資治通鑑唐紀四十九 德宗神武聖文皇帝 貞元 六年 786年
春:仏骨迎奉
- 詔により岐山の無憂王寺にあった仏の指骨を迎えて禁中に安置し、さらに諸寺へ送って人々に示した。
- 都の人々はこぞって礼拝し、施物は巨万にのぼった。
- 二月乙亥、再び元の場所へ葬った。
河北:棣州をめぐる争い
- 朱滔が敗れたのち、その棣州刺史趙鎬は王武俊に降っていたが、武俊のもとで罪を得て召されたものの応じなかった。
- 一方、田緒は残忍で、兄の田朝が李納のもとで斉州刺史をしていたため、李納が田朝を魏州へ迎えるのではと恐れた。
- 判官孫光佐らは、李納に厚く賄賂を送って趙鎬を招き、棣州を取らせて歓心を買うよう進言した。田朝を朝廷へ送る案も添えたため、李納はこれに応じた。
- 丁酉、趙鎬は棣州を李納に献じた。三月、王武俊の子士真が攻めたが勝てなかった。
回鶻の内紛と新可汗即位
- 回鶻の忠貞可汗は、弟に殺されて簒奪された。
- しかし西方で吐蕃と戦っていた大相頡干迦斯がまだ帰国していない間に、四月、次相ら国人が簒奪者を殺し、忠貞可汗の子阿啜を立てた。年は十五であった。
- 六月、頡干迦斯が帰国すると、次相は廃立の咎を恐れて可汗とともに郊外に出迎え、自分の擅立の経緯を伏して詫びた。郭鋒の持参した唐の国書や贈物もすべて差し出した。
- 幼い可汗は涙ながらに、国政はすべて「阿爹」である頡干迦斯に委ねると述べた。頡干迦斯はこれに感じ、臣礼を尽くしたので、国中はしだいに安定した。
五月:河北情勢の変動
- 五月、王武俊は冀州に駐屯して趙鎬を攻めようとしたが、趙鎬は部下を率いて鄆州へ逃げ、李納は棣州に兵を入れてこれを確保した。
- 田緒は孫光佐を鄆州へ送り、偽詔によって棣州を李納に属させた。
- 王武俊は怒り、子の士清を遣わして貝州を攻め、経城など四県を奪った。
北庭陥落と西域断絶
- 回鶻の大相頡干迦斯は吐蕃との戦いに敗れ、その間に吐蕃は北庭を急攻した。
- 北庭の人々は回鶻の苛斂誅求に苦しんでいたため、沙陀の酋長朱邪尽忠らとともに吐蕃へ降った。
- 節度使楊襲古は麾下二千を率いて西州へ逃れた。
- 秋、頡干迦斯は国中の兵数万を挙げて北庭回復を図ったが、再び吐蕃に敗れ、大半を失った。
- 楊襲古は残兵数百を収めて西州へ帰ろうとしたが、頡干迦斯に欺かれて留め置かれ、ついに殺された。
- 北庭の失陥により安西との連絡は完全に絶え、以後その存亡も分からなくなった。ただし西州だけはなお唐のために守られていた。
回鶻衰退と唐使への態度変化
- 葛祿は勝ちに乗じて回鶻の浮図川を奪った。回鶻は震え上がり、西北の部族を牙帳南方へ移して避難した。
- 回鶻は達北特勒梅録を郭鋒とともに唐へ送り、忠貞可汗の喪を告げ、新たな冊命を求めた。
- 以前は回鶻使者は中国で驕慢で、刺史と対等の礼を取っていたが、豊州刺史李景略はあえて高所に座って弔問を行い、梅録を低頭させた。
- これ以後、回鶻の使者は皆、李景略に庭中で拝礼するようになり、その威名は塞外に聞こえた。
冬:祭祀と河北調停
- 十月辛亥、郭鋒がようやく回鶻から帰朝した。
- 十一月庚午、徳宗は南郊で円丘を祀った。
- 徳宗は李納に何度も棣州を王武俊へ返すよう命じたが、李納は海州との交換を求めるなど引き延ばした。
- 最終的に李納は、まず王武俊が田緒から奪った四県を返還するなら棣州を返すと願い、徳宗はこれを認めた。
- 十二月、李納はようやく棣州を王武俊に返した。