資治通鑑唐紀五十三 憲宗 元和 二年 807年

正月 郊祀と宰相交代

  • 憲宗は圜丘に祀り、大赦を行った。
  • 杜佑は高齢と重徳をもって殊に礼遇され、憲宗はしばしば名を呼ばず「司徒」と称した。杜佑が老病を理由に致仕を願うと、毎月二、三度の入朝だけで大政を議し、他日は樊川の別業に帰ってよいと許した。
  • 杜黄裳は大きな経綸の才はあったが、小節を修めないところがあり、相位に長く留まれなかった。河中・晋・絳・慈・隰節度使へ出された。
  • 代わって武元衡と李吉甫がともに宰相となった。
  • 李吉甫は自分が江淮で長く沈淪した末にようやく大任を受けたことに感泣し、裴垍に「後進の人材を知らぬから教えてほしい」と頼んだ。裴垍は三十余人を書き出して示し、李吉甫は数か月でその多くを登用したため、当時は「人を得た宰相」と評された。

二月〜四月 地方と財政

  • 邕州から、黄氏の蛮賊を破って首領黄承慶を捕えたとの報があった。
  • 范希朝を朔方・霊塩節度使に任じ、右神策の塩州定遠兵をその隷下に入れた。これは従来の弊を改め、辺将に責任を持たせる趣旨だった。

八月 河北三鎮の私闘をなだめる

  • 劉済・王士真・張茂昭が互いの私怨から、かわるがわる相手を罪する上表を行った。
  • 朝廷は房式を幽州・成徳・義武宣慰使として派遣し、和解させた。

九月 李錡入朝拒否から反乱へ

  • 蜀と夏州の反乱が鎮圧されると、各藩鎮は朝廷の威勢を恐れて入朝を願うようになった。鎮海節度使李錡も不安になり、入朝を求めたので、憲宗はいったん許可し、中使を京口へ遣わして将士を慰撫した。
  • しかし李錡には実際に入朝する気がなく、王澹を留後に置いたうえで、何度も出発を延期した。王澹と勅使が繰り返し督促すると、李錡は不快になった。
  • 憲宗がこれを宰相に問うと、武元衡は「求朝すれば許し、求止すれば許すでは、可否が李錡の手にあることになる。これでは天下を統御できない」と答えた。憲宗はその通りとして改めて出頭を命じた。
  • 李錡は窮して反乱を企てた。王澹が軍府の事務を握ると、李錡はいっそう不満となり、親兵に命じてこれを殺させた。冬服支給の場で騒擾が起き、王澹は兵に引きずり下ろされて殺され、勅使も危うく殺されかけたが、李錡は表面上は驚いて救ったふりをした。

十月 李錡の反乱と敗北

  • 朝廷は李錡を左僕射に転じ、代わりに李元素を鎮海節度使に任じたが、李錡は軍変で留後が殺されたのだと弁明した。
  • 李錡は腹心五人を蘇・常・湖・杭・睦の各州に鎮将として置き、それぞれ数千の兵で刺史を監視させていた。反乱決起にあたり、各地の刺史を殺させ、さらに庾伯良に石頭を整備させた。
  • 常州刺史顔防は客将李雲の策で、勅命を装って李深を斬り、周辺州に檄を飛ばして共に討伐を呼びかけた。湖州刺史辛秘も郷里の若者を募り、夜襲して趙惟忠を斬った。
  • 蘇州刺史李素は姚志安に敗れて捕えられ、李錡のもとへ送られる途中で船に釘づけにされたが、李錡敗亡によって助かった。
  • 朝廷は李錡の官爵と宗籍を奪い、王鍔を招討処置使として諸道兵を統率させた。
  • 一方、李錡が宣州攻略を命じた張子良・李奉仙・田少卿らは、かえって「李錡に従えば一族滅亡だ」と兵を説得し、甥の裴行立とも通じて夜に反転した。
  • 裴行立は城内で呼応し、李錡はもはや望みがないと悟って楼下に隠れた。親将李鈞は精鋭三百を率いて抗戦しようとしたが伏兵に斬られた。
  • 李錡は家人もろとも泣き叫ぶ中、側近に捕らえられ、幕に包まれて城下へ吊り下ろされ、械送された。彼の養った蕃落兵は争って自殺し、死体が折り重なった。
  • 本軍からその報告が届くと、群臣は紫宸殿で賀したが、憲宗は「天下にたびたび法を乱す者が出るのは、自分の不徳ゆえだ」として喜色を見せなかった。

