資治通鑑唐紀四十七 德宗神武聖文皇帝 興元 一年 784年
五月 行在への物資輸送と韓滉の働き
- 鹽鐵判官の王紹が、江淮から繒帛を運んで行在に到着した。徳宗は、まず将兵に支給してから自らの衣服に回すよう命じた。
- 韓滉は綾羅四十擔を献上しようとし、幕僚の何士幹に使者役を頼んだ。何士幹が帰宅してみると、出発のための薪米から旅装、細かな日用品に至るまで、すでに門前や舟中へ整えられていた。担夫一人ずつにも銀が与えられており、韓滉の周到さが示された。
- また韓滉は米百艘を李晟に送った。米は素早く積み込まれ、各船に弩手を配して警戒し、船同士の連絡法も定めたため、渭橋に着くまで盗賊は近づけなかった。関中では米価が極端に高騰していたが、この米の到着で大きく下落した。
- 韓滉は剛毅で事務能力に優れながら、自身の生活は質素で、夫人も破れた絹裙を着続けるほどだった。
吐蕃離反と陸贄の進言
- 吐蕃は韓旻らを破った後、大いに掠奪して退き、さらに朱泚が田希鑒を通じて贈った金帛も受け取った。
- 韓遊瓌と渾瑊は、吐蕃の尚結贊が長安攻略を約しておきながら現れず、春の疫病のためすでに兵を引いたと報告した。
- 徳宗は李晟・渾瑊の兵力不足を憂え、吐蕃の助力に頼りたいと考えていたため、その撤兵を深く心配した。
- 陸贄は、吐蕃は貪欲で狡猾であり、味方にしても害が多く益は少ないとして、撤退をむしろ喜ぶべきだと論じた。吐蕃がいる限り、唐軍は前進も連携も難しく、将兵・百姓・賊党の心も乱れるとした。
- また陸贄は、現地の将帥に裁量を与えず、遠方の朝廷が細かく指図するのは失策だとし、将を選んだ以上は任せ、特別の賞を示して奮起を促すべきだと進言した。
涇王の死と徐海沂密の動き
- 癸酉、涇王侹が死去した。
- 徐海沂密観察使の高承宗が死に、甲戌、その子の高明應が軍務を代行した。
朱滔の敗北
- 乙亥、李抱真と王武俊は貝州の三十里の地点に進軍した。朱滔は両軍来襲を聞いて馬寔を急ぎ呼び寄せた。
- 朱滔の側近の中には、王武俊は野戦に強いので正面決戦を避け、回紇に敵の糧道を断たせて持久戦に持ち込むべきだという意見もあったが、滔は決めきれなかった。
- そこへ馬寔が到着したが、暑さで兵が疲れているとして数日休戦を求めた。一方、楊布・蔡雄や回紇の逹干は、今こそ決戦の好機だと強く説き、朱滔もこれに乗った。
- 丙子の朝、王武俊は趙琳の伏兵五百騎を桑林に潜ませ、正面では自ら騎兵を率いて回紇と当たった。回紇が突破して後方に抜けたところを反撃し、さらに伏兵が横撃して回紇を大敗させた。
- 朱滔軍は騎兵が潰走し、その混乱で歩兵陣も崩れ、全軍が東へ逃げた。滔はようやく数千で営に逃げ込んだが、夜に営を焼いて徳州へ落ち延びた。掠奪した財貨は山のように遺棄された。
- 滔は敗戦の責を楊布・蔡雄に負わせて殺し、幽州へ帰った。敗戦を恥じ、留守を任せた劉怦が自分に敵対するのではと恐れたが、劉怦はむしろ兵を整えて盛大に出迎えたので、当時の人はその度量を称えた。
滄州の混乱と程日華
- 以前、張孝忠が易州をもって唐に帰順すると、朝廷は彼を義武節度使とし、易・定・滄三州を管轄させた。
- 滄州刺史の李固烈は李惟岳の妻の兄で、恒州に帰ろうとし、張孝忠は程華を派遣して州務の引き継ぎをさせた。
- ところが李固烈が府庫の財物を数十車も持ち出そうとしたため、将士が怒って彼とその家族を殺した。程華も乱兵に見つかり、州を治めるよう求められてやむなく応じた。
