資治通鑑唐紀 徳宗神武聖文皇帝 貞元 十年 794年
六月:昭義の継承問題
- 六月壬寅朔、昭義節度使の李抱真が死去した。子の李緘は、従甥の元仲経と図って喪を伏せ、父の名で上表して自らが職を継ぐよう求めた。さらに父の書状を偽作して、王武俊に財貨の貸与まで求めた。
- 王武俊は、李抱真とは王室を助けるために交わったのであって、お前とともに私欲を事とするつもりはない、と激怒した。朝命を待たずに自立し、しかも自分に援助を求めるとは何事かとして、使者を帰し厳しく非難した。
- 昭義軍の歩軍都虞候・王延貴は、もとより義勇で知られていた。朝廷はすでに李抱真の死を知っており、中使の第五守進を派遣して情勢を見させるとともに、軍務を王延貴に委ねた。
- 第五守進が上党に着くと、李緘は父が病気で会えないと言って三日引き延ばした。やがて武装して面会したが、第五守進は朝廷はすでに死去を把握しており、王延貴に軍政を仮託したので、お前は喪を発して服喪すべきだと告げた。
- 李緘は愕然として諸将に相談したが、誰も同意しなかった。恐れて帰宅し、ようやく喪を発して、節度使の印と城門・倉庫の鍵を監軍に渡した。
- 第五守進は王延貴を呼び、口頭の詔旨を伝えて軍務を執らせた。また李緘には東都へ急行するよう命じ、元仲経は逃亡した。王延貴はすべての責任を元仲経に負わせ、捕えて斬った。
- 朝廷は王延貴に昭義軍事の代行を命じた。
南詔の朝貢と冊封
- 雲南王の異牟尋は、弟の湊羅棟を遣わして地図・土産・吐蕃から受けた金印を献上し、あわせて再び「南詔」の号に戻したいと願い出た。
- 朝廷は祠部郎中の袁滋を冊使として派遣し、新たに「貞元冊南詔印」の文字を刻んだ銀窠金印を与えた。
- 袁滋がその国に着くと、異牟尋は北面して跪き、冊書と印を受けて深く礼した。宴席では、かつて玄宗から賜った器物や、唐から贈られた龜茲楽の楽人・歌女を袁滋に示した。
- 袁滋は、祖先の遺志をよく考え、子々孫々まで唐に忠義を尽くすよう諭した。異牟尋は謹んでその命を受けると答えた。
張昇雲の改名と穆賛の左遷
- 義武節度使の張昇雲に「茂昭」の名を賜った。
- 御史中丞の穆賛は、度支の吏の汚職を調べていたが、裴延齢がこれを助けようとして対立した。穆賛が従わないため、裴延齢は中傷し、穆賛は饒州別駕に左遷された。
- 朝士たちは裴延齢を恐れて正面から逆らえず、穆賛のように抗する者は少なかった。
韋臯の戦功
七月以後:昭義・洺州の争い
- 七月壬申朔、王延貴を昭義留後とし、あわせて「䖍休」の名を賜った。
- 昭義行軍司馬で洺州刺史を代行していた元誼は、王䖍休が留後となったことを不満とし、磁・邢・洺の三州を分けて別鎮とするよう求めた。昭義の精兵の多くは山東側にいたため、元誼は厚く恩賞を施して将兵の心をつないだ。
- 皇帝はたびたび中使を遣わして説得したが、元誼は従わなかった。臨洺の守将・夏侯仲宣は城を挙げて王䖍休に帰順した。
- 王䖍休は磁州刺史の馬正卿に命じ、石定蕃らを率いて五千で洺州を攻めさせたが、石定蕃は兵二千を率いて元誼に寝返り、馬正卿は退いた。
- 朝廷は元誼を饒州刺史に任じたが、元誼は赴任しなかった。王䖍休は自ら兵を率いて攻め、洺水を引いて城を水攻めにした。
- 九月、王䖍休は元誼の軍を破り、進んで鶏沢を奪った。
南方の反乱
- 黄少卿が欽州・横州・潯州・貴州などを攻略し、邕州の孫公器を攻撃した。
裴延齢の専横
- 裴延齢は、官吏が多すぎるとして、欠員が出ても当分補充せず、その俸給を国庫に入れるよう提案した。
- 徳宗が神龍寺の造営に必要な大材の松が得られないと言うと、裴延齢は同州のある谷に八十尺級の木が数千本あると述べ、さらにこうした珍材は聖君の代だからこそ現れるのだと媚びた。
- また左蔵庫では検査によって、糞土の中から銀十三万両と大量の布帛・雑貨が見つかったと奏し、これらは捨てられた余剰物だから別庫に移して勅命用に回すべきだと主張した。韋少華が、これは月々報告済みの現存物資であるとして抗弁し、再調査を求めたが、皇帝は聞き入れなかった。
- 裴延齢は、奏対のたびに奇怪な理屈を並べ、人々の知らぬことまで断言した。徳宗もその誇大さをある程度は知っていたが、他人の悪事を言い立てる点を便利と見て重用した。
- 群臣は皆おそれて黙したが、塩鉄転運使の張滂、京兆尹の李充、司農卿の李銛らは職務の上でその虚妄を指摘し、なかでも陸贄が最も強く論難した。
十一月:陸贄の上書
- 十一月壬申、陸贄は上書し、裴延齢の奸邪・虚妄・聚斂・讒言・朝廷愚弄を徹底して糾弾した。
- その趣旨は、裴延齢は搾取を善政とし、虚構を謀略とし、讒言を忠節と称している、古来の奸臣に等しく、悪事は日々増している、もし無実だと思うなら弁明すべきであり、悪人と知りながらかばうなら国を誤る、というものであった。
- また、彼は「有るものを無いとし、無いものを有るとする」ほどの欺瞞を働き、天下の上下がみなその凶妄を知っているのに、これを上言する者は少ない、自分は宰相として黙っていられないとも述べた。
- しかし徳宗は不快感を示し、かえって裴延齢をますます厚遇した。
十二月:王䖍休の敗戦と陸贄の失脚
- 十二月、王䖍休は氷結した濠を渡って洺州を急攻したが、元誼が出撃してこれを防ぎ、王䖍休は敗れて退いた。日暮れに氷が解け、多くの兵が溺死した。
- 陸贄は、徳宗の信任が厚いことを頼みに、誤りがあれば常に力争して退かなかった。周囲が鋭すぎると諫めても、天子にも学問にも背かない以上、ほかに顧みることはないと言った。
- 一方、趙憬はかつて陸贄の推挙で宰相となったが、のちに陸贄を怨み、陸贄が裴延齢を批判した内容をひそかに裴延齢へ漏らした。そのため裴延齢は陸贄を陥れる手段を得た。
- 皇帝の前で陸贄が裴延齢の奸邪を論じた際、趙憬は約束に反して沈黙した。徳宗は怒りをあらわにし、壬戌、陸贄を罷免して太子賓客とした。
渤海王の交替
- 渤海では、文王・欽茂の没後に王位継承が相次いで乱れ、元義・華嶼を経て、欽茂の少子である嵩鄰が立ち、康王となって正暦と改元していた。