十一月 李錡処刑と家財処分

  • 宰相たちは李錡の大功親以上の親族まで誅そうとしたが、兵部郎中蔣乂が、淮安靖王李神通の後裔まで末孫の罪で累するのは不当であり、また李錡の兄弟は戦死した功臣李国貞の子であるから祭祀を断つべきでないと主張し、受け入れられた。
  • 李錡の近親には左遷流放を科した。
  • 十一月、李錡が長安に到着すると、憲宗は興安門で面責した。李錡は「張子良らにそそのかされた」と言い逃れたが、元帥の地位にありながら反臣をなぜ斬らなかったのかと問い詰められ、答えられなかった。
  • 李錡は子の師回とともに腰斬に処された。
  • 官吏は李錡祖先の墓廟も破却しようとしたが、盧坦が「罪は本人父子で尽きている。先祖にまで及ぼすべきでない」と諫め、取りやめとなった。
  • さらに李錡の家財を京へ運ぼうとすると、裴垍と李絳が「これは浙西の民から搾り取ったものだから、今年の租税の代わりに現地の民へ返すべきだ」と進言した。憲宗はこれを賞して実行した。

卢従史と李絳の諫言

  • 昭義節度使盧従史は内々には王士真・劉済と通じながら、表向きは山東攻略の策を献じていた。勝手に兵を東へ出したため、憲宗は召し返したが、盧従史は邢・洺での兵糧調達を口実に、しばらく詔に従わなかった。
  • 憲宗は浴堂で李絳を召して、鄭絪が自分と中書の密議を盧従史に漏らしたと李吉甫が密奏したと語った。李絳は、鄭絪は世評の高い人物であり、むしろ同列が専権のために讒言した可能性があるから再考すべきだと進言した。憲宗は納得し、「卿の言がなければ誤っていた」と語った。
  • また、憲宗が「諫官には事実に基づかぬ誹謗が多いから、何人か左遷して他を戒めたい」と漏らすと、李絳は「それは君主の本意ではなく、言路を塞ぎたい奸臣の考えだ。諫言はもともと出にくいものなのに、これを罪すれば天下の口を塞ぐことになる」と論じ、憲宗も取りやめた。

尊号・白居易登用・公主降嫁

  • 群臣は尊号として「睿聖文武皇帝」を上奏し、憲宗はこれを許した。
  • 白居易は新楽府や詩によって時政を風刺し、その名が禁中に伝わっていた。憲宗はこれを見て喜び、白居易を翰林学士に召した。
  • 憲宗は宰相に対し、「太宗のような英主でさえ諫言には何度も往復があった。まして自分のような者には、卿らは一度二度でやめず、十度でも論じよ」と語った。
  • 高崇文を同平章事・邠寧節度使・京西諸軍都統とした。
  • 山南東道節度使于頔は憲宗の威勢を恐れ、子の于季友に帝女を尚らせるよう願い、普寧公主が降嫁した。李絳は于頔の家柄や于季友の立場を理由に反対したが、憲宗は聞き入れなかった。婚礼は盛大に行われ、于頔は予想外の厚遇に喜んだ。のち、これを機に入朝を促され、結局詔に従った。

この年の国計

  • 李吉甫は『元和国計簿』を献上した。それによれば、全国の方鎮は四十八、州府二百九十五、県千四百五十三であった。
  • ただし、鳳翔・鄜坊・邠寧・振武・涇原・銀夏・霊塩・河東・易定・魏博・鎮冀・范陽・滄景・淮西・淄青など十五道七十一州は戸口を申告していなかった。
  • 朝廷の租税収入の実質的な担い手は、浙江東西・宣歙・淮南・江西・鄂岳・福建・湖南の八道四十九州のみで、その税戸は百四十四万戸あまり、天宝年間の四分の一減ではなく、実際には四分の三近くまで減少していた。
  • 官給で養う兵は八十三万余で、天宝時の三分の一増。おおよそ民家二戸で兵一人を支える計算で、水旱や臨時徴発はこれに含まれていなかった。