資治通鑑唐紀四十六 徳宗神武聖文皇帝 興元 元年 784年

二月 死節・直諫の臣への追贈

  • 二月戊申、朝廷は段秀実に太尉を追贈し、諡を「忠烈」として、その家族を手厚く遇した。
  • このころ賈隠林はすでに死去しており、左僕射を追贈された。率直な諫言の功を評価したものである。

二月 寧陵包囲と李澄の離反工作

  • 李希烈は五万の兵で寧陵を囲み、水を引いて城を水攻めにした。濮州刺史の劉昌はわずか三千でこれを守った。
  • かつて李希烈に降っていた滑州刺史李澄は、ひそかに朝廷へ降伏を願い出た。皇帝はこれを許し、李澄を汴滑節度使に任じると約した。
  • ただし李澄は表向きにはなお李希烈に従い続けたため、李希烈は疑って養子六百人を白馬に駐屯させ、李澄を呼び出して寧陵攻撃に加わらせた。
  • 李澄は石柱に至ると、わざと自軍が騒いで陣営を焼き払って逃げたように見せ、さらに養子たちにも略奪をさせた。のちにその者たちを一括して捕え斬り、李希烈には「無法を働いたので処断した」と報告したため、李希烈も罪に問えなかった。

二月 劉昌の奮戦と援軍の到着

  • 劉昌は寧陵で四十五日間、甲冑を解かずに守備を続けた。
  • 韓滉は部将の王栖曜に兵を授けて、劉洽を助けつつ李希烈に対抗させた。王栖曜は強弩兵数千を率い、汴水を利用して夜陰に乗じて寧陵城へ入った。
  • 翌日、城上から李希烈の軍、さらにその本陣の幕営を射撃すると、李希烈は「宣州・潤州の弩兵が来た」と驚き、包囲を解いて退いた。

二月 李晟、劉徳信を誅して軍を統一

  • 朱泚が奉天での敗北後に長安へ退くと、李晟は長安奪回を図った。劉徳信も東渭橋に駐屯していたが、李晟の指揮を受けなかった。
  • そこで李晟は劉徳信の陣へ赴き、滬澗での敗北や、行軍中の略奪行為を罪として数え上げ、その場で斬った。
  • さらに少数の騎兵でそのまま劉徳信軍へ駆け込み、兵士たちをねぎらったため、誰も逆らわなかった。こうして李晟はその軍を吸収し、兵勢を大きく増した。

二月 李懷光の逗留と異心

  • 李懷光は盧杞らを追放して朝廷を脅かして以来、内心安らかでなく、しだいに野心を抱くようになった。加えて李晟だけが大功を独占するのを嫌い、合同作戦を願い出て、詔勅で許された。
  • 李晟と李懷光は咸陽西の陳濤斜で合流し、塁を築いていたところへ朱泚軍が迫った。李晟は、敵がわざわざ巣穴を出て野戦を挑んできたのは好機だから、すぐ戦うべきだと進言した。
  • しかし李懷光は、軍は着いたばかりで馬にも秣を与えず、兵も食事をしていないとして出戦を拒み、李晟はやむなく守りを固めた。
  • 両軍が並んで行動すると、李懷光軍はしばしば牛馬を略奪したが、李晟軍はわずかなものにも手を付けなかった。李懷光軍の兵はその違いを憎み、奪ったものを分けようとしたが、李晟軍は受け取らなかった。
  • 李懷光は咸陽に数か月とどまり、進撃しなかった。皇帝はたびたび中使を送って督促したが、兵が疲れており、機会を見る必要があると弁解した。
  • 諸将がたびたび攻勢を勧めても従わず、ひそかに朱泚と通じていた。李晟は変事を恐れて、自軍が呑み込まれる前に東渭橋へ移るよう求めた。
  • 皇帝はなお李懷光が心を改めることを期待して、その上奏を留め置いた。

二月 糧賜問題と陸贄の仲介

  • 李懷光は戦期を引き延ばし、諸軍を扇動するため、諸軍の糧秣や賜与が薄く、神策軍だけが厚遇されていて不公平だから戦えないと訴えた。
  • 皇帝は財政難のため全軍を神策軍並みに遇することもできず、かといって李懷光の意に逆らえば不満が高まることを恐れ、陸贄を咸陽へ遣わして慰撫させ、あわせて李晟も呼んで協議させた。
  • 李懷光は、将士が同じく戦うのに糧賜が違うのは協力できない理由になると言い、陸贄が答える前にしきりに李晟の顔色をうかがった。
  • 李晟は、元帥である李懷光が増減を裁断すべきで、自分は一軍を率いるだけで命令を受ける立場だと静かに答えた。李懷光は自ら削減を決断することもできず、この話は立ち消えになった。