- 張孝忠はこれを聞き、ただちに程華を滄州刺史代理とした。程華は寛厚で将士に心を開いて接したため、人心は安定した。
- 朱滔・王武俊が反乱すると、彼らは程華を誘ったが、程華は応じなかった。滄州から定州への道が瀛州で塞がれていたため、録事参軍の李宇が別系統の軍にして朝廷へ直訴する策を勧め、程華も従った。
- 徳宗は程華を正式に滄州刺史・横海軍副大使知節度事とし、名を日華と改め、義武への租銭供給を命じた。
- 王武俊は改めて説得したが、軍中に馬が不足していた日華は、帰順の条件として騎兵二百を借りたいと偽り、その馬を取り上げて使者だけ返した。武俊は怒ったが、他方面で忙しく攻められず、日華は助かった。後に武俊が帰順すると、日華は謝罪と馬代・贈り物を送って関係を修復した。
李晟、長安攻略を準備
- 庚寅、李晟は大々的に兵を整えて長安回復の意思を示した。姚令言らはたびたび間者を送って進軍時期を探らせたが、いずれも捕えられた。
- 晟は捕えた間者に自軍の威容を見せ、「賊に忠義を尽くしてしっかり守れ」と皮肉を言い、酒と銭を与えて帰した。
- その後、通化門の外まで進出して武威を示し、賊は出撃できなかった。
- 諸将は外城や坊市を先に押さえる案を出したが、晟は市街戦になれば住民も巻き込むとして退け、苑の北から攻めて賊の中枢を崩す方針を定めた。渾瑊・駱元光・尚可孤とも日を合わせて進むことにした。
尚可孤の戦果と光泰門への進軍
- 壬辰、尚可孤は藍田西方で仇敬忠を破って斬った。
- 乙未、李晟は光泰門外の米倉村に移り、丙申には自ら築塁を指揮した。
- 朱泚の驍将である張庭芝・李希倩が大軍で来襲したが、晟はこれを「敵が死にに来た好機」と見て迎撃させた。
- 華州営は兵が少なく苦戦したため、晟は李演ら精兵を送って救援させた。官軍は賊を破って光泰門まで追撃し、再度破った。夜になって収兵したが、賊は白華門へ退いて、希倩の死を悼む泣き声が夜じゅう響いた。
長安奪回
- 丁酉、諸将は渾瑊ら西方の軍を待って挟撃するよう勧めたが、李晟は敵がすでに動揺しているとして即攻撃を決断した。
- 戊戌、晟は光泰門外に布陣し、李演・王佖に騎兵、史萬頃に歩兵を率いさせ、苑墻の神麚村付近へ直進させた。
- 事前に開けておいた苑墻の破口は、賊に柵で塞がれていた。晟は激怒して諸将を叱咤し、史萬頃らは必死に柵を抜いて突入、騎兵も続いたため、賊軍は総崩れとなった。
- 唐軍は各道から入城し、姚令言らもなお抵抗したが、白華門まで追い詰められた。背後から数千騎が襲う場面では、李晟自身が百余騎で反転して防ぎ、その名声だけで賊軍は潰走した。
- 朱泚は密かに李晟へ内通していた張光晟に促されて西へ逃れ、姚令言らを率いて城を出た。張光晟は泚を送り出した後、晟に降伏した。
- 李晟は含元殿前に屯し、右金吾仗に宿営した。長安の士民は久しく賊中にあったのだから、少しでも騒擾があっては「民を弔い罪を討つ」趣旨に反するとして、五日間は家族との私信も禁じ、市民の安撫を優先させた。
- 高明曜が賊の妓女を奪い、尚可孤軍の兵が賊馬を勝手に持ち去ると、晟はともに斬って軍紀を正した。これにより軍中は震え上がり、長安は公私ともに安堵し、遠方では一夜明けてようやく官軍入城を知るほどであった。
渾瑊らの進軍と朱泚残党の処断
- 同日、渾瑊・戴休顔・韓遊瓌も咸陽を攻めて賊三千余を破り、朱泚の逃走を聞いて追撃隊を出した。
- 己亥、李晟は孟渉に白華門、尚可孤に望仙門、駱元光に章敬寺を守らせ、自らは牙前兵三千を安国寺に置いて京城を鎮圧した。
- 李希倩・敬釭・彭偃ら朱泚党八人は市で斬られた。
