資治通鑑唐紀 徳宗神武聖文皇帝 貞元 十五年 799年
春:宣武の大乱
- 正月甲寅、雅王逸が死去した。
- 二月丁丑、宣武節度使の董晋が死去した。
- 乙酉、その行軍司馬の陸長源を節度使に任じた。
- 陸長源は厳しく気性が急で、才を恃んで人を侮った。判官の孟叔度も軽薄で放縦、将士を侮り、軍中の人心を失っていた。
- 董晋の死後、陸長源は留後として、長く弛緩してきた将士を法で引き締めると言い放ち、人々を恐れさせた。人によっては、まず財を出して労軍すべきだと勧めたが、陸長源は、自分は河北の賊のように金で兵を買って節鉞を求めるのではないと拒んだ。
- 先例では主帥の死去に際し兵士へ喪服用の布を支給していたが、陸長源は現物でなく代金を支給した。その価格設定も不当で、人々はわずかな塩しか買えなかったため、不満が爆発した。
- ついに兵士たちは反乱を起こし、陸長源を殺した。孟叔度は切り刻まれて食われた。
- 監軍の俱文珍は、宋州刺史の劉逸準が旧来宣武軍の将で人気があることを知り、密書で召した。劉逸準は兵を率いて汴州に入り、乱を鎮めた。
- 己丑、劉逸準を宣武節度使とし、「全諒」の名を賜った。
浙西・浙東の人事
- 常州刺史の李錡を浙西観察使兼諸道塩鉄転運使に任じた。李錡は李国貞の子で、李斉運へ多額の賄賂を贈って推薦を得た。搾取して進奉することに長け、徳宗はそれを喜んだ。
- 庚辰、浙東観察使の裴粛は、台州で栗鍠を捕らえて斬った。
呉少誠との戦い
- 三月甲寅、呉少誠は唐州を襲い、監軍の邵国朝、鎮遏使の張嘉瑜を殺し、百姓千余人を掠めて去った。
- 戊午、昭義節度使の王䖍休が死去した。
- 戊辰、河陽懐州節度使の李元淳を昭義節度使とした。
- 癸巳、山南西道節度使の厳震が死去した。南詔の異牟尋は韋臯と協力して吐蕃を撃とうとしたが、韋臯は兵糧が整っていないとして翌年以後へ延ばした。
- 厳震の病中、都虞候の厳礪は媚びて知留後となり、厳震の遺表でも推薦された。七月乙巳、厳礪を山南西道節度使に任じた。
- 八月、陳許節度使の曲環が死去した。
- 乙未、呉少誠は臨潁を掠めた。陳州刺史で知留後の上官涚は、大将の王令忠に兵三千を授けて救援させたが、すべて呉少誠に捕えられた。
- 丙午、上官涚を陳許節度使とした。
- 呉少誠はそのまま許州を包囲した。上官涚は城を棄てて逃げようとしたが、営田副使の劉昌裔が、兵は十分であり、城門を閉じて持久すれば賊は衰えると説いて思いとどまらせた。
- 呉少誠が昼夜攻め立てると、劉昌裔は勇士千人を募り、城壁に穴を開けて出撃させ、大破した。こうして許州は守り抜かれた。
- 呉少誠はさらに西華を侵したが、陳許の大将・孟元陽がこれを撃退した。
- その後、都知兵馬使の安国寧が上官涚と不和になって呉少誠に通じようとしたため、劉昌裔は計略でこれを斬り、配下も一網打尽にした。
韓弘の登場
- 庚辰、宣武節度使の劉全諒が死去した。軍中では劉玄佐の恩を懐かしみ、その甥で都知兵馬使の韓弘を留後に推した。
- 韓弘は将兵の資質を見抜く力があり、粗暴か勇敢か、怯懦かを一見して使い分けることができた。
- 丙辰、朝廷は呉少誠の官爵を削り、諸道に命じて討伐を開始させた。
- 辛酉、韓弘を正式に宣武節度使とした。
- もともと呉少誠は劉全諒と、共に陳許を攻めて陳州を宣武へ渡す密約を結んでいた。使者もまだ館にいたが、韓弘はこれをすべて追い出して斬り、精鋭三千を選んで諸軍に合流させた。このため呉少誠は大きく勢いを失った。
年末の諸事
- 十月乙丑、邕王謜が死去した。太子の子で、徳宗に特に愛されていたため、文敬太子と諡された。
- 山南東道節度使の于頔、安黄節度使として寿州を統べる王宗、陳許の上官涚、宣武の韓弘らが進軍し、呉少誠をしばしば破った。
- 十一月壬子、于頔は呉房・朗山を奪取したと奏した。
- 十二月辛未、中書令・咸寧王の渾瑊が河中で死去した。渾瑊は高位にありながら驕らず、貢物も賜物も常に慎み深く取り扱い、徳宗の信任を保ったまま功名を全うした。
- 六州党項は長く石州に住んでいたが、永安鎮将の阿史那思暕が搾取を重ねたため、部落はみな河西へ逃げた。
- 呉少誠討伐軍には統帥がなく、各軍が勝手に利益を図って進退を合わせなかった。乙未、諸軍は小溵水で総崩れとなり、兵器・軍糧を捨てて敗走し、すべて呉少誠の手に落ちた。
- この失敗を受け、ようやく招討使を置く議論が起こった。
- 吐蕃は五万で南詔と嶲州へ分兵して攻めたが、異牟尋と韋臯がそれぞれ兵を出して防ぎ、吐蕃は戦果なく退いた。