二月 吐蕃出兵問題

  • 以前に派遣されていた崔漢衡が吐蕃に援兵を求めていたが、吐蕃の宰相尚結贊は、出兵には主兵の大臣の署名が必要であり、李懷光の署名がない詔書では動けないと言った。
  • 皇帝は陸贄を通じて李懷光に署名を求めたが、李懷光は頑として拒んだ。理由として、京城を落とせば吐蕃が略奪すること、五万人分の賞金を求められれば財政がもたないこと、吐蕃は勝てば功を分け取り、敗れれば変を図るだろうことの三害を挙げた。
  • 結局、署名は得られず、尚結贊も進軍しなかった。

二月 陸贄、李晟移軍を進言

  • 陸贄は咸陽から戻ると、朱泚は宮城・苑中にこもっているだけで、援軍もなく、すでに窮地にあるのに、李懷光は順勢の大軍を持ちながら敵を追わず、諸将の進言をすべて挫いていると報告した。
  • そのうえ、皇帝が李懷光に遠慮して従っているのに、本人が感謝している様子もない以上、もはや別の備えを講じねば変事は避けがたいと述べた。
  • ちょうど李晟の移軍願いについて李懷光に探りを入れると、李懷光は「李晟が別行動を望むなら、自分も別に借りる必要はない」と言ったので、陸贄はこれを利用し、李晟の上表をそのまま通して東渭橋への移動を認めるべきだと勧めた。
  • 皇帝はこれに従い、穏当な手詔を李懷光へ送り、李晟は咸陽から整然と陣を組んで東渭橋へ帰った。

二月 李建徽・楊惠元も離すべきとの進言

  • 鄜坊節度使李建徽と神策行営節度使楊惠元は、なお李懷光と同営にあった。陸贄はさらに、四軍が並んでいても勢力・官位・統属が噛み合わず、互いに猜疑し合っている以上、同居は必ず禍を生むと述べた。
  • 李晟が先に危険を見て移ったのだから、李建徽・楊惠元も速やかに李晟のもとへ移し、「李晟軍が少ないので互いに犄角として支えよ」と名目を付ければよいと進言した。
  • しかし皇帝は、すでに李晟を移しただけでも李懷光が不満を抱いているのに、さらに二軍まで動かせば、かえって言いがかりを作らせる恐れがあるとして、十日ほど様子を見ることにした。
  • 辛酉、王武俊に同平章事を加え、あわせて幽州盧龍節度使とした。これは朱滔討伐を期待しての人事である。

二月 李懷光への警戒強化

  • 李晟は、李懷光の反意はもはや明白であり、蜀・漢中へ通じる道を塞がせてはならないとして、趙光銑らを洋・利・剣三州の刺史に仮任し、それぞれ五百人を率いて要路の防備に当たらせるよう求めた。
  • 皇帝はなお決断しきれず、自ら禁兵を率いて咸陽へ出向き、慰撫を名目に諸将を督戦しようとも考えた。ところが、李懷光の側には「これは漢高祖が雲夢に遊んで韓信を捕えた策と同類だ」と吹き込む者があり、李懷光はますます不安を強めた。
  • 皇帝はなお讒言による離間かもしれぬと疑い、甲子には李懷光を太尉に進め、実封と鉄券まで与えて、神策右兵馬使李卞らを遣わして慰諭した。
  • だが李懷光は使者の前で鉄券を地に投げ捨て、「自分を疑うからこそ鉄券を与えるのだ。これは反けと言うに等しい」と言って、きわめて不遜な態度を示した。