王武俊の上表
- 王武俊は朱滔を破って恒州へ帰ると、幽州盧龍節度使を辞退した。徳宗はこれを許した。
六月 長安回復の報と李晟への賞
- 癸卯、李晟は掌書記の于公異に露布を作らせ、行在に捷報を送った。宮禁は清められ、宗廟も鐘鼓も旧態のままだと報じた。
- 徳宗は涙を流し、「李晟は社稷のために天が生んだのであって、私一人のためではない」と語った。
- 以前、渭橋にいる頃、熒惑が歳星の位置に長く留まったため、側近たちは天象の好転を喜んで早期進軍を勧めたが、晟は天象ではなく敵と戦う覚悟こそ大事だと退けていた。のちに長安奪回後、もしこの兆しに頼っていたなら再び異変が起きた時に軍が自壊しただろうと述べ、側近たちはその見識に服した。
朱泚の最期
- 朱泚は吐蕃へ逃れようとしたが、途中で部下は散り散りとなり、涇州に着いた時には百余騎しか残っていなかった。
- 田希鑒は城門を閉ざして受け入れず、朱泚が「お前の節は私が授けたものだ」と責めると、その節を火中に投げ返して拒絶した。
- 涇州兵は姚令言を殺して田希鑒に降り、朱泚はわずかな親兵・宗族とともに北へ逃れたが、寧州刺史の夏侯英が驛馬関で防ぎ、彭原西城に屯したところで部将の梁庭芬に射落とされた。
- 韓旻らが朱泚を斬って涇州へ降り、源休・李子平が逃げた鳳翔では李楚琳が彼らを斬り、その首を行在に送った。
奉天で失われた宮人捜索をめぐる陸贄の諫言
- 徳宗は陸贄に詔を書かせ、渾瑊に命じて奉天で失われた「裹頭内人」を探させようとした。
- 陸贄は、まず疲弊した民と傷ついた兵を慰撫すべき時に、先に宮中の女官を探すのは新政への期待に反すると諫めた。徳宗は詔を見送ったが、結局は中使を派遣して捜索させた。
将士慰労と朱泚に仕えた者の処分
- 乙巳、吏部侍郎の班宏を宣慰使として派遣し、将士と百姓を慰労させた。
- 丙午、李晟は朱泚に寵任されていた崔宣・洪經綸ら文武十余人を斬った。
- その一方で、賊に屈しなかった劉廼・蔣沇らを推薦した。
諸将への叙勲
- 己酉、李晟を司徒・中書令とし、駱元光・尚可孤にも功に応じて昇進を与えた。
- 田希鑒を涇原節度使とし、梁州は興元府に改められた。
- 甲寅、渾瑊を侍中とし、韓遊瓌・戴休顔にもそれぞれ賞が与えられた。
李忠臣の処刑と鳳翔処分論
- 朱泚敗走の際、李忠臣は樊川へ逃げたが、捕えられて丙辰に斬られた。
- 徳宗は、鳳翔に至れば多くの迎駕の軍がいて勢いが盛んだから、この機会に李楚琳を他人に代えてよいかと陸贄に問うた。
- 陸贄は、帰還途上で武力を背景に地方節帥を入れ替えるのは、乱を平らげる道としても政治を整える道としても不適当であり、「権変」の名で正道を損なうだけだと反対した。
- まずは京師に落ち着き、官職を授けて恩で服させれば十分で、あえて誅伐を加える必要はないとした。
徳宗の帰京途上と尹元貞問題
- 戊午、車駕は漢中を発し、李晟は長安で百司再建のための整備に当たった。自ら鳳翔まで迎えに行きたいと願ったが、許されなかった。
- 内常侍の尹元貞は、同華への使者として出たにもかかわらず、勝手に河中へ行って李懷光を招諭した。
- 李晟は、元貞が詔を偽って逆臣を赦したとして、その罪を論じた。
七月 鳳翔到着と孔巢父の使節
- 丙子、徳宗は鳳翔に到着し、喬琳・蔣鎮・張光晟らを斬った。李晟は張光晟について、賊に属したとはいえ滅賊にも功があるとして助命を願ったが、許されなかった。
- 高郢はたびたび李懷光に帰順を勧め、懷光は子の璀を行在に送り謝罪させ、自身も身ひとつで帰朝したいと述べた。
