資治通鑑唐紀 徳宗神武聖文皇帝 貞元 十四年 798年

二月:彰義軍の成立

  • 二月乙亥、申州・光州・蔡州の軍を「彰義軍」と改称した。

閏五月:韓全義軍の騒乱

  • 閏五月庚申、神策行営節度使の韓全義を夏綏銀宥節度使に任じ、長武城から本鎮へ向かわせた。
  • しかし夏州は沙漠・塩鹵の地で、しかも盛夏であったため、兵士たちは移駐を嫌った。辛酉、軍中で乱が起こり、大将の王栖巌が殺され、韓全義は城を越えて逃げ出した。
  • 都虞候の高崇文が首謀者を討ってようやく鎮めた。高崇文は幽州の人である。
  • 丙子、高崇文を長武城都知兵馬使に任じたが、正式の詔勅ではなく、中使の口宣だけで授官した。これは宦官を重んじ詔命を軽んじる風を示していた。

秋:宰相交替と神策軍の膨張

  • 七月壬申、趙宗儒を罷めて右庶子とし、鄭余慶を宰相に任じた。
  • 八月、左右神策統軍を初めて置いた。神策軍はもはや六軍の外に独立した巨大軍団となっていた。
  • この頃、禁軍が辺地に駐屯すると給与が厚かったため、諸将は遠征軍を名目に神策軍への所属を願い出た。こうして神策軍は十五万人にまで膨張し、みな中尉の統轄下に入った。

宮市をめぐる処罰

  • 京兆尹の呉湊は宮市の弊害を何度も訴えた。すると宦官たちは、呉湊の上奏は右金吾の趙洽・田秀巌の差し金だと訴えた。
  • 丙午、趙洽と田秀巌は天徳軍へ流された。

呉少誠の侵攻と陽城の左遷

  • 九月丙申、于頔を山南東道節度使に任じた。
  • 丁卯、把王倕が死去した。
  • 彰義節度使の呉少誠は寿州の霍山を掠め、鎮遏使の謝詳を殺し、五十余里の地を奪って兵を置いた。
  • 太学生の薛約は陽城に師事していたが、罪に連なって連州へ流されることになり、陽城は見送りに出た。徳宗はこれを、陽城が罪人に党したものとみなし、己巳、道州刺史へ左遷した。
  • 陽城は民を家族のように治めたが、租税収入は上がらず、観察使からしばしば責められた。そこで自らの考課に「撫育には心を尽くしたが徴税は拙い」と記して最下等とした。
  • 観察使が判官を派遣して督促すると、陽城は先に自ら獄に入り、判官を驚かせた。後の判官は妻子を連れて赴こうとしたが、途中で逃げてしまった。陽城の人望がいかに厚かったかを示す逸話である。

冬の諸事

  • 十月丁酉、通王諶が死去した。
  • 庚子、韓全義は塩州西北で吐蕃を破ったと奏上した。
  • 明州の鎮将・栗鍠が刺史の盧雲を殺し、山越を誘って浙東の州県を陥した。