資治通鑑唐紀四十八 德宗神武聖文皇帝 貞元 二年 786年

春正月・新宰相と財政改革

  • 壬寅、吏部侍郎の劉滋を左散騎常侍に進め、給事中崔造、中書舎人斉映とともに同平章事とした。
  • 崔造は江外に長くあって、財政・輸送をつかさどる諸使が君主を欺いていると見ており、水陸運使・度支巡院・江淮転運使などを廃止し、各道の租税を観察使・刺史に委ねて京師へ送らせるよう改めた。
  • 宰相にも尚書六曹の分担をさせ、劉滋・斉映・崔造らがそれぞれ担当を持つ形にした。また元琇に塩鉄・榷酒を、吉中孚に度支と両税を担当させた。

淮西の圧迫と李泌の漕運整備

  • 李希烈の部将杜文朝が襄州へ侵攻したが、二月癸亥、山南東道節度使樊澤がこれを捕らえた。
  • 崔造は元琇と親しかったため塩鉄を任せたが、韓滉がその失政を奏上し、甲戌、元琇は尚書右丞へ移された。これはのちの政争の伏線となった。
  • 陜州水陸運使の李泌は、集津から三門まで十八里にわたって山を削り、車道を開いて底柱の難所を避ける工事を進め、この月に完成させた。

春三月から夏四月・李希烈の死

  • 三月、李希烈の別将が鄭州を犯したが、義成節度使李澄が撃破した。
  • 李希烈は追い詰められたうえ病となり、夏四月丙寅、大将陳仙奇が医師の陳山甫に毒殺させた。
  • 陳仙奇はその勢いで李希烈の兄弟や妻子を皆殺しにし、軍勢を率いて降伏した。
  • 甲申、朝廷は陳仙奇を淮西節度使に任じた。

関中の食糧危機と韓滉の輸送

  • このころ関中の倉は尽き、禁軍兵士の中には軍中で食糧を与えられないことを嘆いて、道で叫ぶ者まで出た。
  • そこへ韓滉が米三万斛を陜州に運び込み、李泌が急報すると、皇帝は大いに喜んで太子に「これで父子とも生きられる」と語った。
  • 宮中では酒を自家醸造せず市中から取り寄せて祝宴を開き、神策六軍に使者を送って知らせると、兵士たちは万歳を叫んだ。
  • ただ、飢饉が続いていたため、急に食が足りたことでかえって死ぬ者も少なくなかった。数か月してようやく人々の顔色が元に戻った。
  • 程日華は横海軍節度使に任じられた。

秋七月・呉少誠の台頭

  • 七月、淮西兵馬使の呉少誠が陳仙奇を殺し、自ら留後を称した。彼はもと李希烈に寵任されており、その仇討ちを名分とした。
  • 己酉、虔王諒を申光随蔡節度大使とし、呉少誠を留後に任命した。また隴右行営節度使曲環を陳許節度使に移した。
  • 陳許は長年の荒廃で戸口が散っていたが、曲環は勤倹で寛簡な政治を行い、賦役を公平にしたため、数年で流民が戻り、兵糧ともに充実した。

秋八月・吐蕃の大侵攻

  • 癸未、義成節度使李澄が死去した。子の李克寧は喪を秘して軍権掌握を図った。
  • 丙戌、吐蕃の尚結賛が大軍で涇・隴・邠・寧へ侵入し、人畜を奪い、作物を刈り払ったため、西辺は騒然となり、州県はみな城に籠った。
  • 朝廷は渾瑊に一万人、駱元光に八千人を率いさせて咸陽に駐屯させ、これに備えさせた。

府兵制復活論

  • 以前から皇帝と李泌は府兵制の復活を議しており、この時、李泌は西魏以来の府兵の沿革と、その長短を詳しく説いた。
  • 府兵は平時は農に従い、農閑期に訓練し、有事に符契で召集された。兵が帰ればそのまま帰農し、遠征も一年を越えないのが原則だった。
  • ところが高宗以後、吐蕃対策で久戍が常態化し、武后以後の太平で府兵は崩れ、さらに牛仙客らの財利重視、辺将の搾取で戍卒は著しく苦しんだ。
  • 開元末以降の募兵制では、兵が土地にも家族にも結びつかず、利だけで動くようになり、反乱や主将殺し、自立が絶えなくなった。
  • 李泌は、もし府兵法が保たれていれば、ここまで上下秩序の崩壊は起こらなかったはずで、府兵再建は国家の福だと説いた。
  • 皇帝は、河中平定後にさらに相談しようと答えた。