- 庚辰、朝廷は孔巢父を河中へ派遣し、先に出していた太子太保の敕を携えさせ、朔方将士の官爵も旧に復すと宣慰させた。
- しかし丁亥、孔巢父が河中に着くと、懷光は罪人の姿で待ったにもかかわらず巢父はそれを制止せず、さらに「誰が太尉の代わりに軍を率いるべきか」と公言したため、懷光配下の胡人たちは激昂した。
- 詔の読み上げが終わらぬうちに兵が巢父と中使の談守盈を殺し、懷光もこれを止めなかった。以後、彼はまた兵を整えて抗戦の備えをした。
長安帰還
- 壬午、徳宗は長安へ帰還した。渾瑊・韓遊瓌・戴休顔は護衛し、李晟・駱元光・尚可孤は迎えに出て、歩騎十余万、旌旗数十里という盛観であった。
- 李晟は三橋で拝謁し、まず賊平定を祝い、次いで自らが長安回復に遅れたことを謝して路傍に伏した。徳宗は馬を止めて慰撫し、涙をぬぐった。
- 閑日ごとに勲臣の宴が開かれ、賞賜は厚く、筆頭は李晟、次いで渾瑊であった。
李希烈討伐の進展
- 曹王臯は伊慎・王鍔らに安州を囲ませた。李希烈は甥の劉戒虛に歩騎八千を授けて救援に向かわせたが、臯の別将李伯潜が応山でこれを破り、千余級を斬り、戒虛を生け捕った。
- 戒虛は城下で示衆され、安州は降伏した。伊慎は安州刺史となった。
- さらに臯は康叔夜を厲郷で破って走らせた。
李泌の復帰
- 辛卯、天下に大赦が出された。
- かつて奉節王・太子であった頃から親交のあった李泌が、杭州刺史の任から急召され、睦州刺史の杜亞とともに行在へ来た。
- 乙未、李泌は左散騎常侍、杜亞は刑部侍郎となり、李泌は日々中書省で待機して対策を求められる立場となった。朝野の注目は一気に彼に集まった。
李泌、李懷光を論じ安西北庭割譲を止める
- 徳宗は、河中が近く朔方軍は精鋭であるから李懷光が大きな脅威だと李泌に不安を打ち明けた。
- 李泌は、敵情を判断するには兵ではなく将を見るべきであり、懷光は奉天解囲後も朱泚を討つ機会を失い、今はただ河中にうずくまるだけで、近く部下に殺されるだろうと述べた。
- また、吐蕃に朱泚討伐の報酬として伊州・西州・北庭を与える約束があったが、李泌は強く反対した。安西・北庭は西域諸国と突厥を押さえ、吐蕃の東侵を防ぐ要地であり、二十年近く孤立して忠誠を尽くした人々を見捨てれば、かえって彼らを吐蕃側へ追いやると説いた。
- しかも吐蕃は今回、機を見て進退し、掠奪と収賄の末に去っただけで、報酬に値する功などない。群臣もこの意見に同調し、徳宗は領土割譲を取りやめた。
顔真卿の死
- 李希烈は弟の李希倩が誅されたことに怒り、八月壬寅、中使を蔡州へ送り、顔真卿を殺させた。
- 使者が「勅によって死を賜う」と言うと、顔真卿は拝して受けつつ、これは長安からの勅ではなく賊の命にすぎないと見抜き、なお屈しなかった。
- ついに彼は縊殺された。
李晟、鳳翔・隴右・涇原を兼ねる
- 李晟は、涇州が辺境でたびたび軍乱の根となっていることから、自ら赴いて従わぬ者を処断し、農耕と蓄糧を進めて吐蕃への備えに当たりたいと願い出た。
- 癸卯、朝廷は李晟に鳳翔隴右節度等使、四鎮北庭涇原行営副元帥を兼ねさせ、西平王に進めた。
- この時、李楚琳が入朝していたため、李晟は鳳翔へ同行させて現地で斬ることを求めたが、徳宗は帰京直後で人心を安定させることを優先し、許さなかった。
河中攻略と周辺州郡の離反
- 以前から渾瑊・駱元光が同州方面で李懷光を攻めていたが、懷光の将徐庭光が長春宮に六千の精兵を置いて防いだため、しばしば敗れて進めなかった。