二月 張名振・石演芬の諫死

  • 朔方左兵馬使張名振は軍門で大声を上げ、賊を前にして討とうとせず、天使への礼も欠くのは反逆の証ではないかと李懷光を責めた。功績を捨てて一族滅亡を招き、富貴を他人に譲るだけだとまで言って、死を覚悟で争った。
  • 李懷光は表向きには「反逆する気はなく、賊が強いので時を待つだけだ」と弁解したが、その一方で「天子のいる所には城があるべきだ」と称して咸陽城の築造を始め、まもなく軍を移してこれに拠った。
  • 張名振はさらに、昨日は反しないと言い、今日はなぜ軍を移すのか、朱泚を攻めて功名を取らずに、なぜ邠州へ帰らないのかと責めた。李懷光は彼を引き出させ、打ち殺させた。
  • 右武鋒兵馬使石演芬は西域出身の胡人で、李懷光に養子同然に育てられていたが、ひそかに客の郜成義を奉天へ派遣し、李懷光が朱泚と通謀していることを告げて、その都統権を奪うよう請願した。
  • しかし郜成義の報告は李懷光の子・李璀を通じて父に伝わり、石演芬は召し出された。李懷光が恩を仇で返すのかと責めると、石演芬は「太尉が天子に背いた以上、自分も太尉に背かざるをえない。自分は胡人だが、ただ一人の主、すなわち天子に仕えるだけだ」と答えた。
  • 李懷光は彼を処刑させたが、周囲はみな義士だと言い、最後は喉を切って苦しまずに死なせた。
  • 李卞らが戻ってその驕慢ぶりを報告すると、行在所では初めて門禁を厳重にし、廷臣たちもひそかに出発の支度を整えるようになった。

二月 李晟の重用と梁州行幸の決定

  • 乙丑、李晟に河中同絳節度使を加えたが、皇帝はなおこれでは薄いと思い、丙寅には同平章事も加えた。
  • 皇帝は梁州へ向かおうとした。山南節度使・塩亭の厳震はこの報を聞くと使者を送り、さらに大将張用誠に五千を与えて盩厔方面まで進ませ、迎衛させた。
  • ところが張用誠は李懷光に籠絡され、ひそかに通じていた。厳震が改めて牙将馬勛を派遣して事情を説明すると、馬勛は梁州へ先行して厳震の符を受け取り、張用誠を召還し、応じなければ自ら殺すと請け負った。
  • 馬勛は駱谷を出て張用誠のもとへ行き、寒中に駅外で火を大きく焚いて兵を集めさせたうえで、懐中の召符を示した。張用誠が驚いて逃げようとすると、同行の壮士が取り押さえた。
  • 馬勛はそのまま営中に入り、兵士たちに、お前たちの家族は漢中にいるのに張用誠とともに反逆して何の益があるのか、厳震は張用誠だけを召しているのだ、と説いた。兵はみな従い、張用誠は梁州へ送られて杖殺された。副将がその軍を引き継ぎ、馬勛は半日遅れで首級を持って行在所に復命した。

二月 李懷光、李建徽・楊惠元を襲う

  • この夜、李懷光は李建徽・楊惠元の軍を襲撃した。李建徽は逃れて助かったが、楊惠元は奉天へ逃れようとして追撃され、殺された。
  • 李懷光はまた、公然と「自分は朱泚と和したので、車駕は遠く避けるほかあるまい」と言い放った。
  • 奉天では朔方将の韓遊瓌が兵権を握っていたため、李懷光は彼に書を送り、内応を求めた。韓遊瓌はこれをひそかに奏上し、翌日また催促の書が届くと、皇帝はその忠節を称えて対策を問うた。
  • 韓遊瓌は、李懷光が諸道兵の総帥だからこそ乱を起こせるのであり、邠寧・霊武・河中・振武・潼関・渭北など各地の守将にそれぞれ土地と兵を正式に委ね、李懷光には名位だけを与えて兵権を奪えば、行営の兵は各本府の命に従い、李懷光は孤立すると進言した。
  • さらに、将士は長安陥落後の賞を望んでいるのだから、奉天の兵だけでも朱泚を討てるし、他道にも義に立つ者は必ずいるとして、朱泚は恐れるに足りないと述べた。皇帝はこれをもっともだとした。

二月 奉天脱出

  • 丁卯、李懷光は部将の趙昇鸞を奉天へ潜入させ、その夜に別将の達奚小俊へ乾陵を焼かせ、趙昇鸞には内応して車駕を脅かさせる計画を立てた。
  • 趙昇鸞は渾瑊に密告し、渾瑊は急ぎ奏聞して、ただちに梁州行幸を決断するよう求めた。
  • 皇帝は渾瑊に戒厳を命じたが、渾瑊が軍令を整え終える前に、皇帝はすでに西門から出城していた。戴休顔には奉天守備を命じ、朝臣や将士は狼狽しながらもこれに従った。
  • 戴休顔は軍中を巡って「李懷光はすでに反した」と宣言し、城に拠って防備を固めた。

