資治通鑑唐紀 徳宗神武聖文皇帝 貞元 十三年 797年

正月から三月:対吐蕃の築城

  • 正月壬寅、吐蕃が使者を送って和親を請うたが、徳宗はたびたび盟約を破ってきたとして許さなかった。
  • 徳宗は、方渠・合道・木波がいずれも吐蕃の要路であるため、そこへ城を築きたいと考え、邠寧節度使の楊朝晟に必要兵力を問うた。楊朝晟は、自軍だけで足り、他道の兵を煩わせる必要はないと答えた。
  • 皇帝が、塩州築城の際は七万人を使ってようやく成し遂げたのに、今回はなぜ少兵でよいのかと重ねて問うと、楊朝晟は、今回は本鎮の兵を迅速に出せば敵が備える前に城を完成できる、各道の兵を大々的に集めればかえって敵に察知され争奪戦になると説明した。徳宗はこれに従った。
  • 二月、楊朝晟は軍を三つに分けて三城を築いた。方渠に井戸がないので駐屯不能だという声もあったが、判官の孟子周が、平時には人が市をなして住んでいたのだから井戸がないはずがないとして古井戸を掘らせ、甘泉を得た。
  • 三月、三城は完成した。

四月:楊朝晟の成功

  • 四月庚申、楊朝晟の軍は馬嶺まで帰ると、はじめて吐蕃軍の追撃を受けた。数日対峙して敵を退かせた後、楊朝晟はさらに馬嶺にも築城して帰還した。
  • この作戦で三百里の地を確保し、すべて事前の見通しどおりに進んだ。

義成・山南西道の不安

  • 庚午、義成節度使の李復が死去した。
  • 庚辰、陜虢観察使の姚南仲を義成節度使に任じた。
  • 監軍の薛盈珍は、大会中にこの報を聞いて、姚南仲は書生で将才に乏しいと言った。判官の盧坦は、姚南仲は外柔内剛であり、監軍の干渉を受け容れまい、その禍がここから始まるだろうと語り、自身も巻き込まれるのを恐れて別路から去った。のち実際に盈珍と南仲は対立し、幕僚の多くが罪に連座して左遷・死亡した。
  • 吐蕃では賛普乞立賛の死後、子の足之煎が立った。
  • 六月壬午、韋臯は吐蕃が嶲州へ侵入したが、刺史の曹高仕が台登城下で撃破したと奏した。
  • 張茂宗は義章公主との婚姻を控えていたが、母の死に際してなお婚礼を完遂したいとの遺表を出し、徳宗はこれを許した。

八月:蔣乂らの諫言

  • 八月癸酉、張茂宗を喪中のまま左衛将軍同正に復帰させた。
  • 左拾遺の蔣乂は、戦時に喪服のまま従軍する先例はあるが、駙馬が起復して公主に尚ぶ例は聞かないとして上疏し、婚礼延期を求めた。
  • 徳宗は中使を遣わして説得したが、蔣乂はやめなかったため、延英殿に召し出して問いただした。皇帝は、世間では吉日を借りて婚礼をすることもあるではないかと言ったが、蔣乂は、婚姻と喪礼は人倫の大事であり、吉凶をみだりに混ぜるべきではない、貧しく礼を知らぬ家の例を持ち出してはならないと反論した。
  • 太常博士の韋彤・裴堪も重ねて諫めたが、徳宗は不快とし、婚礼を急がせた。辛巳、張茂宗は義章公主と成婚した。

秋冬の諸事

  • 九月己丑、宰相の盧邁が病により太子賓客へ退いた。
  • 十月、淮西節度使の呉少誠が勝手に刀溝を開いて汝水へ通じさせた。皇帝の制止にも従わず、兵部郎中の盧群が派遣されて責めると、君命に背いて臣下へ命令できるのかと諭され、ようやく工事をやめた。
  • 十二月、徐州節度使の張建封が入朝した。このころ宮中の買上げである「宮市」が大きな弊害となっていた。
  • もとは官吏が市中の物を買い、代価も支払っていたが、近年は宦官が使いとなり、数百人の手先を東西両市や繁華街に置いて、「宮市」と称して人の物をほとんど奪い取るようになっていた。
  • 代価は市価に遠く及ばず、しかも赤紫に染めた古衣や破れた絹切れを押し付け、さらに門戸費用や運搬費まで徴収した。商人は良品を隠し、使者が出ると汁売り・餅売りまで店を閉じる始末であった。
  • 柴を驢馬で売りに来た農夫が、宦官に柴を奪われたうえ、驢馬まで差し出せと迫られ、死を覚悟して抵抗した事件も起きた。宦官は処罰され、農夫には絹十匹が賜ったが、制度そのものは改まらなかった。
  • 諫官や御史はたびたび諫めたが用いられず、張建封が朝見して詳しくこれを訴えると、徳宗も一応は評価して度支の蘇弁に尋ねた。蘇弁は、都の無業者たちは宮市に頼って生きていると宦官寄りに答え、徳宗はそれを信じて改革しなかった。