- 財政難から懷光赦免論も出たが、徳宗は許さなかった。
- 懷光配下の晋州の要廷珍、隰州の毛朝、慈州の鄭抗は、馬燧の説得で相次いで降伏した。
- これにより、渾瑊には河中絳州節度使・河中同華陜虢行営副元帥、馬燧には奉誠軍晋慈隰節度使・管内諸軍行営副元帥が加えられ、駱元光・唐朝臣と合わせて懷光討伐の陣容が整えられた。
- なお晋慈隰三州は、もともと王武俊を牽制するため康日知に与える予定だったが、州が先に降ったためいったん馬燧に兼領させ、のち馬燧がこれを康日知へ返上した。徳宗はその公正さを嘉した。
李楚琳の異動と鳳翔の粛清
- 甲辰、鳳翔節度使の李楚琳は左金吾大将軍に転じた。
- 丙子、渾瑊はさらに朔方行営元帥となった。
- 李晟が鳳翔に着くと、張鎰殺害に関わった責任を追及し、裨将の王斌ら十余人を斬った。
馬燧の進軍と朔方軍慰撫
- 癸未、馬燧は歩騎三万で絳州を攻めた。
- 度支は、李懷光軍の将士数万も同反したのだから冬衣を支給すべきでないと主張したが、徳宗は、朔方軍は代々忠義の軍であり、懷光に脅かされて従っているだけだとして、罪を区別すべきだとした。
- 冬十月、懷光配下やその地にいる諸軍の冬衣と賞銭は別途確保し、道が通じ次第与えるよう命じた。
李勉の罷免
- 李勉は李希烈討伐の失敗を理由に、自らの降格をたびたび願っていた。
- 辛丑、都統節度使を罷められたが、検校司徒・同平章事の位はそのままとされた。
同州・絳州方面の戦況
- 丙辰、李懷光の将閻晏が同州を侵し、官軍は沙苑で敗れた。朝廷は韓遊瓌に甲士六千を率いて救援に赴かせた。
- 乙丑、馬燧は絳州を奪い、さらに聞喜・萬泉・虞郷・永樂・猗氏を分兵して攻略した。河中は次第に圧迫された。
宦官の禁軍掌握
- 魚朝恩誅殺後、代宗は宦官に兵を預けなかったが、徳宗も即位当初は禁兵を白志貞に任せていた。
- 白志貞が失脚した後、山南行幸の間に神策両軍が再編され、帰京後、徳宗は宿将が兵を多く握ることを警戒するようになった。
- 戊辰、竇文場に左廂、王希遷に右廂の神策軍兵馬使を監させ、ここに宦官が分掌して禁軍を握る体制が始まった。
閏月 田希鑒誅殺
- 閏月丙子、田希鑒は衛尉卿に移された。
- 李晟は鳳翔到着後、涇州が吐蕃に近く、州兵だけで守れるかと案じるふりをして援兵派遣を申し出た。希鑒はこれを求めたため、晟は腹心の彭令英らを派遣した。
- やがて李晟自身も巡辺を名目に涇州へ赴き、田希鑒は歓待した。晟は三日分の食事を用意させて「巡撫が済めばすぐ帰る」と言ったので、希鑒は疑わなかった。
- 酒宴の最中、彭令英が涇州諸将を堂下に集めると、李晟は過去の反乱に加わった石奇ら三十余人を指摘し、忠良を害した罪を責めて斬った。
- 次いで希鑒にも罪がないわけではないと告げ、旧知の情けで全尸は保つとして、そのまま縊り殺し、子の蕚も殺した。
- 晟は営中に入り、なぜ希鑒を誅したかを諭したところ、兵は震え上がり、誰も動かなかった。
陳州救援と汴州回復
- 李希烈の将翟崇暉は大軍で陳州を長く包囲したが、陥とせなかった。
- 李澄は大梁の兵力では滑州を保てないと見て、希烈から授かった旌節を焼き、衆に誓って唐へ帰順した。
- 甲午、李澄は汴滑節度使に任じられた。
- 劉洽は劉昌・曲環らに兵三万を与えて陳州を救わせ、十一月癸卯、州西で翟崇暉を大破し、三万五千級を斬って崇暉を捕らえた。
- その勢いで汴州へ迫ると、李希烈は恐れて蔡州へ逃げた。李澄も汴州へ向かったが、城北で怖じて進めず、劉洽軍が城東に達すると、戊午、守将の田懷珍が開門して迎え入れた。
