資治通鑑唐紀 徳宗神武聖文皇帝 貞元 十一年 795年
二月:渤海王の冊命
- 春二月乙巳、嵩鄰を改めて忽汗州都督・渤海王に冊立した。
陸贄派の追放
- 陸贄が宰相を罷めさせられると、裴延齢はさらに京兆尹の李充、衛尉卿の張滂、前司農卿の李銛が陸贄と結んでいると讒言した。
- ちょうど旱魃があり、裴延齢は、陸贄らが失勢を怨み、天下が旱で民が流亡し、軍糧も足りぬと吹聴して人心を動揺させている、と訴えた。
- 数日後、皇帝が苑中で狩りをしていたところ、たまたま神策軍の兵士が馬の飼料不足を訴えた。徳宗は裴延齢の言が真実だと思い込み、急いで宮中へ帰った。
- 四月壬戌、陸贄を忠州別駕、李充を涪州長史、張滂を汀州長史、李銛を邵州長史に左遷した。
陽城の諫争
- 陽城は、もと隠者から諫議大夫に徴された人物で、人々は死をもって諫める名臣になると期待していた。だが実際には、他の諫官が細かなことばかり言うのをよそに、弟や客人と日夜飲酒し、世人は名ばかりだと見なした。韓愈は『争臣論』を作ってこれを諷した。
- 陽城は意に介さず、訪客が意見を求めようとしても、酔わせたり自ら先に酔い潰れたりして、容易に本心を見せなかった。
- 陸贄らの左遷が決まり、宮中外ともに天子の怒りがまだ解けず、誰も救おうとしないと知ると、陽城はついに立ち上がった。
- 陽城は拾遺の王仲舒、帰登、右補闕の熊執易・崔邠らを率いて延英門に伏し、裴延齢の奸佞と陸贄らの無罪を論じる上疏を奉った。
- 徳宗は激怒して彼らを罪しようとしたが、太子が救い、宰相にも説諭させて退かせた。
- 金吾将軍の張万福はこの報を聞くと、延英門に駆けつけて、朝廷に直臣があれば天下は必ず太平になると大声で祝い、陽城らを次々に拝し、「太平万歳」と呼び続けた。武人ながらこのことで名声を高めた。
- 陽城は、もし裴延齢が宰相になれば、自分はその任命文書を奪って壊し、庭で慟哭するとまで言った。
- また陽城は、裴延齢の罪悪を詳細に列挙して密奏しようとしたが、清書を頼んだ李繁が旧知の子であったため油断し、そのまま裴延齢に密告された。裴延齢は先に皇帝へ出て一つずつ弁解し、のちに疏が届いても徳宗は取り上げなかった。
北方情勢
- 丙寅、幽州は奚王の啜利ら六万余を破ったと奏上した。
- 回鶻では奉誠可汗が死去し、子がなかったため、国人は宰相の骨咄禄を立てて可汗とした。骨咄禄はもとは別姓であったが、即位後に薬葛羅氏を名乗った。唐に使者を送り、喪を告げた。
- 天親可汗以後の幼い王族たちは、唐の朝廷内に留め置かれた。
五月:宣武・昭義・河東
- 五月丁丑、宣武留後の李万栄、昭義左司馬で留後を領していた王䖍休をともに節度使に任じた。
- 甲申、河東節度使の李自良が死去した。監軍の王定遠は行軍司馬の李説を留後に推し、朝廷もこれを認めた。
- 李説は王定遠の推挙に深く恩義を感じ、監軍印の鋳造を請うた。監軍が印を持つようになったのはここからである。
- 庚寅、張薦を遣わして回鶻の骨咄禄を新可汗に冊立した。
七月:陽城の転任と河東の内紛
- 七月丙寅朔、陽城は裴延齢を論じたことによって国子司業に転じさせられた。
- 王定遠は、自分が李説を立てた功を頼みに河東軍政を専断し、諸将の人事を動かした。李説がすべてに従わなくなると、両者は不和となった。
- 王定遠は私怨から大将の彭令茵を殺し、馬糞の中に埋めたため、将士の憤怒を招いた。李説がその状況を奏上すると、王定遠は李説のもとへ押しかけ、抜刀して刺したが、李説は逃れた。
- 王定遠は諸将を集め、箱に入れた二十余通の「勅書・告身」を見せ、李説を京師へ召して李景略を留後にする命令だと偽り、諸将の昇進も約束した。
- しかし馬良輔が箱の中を密かに確かめると、それらは王定遠自身の辞令などにすぎなかった。偽物だと喝破されると、王定遠は乾陽楼へ逃げ上がったが、支持する者はおらず、城を越えて落ち、枯れ株に傷ついて死んだ。
秋冬の諸事件
- 八月辛亥、司徒兼侍中の馬燧が死去した。
- 閏月戊辰、元誼は洺州を偽って降伏すると見せ、王䖍休が送り込んだ二千人を城内で皆殺しにした。
- 九月丁巳、韋臯に「雲南安撫使」を加えた。
- 横海節度使の程懐直は士卒をいたわらず、狩りに出て何日も帰らなかった。従兄の程懐信は兵馬使として兵の怨望を背景に門を閉ざして拒み、懐直は京師へ逃れた。
- 十月丁丑、程懐信を横海留後とした。
- 南詔は吐蕃の昆明城を攻め落とし、さらに施・順の二蛮王を捕らえた。