資治通鑑唐紀 德宗神武聖文皇帝 貞元 二十年 684年
春正月 天徳軍の後継
- 天徳軍都防禦団練使で豊州刺史の李景略が死去した。
- 以前、宴席で誤って酢を出した給仕が罰せられるのを恐れ、判官の任迪簡が代わってそれを飲み、帰宅後に吐血したことがあった。その仁愛を軍士たちは忘れておらず、李景略の死後、任迪簡を節度使に推そうとした。監軍が別室に隔離したが、軍士は扉を破って連れ出したため、朝廷もこれを認めて後任とした。
- 吐蕃では賛普が死に、その弟が立った。
夏四月・六月 軍号改称と禁兵の私物化未遂
- 陳許軍を忠武軍と改称した。
- 左金吾大将軍李昇雲が禁兵を率いて咸陽に駐屯中、病にかかった。そこでその子の李政諲らが、河北藩鎮にならって、将士の上奏により父の職を代行させようと謀った。
- 六月に李昇雲が死去すると、朝廷はこれを厳しく処断し、官爵を追奪して家産を没収した。
昭義軍 盧従史の擁立
- 昭義節度使李長栄が死去した。皇帝は中使に親書を持たせ、軍士が推す大将を節度使に任じるよう伝えた。
- 軍中では来希皓が最も人望を得ていたが、彼は自分が不適任なら、たとえ一本の草であっても朝廷の命として敬って従うべきだと語り、固辞した。
- そこへ、位は低いが監軍と結んでいた兵馬使盧従史が名乗り出て、ひとまず自分が軍務を担当すると申し出た。監軍もそれに同調し、中使は懐中の詔を取り出して盧従史に与えた。来希皓はすぐに北面して賀し、軍士も異論を唱えなかった。
- 秋八月、朝廷は正式に盧従史を節度使に任じた。
九月 太子の病
- 太子が中風を患い、言葉を発することができなくなった。