- 翌日、李澄は浚儀に入ったが、両軍の兵には次第に不和が生じた。ちょうどこの頃、希烈方の鄭州守将孫液が李澄に降ったため、李澄は鄭州に屯した。朝廷は薛珏を汴州刺史とした。
李勉復職と韓滉弁護
- 李勉が長安へ戻ると、喪服姿で罪を待った。議者の多くは、大梁を失った者がなお宰相であるのは不当だとした。
- 李泌は、李勉は公忠で正しく、用兵は不得手でも人望が厚く、大梁陥落後も二万人近くが妻子を捨てて従ったこと、さらに劉洽に軍を委ねて汴州回復の基礎を作ったことを挙げ、功を認めるべきだと述べた。徳宗はこれを受けて李勉を復位させた。
- また、韓滉が石頭城を修築し兵を集めたことから、密かに異志を抱くとの疑いが朝廷で広がっていた。
- 李泌は、韓滉は忠勤・清倹で、行在にある間も貢献を絶やさず、江東十五州を安定させた大功臣であり、石頭城修築も永嘉の乱のような南遷に備えて迎護の準備をしたものだと弁護した。
- 徳宗は世論の強さから躊躇したが、李泌は一族百口を賭けてでも韓滉に異心なしと請け合った。さらに、関中が旱蝗と飢饉で困窮する中、江東からの兵糧輸送を促すためにも、朝廷の疑念を解くべきだと説いた。
- 徳宗はついに李泌の上章を公にし、韓滉の子の韓臯に緋衣を賜って帰省を許し、「汝の父への疑いは解けた。関中は糧に乏しいから急いで送るよう伝えよ」と命じた。
- 韓臯が潤州に戻ると、韓滉は感激して涙を流し、その日のうちに自ら水辺に出て米百万斛の発送を始めた。韓臯が五日滞在を願うと怒って叱り、自ら江上まで見送ってすぐ朝廷へ帰らせた。
- この動きに触発され、陳少遊も米二十万斛を献じた。徳宗がそれを李泌に告げると、李泌は今後諸道が競って貢献するだろうと答えた。
蕭復罷免
- 蕭復が江淮から使者の任を終えて帰ると、李勉・盧翰・劉從一とともに徳宗に拝謁した。
- 退出後、蕭復だけが残り、陳少遊は節義を失った者であり、逆に韋皋は幕府の一僚属にすぎない身で忠義を建てたのだから、淮南には韋皋を置くべきだと進言した。徳宗はこれに同意した。
- ところが、まもなく中使の馬欽緒が劉從一に密かに命を伝え、先の件を蕭復とだけ相談してすぐ奏行せよ、李勉・盧翰には知らせるなと言った。
- 蕭復はこれを、「人事は朝廷で公に議すべきで、特定の宰相だけに密命を下すのは政治の大きな弊害だ」と批判し、従わなかった。劉從一は単独で奏し、徳宗はさらに不快となった。
- そこで乙丑、蕭復は左庶子に左遷された。
陳少遊の死と韓滉の評価上昇
- 劉洽が汴州を奪回した際、李希烈の起居注の中に、陳少遊が先に李希烈へ帰順を表明していた記録が見つかった。
- 陳少遊はこれを聞いて恥じ、憂いのあまり病を発して、十二月乙亥に死んだ。太尉を贈られ、賻祭は常の礼によった。
- 淮南の大将王韶は、自ら留後になろうと将士に推戴させようとし、さらに掠奪まで企てたが、韓滉が「乱を起こせばただちに全軍で渡江して討つ」と威嚇すると、王韶らは恐れて中止した。
- 徳宗はこれを聞いて喜び、韓滉は江東を安んじるだけでなく淮南まで安定させる真の大臣の器だと李泌に語った。
- 庚辰、韓滉は平章事・江淮転運使に加えられた。以後も江淮の粟帛は絶える月なく朝廷に届き、使者の慰問も相次ぎ、恩遇はますます深まった。
年末の飢饉
- この年は蝗害が遠近一面に及び、草木はほとんど食い尽くされた。ただし稲だけは食われなかった。
- 大飢饉となり、道には餓死者が相望む惨状であった。