資治通鑑唐紀四十九 德宗神武聖文皇帝 貞元 七年 787年

正月・二月:宗室と回鶻冊命

  • 正月己巳、襄王僙が薨じた。
  • 二月癸卯、鴻臚少卿の庾鋋を遣わして回鶻の奉誠可汗を冊立した。

涇原防衛線の整備

  • 戊戌、涇原節度使劉昌に平凉故城の築城を命じ、弾箏峡口を扼する拠点とした。工事は十余日で完成した。
  • 劉昌はさらに朝谷堡を築き、甲子、その堡に彰信の名が与えられた。
  • これにより涇原方面はようやくやや安定した。

神策・諸軍の横暴への対処

  • 徳宗が長安へ帰還した際、神策などの禁軍には「興元元従奉天定難功臣」などの名号が与えられ、手厚く遇された。
  • そのため禁軍は恩恵をかさに着て驕横となり、百姓を侵し、府県を侮り、官吏を罵倒し、文書を破り捨てるようになった。
  • 府県の官が怒って兵士を処罰すると、朝に一人を笞打てば夕方にはその官が遠方へ左遷されるほどで、行政は立ち行かなくなった。
  • 富裕な民の中には賄賂で軍籍に名を寄せ、府県の支配を免れる者も多かった。
  • 辛巳、神威・神策など六軍の兵士が百姓と争う場合は府県に委ね、小事は本軍へ照会し、大事は奏聞、兵士が府県を侮辱した場合はその身柄を拘束して報告するよう詔した。県吏がみだりに兵士を笞辱した場合は左遷すると定めた。

易定・安南の変動

  • 癸未、易定節度使張孝忠が死去した。
  • 安南都護の高正平は重税を課していたため、夏四月、群蛮の酋長杜英翰らが挙兵して都護府を包囲した。
  • 高正平は憂悶のうちに死に、群蛮はそれを聞くとみな降伏した。貪虐な統治こそが乱の原因であったことが示された。
  • 五月辛巳、安南に柔遠軍を置いた。端王遇もこのころ薨じた。

雲南との連絡再開

  • 韋皋はここ数年、異牟尋へ繰り返し書を送っていたが、まだ正式な返答はなかった。とはいえ吐蕃が雲南兵を徴発するたびに、その供出数は減っていた。
  • 韋皋は異牟尋の内心が唐にあると見て、閤羅鳳の代に唐へ使いした経験を持つ段忠義を用い、六月丙申に雲南へ帰して親書を託し、重ねて説得した。

地方人事

  • 秋七月戊寅、定州刺史張昇雲を義武留後にした。
  • 庚辰、虔州刺史趙昌を安南都護に任じ、これにより群蛮は鎮まった。

八月以後:竇参への不信、西南・北辺の動き

  • 八月丙午、翰林学士の陸贄を兵部侍郎にした。これは竇参が彼を嫌って翰林から外したものであった。
  • 吐蕃は霊州を攻めたが、回鶻に敗れて夜に退いた。
  • 九月、回鶻はその捕虜を献上した。
  • 冬十二月甲午にも再び使者を送り、捕えた吐蕃の酋長尚結心を献じた。
  • 福建観察使の呉湊は善政で評判が高かったが、竇参は私怨から彼を貶め、しかも病とされた足の具合を、帝が歩かせて確かめたことで虚偽が発覚した。徳宗はこれによって竇参を憎むようになった。
  • 丁酉、呉湊を陝虢観察使に移し、竇参の党与である李翼を交代させた。
  • 睦王述が薨じた。
  • 吐蕃は韋皋の使者が雲南にいることを知って抗議したが、異牟尋は「あれはもともと南蛮人で、帰国を許されただけだ」と偽ってごまかし、いったんその使者を拘束して吐蕃へ送った。
  • 吐蕃は雲南の大臣の子を多く人質に取っていたため、雲南の恨みはさらに深まった。
  • また勿鄧の酋長苴夢衝はひそかに吐蕃と通じ、群蛮を扇動して雲南と唐の連絡を絶たせた。
  • 韋皋は三部落総管蘇峞に兵を与えて琵琶川へ進ませ、翌年の討伐の布石とした。