秋九月・十六衛整備と義成軍

  • 丁亥、十六衛に上将軍を置き、神策左右廂を左右神策軍に、殿前射生左右廂を殿前左右射生軍に改め、それぞれ大将軍・将軍を置いた。
  • 庚寅、李克寧はついに父李澄の喪を発し、行軍司馬馬鉉を殺して喪服姿で軍務を執った。
  • 劉玄佐が国境に出兵して圧力を加え、また諭告したため、李克寧は節度使位の世襲を強行できなかった。
  • 丁酉、東都留守賈耽が義成節度使に任じられた。李克寧は府庫の財を持ち出して夜逃げし、軍士に略奪された。
  • 淄青兵数千が滑州を通過した際、将佐は城外宿営を勧めたが、賈耽は城中に受け入れた。自らは少数の騎兵で李納の境を狩猟し、李納はその度量に服して侵さなかった。

吐蕃との攻防と李晟・馬燧・渾瑊

  • 吐蕃の遊騎が好畤に及ぶと、京城は戒厳となり、吐蕃を恐れてまたも皇帝が逃避するとの噂まで流れた。斉映が泣いて諫め、皇帝も動かされた。
  • 李晟は将王佖に伏兵策を授け、吐蕃の先頭ではなく中軍を襲わせた。王佖はその指示どおりに戦って尚結賛を敗走させた。
  • 尚結賛は唐の良将として李晟・馬燧・渾瑊の三人を挙げ、今後は計略でこれを除くべきだと語った。
  • 吐蕃軍は鳳翔城下にまで来て、李晟が自分たちを招いたのだと偽って揺さぶりをかけたが、一夜で退いた。これは李晟を離間するための芝居だった。

冬十月から十一月・吐蕃の退却

  • 癸亥、李晟は蕃落使野詩良輔と王佖に歩騎五千を授け、吐蕃の摧砂堡を急襲させた。
  • 壬申、吐蕃二万と遭遇してこれを破り、そのまま堡を落とし、将扈屈律悉蒙を斬り、蓄積を焼いて帰った。
  • 尚結賛は寧・慶方面から北へ退き、韓遊瓌は夜襲や偽鼓でこれを脅かし、吐蕃は掠奪品を捨てて去った。

冬十一月から十二月・后妃・塩州・劉玄佐

  • 甲午、淑妃王氏を皇后に立てたが、乙未に韓滉が入朝し、丁酉にはその皇后が死去した。
  • 辛丑、吐蕃が塩州に侵攻し、刺史杜彦光に退去を認めると告げたため、杜彦光は人々を率いて鄜州へ逃れ、吐蕃は塩州を占拠した。
  • 劉玄佐は周辺諸鎮の先例にならって長らく入朝していなかったが、汴州を通過した韓滉がその母にまで会って涙ながらに早期入朝を勧め、費用として大金を与え、軍にも厚く賞を施した。
  • 劉玄佐は韓滉の真意と力量を知って感服し、壬寅、曲環とともに入朝した。

冬十二月・崔造失脚

  • 崔造は銭穀制度を改めたが、うまく行かなかった。諸使の職務はすでに長く定着しており、内外ともに旧制を当然視していた。
  • 元琇が職を外れ、崔造も不安と病で政務を見られなくなった。
  • 江淮からの運米が大量に到着すると、皇帝は韓滉の功を称え、丁巳、韓滉に度支・塩鉄・転運などを兼ねさせ、崔造の改革を大きく元に戻した。
  • 吐蕃はさらに夏州・銀州・麟州を脅かし、守りの薄い地域は占拠または荒廃した。
  • 韓滉がしばしば元琇を中傷したため、庚申、崔造は右庶子に左遷され、元琇は雷州司戸に流された。
  • 吏部侍郎班宏が戸部侍郎・度支副使となった。
  • 韓遊瓌は塩州奪回のため、吐蕃救援軍が出れば河東軍で背後を突く策を上奏し、丙寅、朝廷は駱元光・韓全義・邠寧軍・河東軍を動員した。
  • 馬燧が石州に至ると、河曲の六胡州が降伏し、その住民は雲州・朔州方面へ移された。

年末・李晟への讒言

  • 工部侍郎張彧は李晟の女婿だったが、李晟が別の幕客崔樞をより重んじたため憤り、張延賞に接近した。かつて李晟の行軍司馬だった鄭雲逵も同じく張延賞に加わった。
  • 皇帝自身も李晟の功名を警戒していたところへ、吐蕃の離間策と張延賞らの讒言が重なり、李晟は昼夜泣いて目を腫らした。
  • 李晟は子弟を長安へ送り、出家して兵権を返したいと願い出たが、皇帝は慰撫して許さなかった。
  • 辛未、李晟が入朝して足病を理由に方鎮を辞したいと願うと、皇帝は許さず、韓滉・劉玄佐に詔意を伝えさせて張延賞との和解を促した。
  • 李晟と張延賞は互いの家で宴を開き、表面上は兄弟のように和した。さらに韓滉は李晟に張延賞を宰相に推薦させた。