてはしばしば上奏した。
- 易定節度使張茂昭が入朝した。
- 資・簡・陵・榮・昌・瀘の六州を東川に属させた。
- 房式ら旧西川幕僚は京に着く前にみな中央の省寺官に任じられた。
- 高崇文を西川節度使、厳礪を東川節度使、柳晟を山南西道節度使とした。
- 柳晟が漢中に到着したとき、劉闢討伐を終えて帰る兵を再び梓州へ戍させるよう命が出たため、兵は怒って反乱を企てた。柳晟は急行して城内に入り、兵に「劉闢が詔命に従わなかったから討たれた。お前たちが逆らえば、また別の者がその功名のためにお前たちを討つ」と説き、兵を納得させて秩序を回復した。
- 李師道は正式に平盧節度使に任じられた。
- 劉闢は長安に到着し、一族党与とともに誅された。
十一月 徐州・神策軍・回鶻摩尼教
- 武寧節度使張愔が病を理由に交代を願い、王紹が後任となった。濠州・泗州を再び武寧軍に属させたため、徐州の人心は安定した。
- 吐突承璀が左神策中尉となった。東宮以来の近臣で、敏腕ゆえに憲宗の寵愛を受けていた。
- この年、回鶻の使節は初めて摩尼教徒を伴って入貢した。朝廷は中国内に寺を建てて彼らを住まわせた。彼らの教えは僧侶のようでありつつ仏教とは別で、日が高くなってから食事をし、肉は食べても乳酪は取らない習俗があった。回鶻では可汗が国政を諮ることもあった。