資治通鑑唐紀四十七 德宗神武聖文皇帝 貞元 元年 785年
春正月 改元と顔真卿追贈
- 丁酉朔、天下に大赦を行い、元号を貞元と改めた。
- 癸丑、顔真卿に司徒を追贈し、諡を文忠とした。
盧杞再起用論争
- 新州司馬に左遷されていた盧杞は、大赦により吉州長史へ移されると、「自分は必ずまた用いられる」と周囲に語った。
- まもなく徳宗は本当に彼を饒州刺史に起用しようとした。
- 給事中の袁高は制書起草を拒み、盧翰・劉從一に対し、盧杞は宰相として車駕を播遷させ、天下に大禍をもたらした人物なのだから、大郡への転出すら許すべきでないと訴えた。しかし二人は取り合わなかった。
- そこで別の舎人に制書を書かせたが、袁高はなお下付を拒み、さらに上奏して、天下の人心がこれを許さぬと強く主張した。
- 補闕の陳京・趙需らも上疏し、盧杞は三年にわたり権をほしいままにして政務を乱し、華夷ともに憎まれていると弾劾した。
- 丁巳、袁高は正牙でも面前奏論した。徳宗は「すでに二度赦している」と言ったが、袁高は、赦しは罪を宥めるだけで、刺史に任ずる理由にはならないと反論した。陳京らもなお争い続け、「もし再用すれば姦党が一斉に勢いづく」と言った。
- 徳宗は激怒したが、袁高らは退かず、ついに戊午、宰相に「小州の刺史ならどうか」と尋ねた。李勉は、「陛下が与えたいなら大州でもよいが、天下の失望をどうするのか」と答えた。
- 壬戌、盧杞は灃州別駕にとどめられた。徳宗は袁高に、熟考してみればお前の言は実に適切だったと認めた。
- 李泌は、ここ数日人々が徳宗を桓帝・霊帝になぞらえていたが、今の決断はむしろ堯舜も及ばぬほどだと持ち上げ、帝を喜ばせた。盧杞はついに灃州で死んだ。
三月 李希烈の鄧州陥落と田緒婚姻
- 三月、李希烈は鄧州を陥れた。
- 戊午、李澄を鄭滑節度使とした。
- また、代宗の娘の嘉城公主を田緒に嫁がせた。
李懷光配下の離心
- 李懷光の都虞候・呂鳴岳は密かに馬燧へ通じたが、事が漏れて懷光に殺され、一族も皆殺しにされた。
- この件は幕僚の高郢・李鄘にも連座し、懷光は将士を集めて責めたが、郢と鄘は逆順の理を堂々と述べて少しも恥じなかった。懷光は二人を囚えた。
馬燧・渾瑊の進撃
- 馬燧は宝鼎で懷光軍を陶城に破り、首級一万余を斬った。
- さらに兵を分けて渾瑊と会し、河中へ圧迫を強めた。
- 四月丁丑、曹王臯は荊南節度使となった。李希烈配下の李思登は隨州をもって降伏した。
- 壬午、馬燧と渾瑊は長春宮南で懷光軍を破り、塹壕を掘って宮城を包囲した。懷光の諸将は次々に降ったため、二人は招撫使にも任じられた。
五月 劉洽改名と河中の動揺
- 丙申、劉洽は名を玄佐と改めた。
- 韓遊瓌は渾瑊に兵を請い、朝邑を取ろうとした。懷光の将閻晏はこれを争おうとしたが、兵卒たちは「向こうは我らの父兄か子弟ではないか。どうして刃を交えられようか」と口々に言って従わなかった。
- 閻晏はやむなく兵を引いた。懷光は衆心が離れたと知り、唐に帰順するふりをして財貨や車馬を整え、道が通れば貢献に赴くと言い張って、しばらく延命した。
六月 劉玄佐兼汴州刺史・韋皋の西川赴任
- 辛巳、劉玄佐は兼ねて汴州刺史となった。
- 辛卯、韋皋は金吾大将軍から西川節度使へ転じた。
朱滔の死と劉怦
- 朱滔が病死すると、幽州の将士は前涿州刺史の劉怦を推して軍務を掌らせた。
- 劉怦はもとより留守を任されることが多く、衆望があったためである。
李懷光赦免論と李晟の反対
- 連年の旱魃と蝗害で財政は窮乏し、進言する者の多くが李懷光赦免を請うた。
- これに対し李晟は、赦免には五つの不可があると上奏した。河中は長安に近く、兵備を減らせばすぐ都を脅かすこと、懷光の支配地を返せば渾瑊や康日知の配置が不安定になること、周辺の異族や李希烈が唐の弱さと見ること、朔方将士への叙勲や諸軍解散後の賞与が満足にできず不満を残すこと、そして現に河中は窮乏し、放っておいても内潰する兆しがあること、であった。
- さらに自ら二万の兵を率い、食糧も軍中でまかなって単独で討ちたいと願い出た。
七月甲午朔 馬燧の入朝と討伐継続
- 七月甲午朔、馬燧が行営から入朝し、懷光の凶逆は甚だしく、赦せば天下に示しがつかないので、もう一月分の糧だけあれば必ず平定すると奏した。
- 徳宗はこれを許した。
陜州の達奚抱暉反乱と李泌の単騎赴任
- 陜虢都兵馬使の達奚抱暉は、節度使の張勸を毒殺して軍務を総攬し、節旄を要求するとともに、密かに李懷光配下の達奚小俊を援軍に呼んだ。
- 徳宗は、もし蒲州の懷光と陜州の抱暉が連携すれば急には制し難く、水陸の運送も絶たれるとして、李泌に陜虢都防禦水陸運使として赴任させた。
- 徳宗は神策軍を護衛に付けようとしたが、李泌は、大兵で近づけば抱暉は籠城するので、自分一人で入るほうがよいと主張した。大軍に対しては非力でも、小人数での刺客なら逆に味方へ引き入れられるかもしれず、また馬燧軍が近くにいると見せれば抑止にもなるという理屈であった。
- さらに李泌は、陜州の進奏官や長安にいる将吏に対し、「自分は饑饉の陜虢へ米を運ぶために来るだけであり、抱暉が使える人物なら、そのまま行営を率いさせ功があれば旌節も与えられる」と吹聴させた。抱暉はこれを聞いて少し安心した。
- 戊申、李泌は馬燧とともに出発し、庚戌には陜虢観察使を加えられた。
- 潼関を出ると、鄜坊節度使の唐朝臣が歩騎三千を関外に並べて護送しようとしたが、李泌は「一人で入らねば意味がない」として詔旨文書を書いて退かせ、自ら先へ急いだ。
- 泌が曲沃に泊まると、抱暉の将佐たちが命を待たずに迎えに来たので、泌は「成功した」と笑った。城の十五里手前でようやく抱暉本人も出迎えた。
- 李泌は抱暉に対し、軍中の雑音に惑わされず、よく城を保った功があると称え、職務も将佐もそのままとすると告げた。抱暉は喜んだ。
- 着任後、側近が密談を申し出ても、李泌は「易帥のときの雑言はよくあることだ。聞きたくない」と取り合わず、ひたすら簿書と糧儲の整理に専心した。これで反側の者たちも安心した。
- 翌日、李泌は抱暉を私邸に呼び、「お前を誅しないのは情からではない。今後、危地に朝命で赴く将帥が誰も入れなくなるのを恐れるからだ」と諭した。そして張勸の祭祀をさせたうえで、関中には入らず自分で安住の地を選び、後日ひそかに家族を引き取れと命じた。
- 徳宗はあらかじめ陜州で乱に与した者七十五人の名簿を泌に授けて処刑させようとしていたが、泌は抱暉を追放した後、すでに大勢は決したとして、それ以上の追及を避けた。
- それでも中使が来て誅殺を強いたため、やむなく兵馬使の林滔ら五人を械送し、減刑を願った。彼らは天徳に流されたが、一年余りのち結局殺された。抱暉自身は逃亡して行方知れずとなった。
- 達奚小俊は軍を率いて境に来たが、李泌がすでに陜州に入ったと聞いて引き返した。
幽州人事と旱災
- 壬辰、劉怦は幽州盧龍節度使となった。
- この頃、大旱で灞水・滻水も涸れかけ、長安の井戸にも水がなくなった。
- 度支は、内外の経費はわずか七十日分しか支えられないと奏上した。