二月 長安での忠臣と変節者

  • 朱泚が帝位を称していたころ、兵部侍郎の劉廼は病床にあっても出仕を拒み、朱泚が蔣鎮を二度遣わして説得しても応じなかった。
  • 蔣鎮自身も、賊に身を汚した自分が賢者を汚すわけにはいかないと嘆いて帰った。
  • 劉廼は皇帝が山南へ移ったと聞くと、胸を打って大声で泣き、床に倒れ込んで数日食を絶って死んだ。
  • 一方、太子少師喬琳は盩厔まで皇帝に従ったものの、老病と称して山道に堪えられないとし、髪を剃って仙遊寺に隠れた。朱泚に見つかると長安へ連れ出され、吏部尚書となった。これをきっかけに、隠れていた朝士たちの多くも朱泚に仕えるようになった。

二月 南山での追撃失敗

  • 李懷光は孟保・恵静・寿孫福達らに精騎を与え、南山方面へ車駕を追わせた。
  • 彼らは盩厔で諸軍糧料使の張増に出会い、兵が朝食を取っていないので食糧のある所へ案内せよと言った。張増は東に数里の仏祠に糧を置いてあると偽り、彼らをそちらへ導いた。
  • 三将は部下に略奪を許したため、その隙に百官らは駱谷へ入り、追撃を免れた。三将は追いつけず戻って報告し、李懷光は彼らをみな左遷した。

二月 李晟、孤軍で復京を図る

  • 河東の将王権・馬彚は、山南への行幸後に連絡が絶えたため、兵を率いて太原へ帰った。
  • 李晟は新たな官命を受けると、拝して泣きながら受命し、長安は宗廟のある天下の根本であって、もし諸将がみな行幸に従えば誰が賊を滅ぼすのかと語った。
  • 彼は東渭橋の城隍を修え、甲兵を整え、長安奪回の準備を進めた。もともと東渭橋には十余万斛の穀物があったが、度支が李懷光軍へ送ったため、ほぼ尽きていた。
  • しかもこの時、李懷光と朱泚が連携して声勢は盛んであり、車駕の南幸で人心も動揺していた。李晟は二大強敵の間に孤立し、内に糧なく外に援軍もなかったが、忠義で兵を励まし、士気を保った。
  • また李懷光へは、礼を尽くした低姿勢の書を送りつつ、禍福を説いて功を立てて過ちを償うよう勧めた。李懷光は恥じ入り、すぐには李晟を討てなかった。
  • 李晟は、畿内は兵乱の後とはいえなお徴発可能だとして、判官張彧を仮の京兆尹とし、四十余人にも仮官を与えて渭北の刈草・兵糧の督収に当たらせた。十日ほどで充分に集まり、李晟は涙を流して衆に誓い、平賊を決意した。

三月 田悦暗殺と田緒の擁立

  • 田悦はたびたび敗れて兵士の損耗も甚だしく、上下とも苦しんでいた。朝廷は給事中孔巣父を魏博へ宣慰使として送り、彼は魏州で将士に逆順・禍福を説いて、田悦以下を喜ばせた。
  • 田悦の従弟で、承嗣の子である田緒は、凶暴で過失が多く、田悦から杖打ちのうえ拘束されていた。
  • 三月壬申朔、田悦が孔巣父と宴飲した夜、田緒は弟や甥への不満から一人を殺し、やがて田悦に殺されると恐れて、その夜のうちに左右とともに後垣を破って入り、田悦とその母・妻ら十余人を殺した。
  • 明け方、行軍司馬扈㠋、判官許士則、都虞候蔣済らを「田悦の命だ」と偽って呼び出し、順に斬殺した。
  • さらに門を出ると、田悦の親将劉忠信が牙前に並んでいたので、田緒は「劉忠信が扈㠋と謀反し、昨夜僕射を殺した」と叫んだ。衆は大いに驚いて騒ぎ、劉忠信は弁明もできぬまま殺された。
  • 扈㠋が戟門に至って将士を招いて説いたが、従う者は三分の一にとどまった。田緒は城上に立って、自分は先節度使田承嗣の子であり、先公の恩を受けた者は自分を兵馬使に立ててほしい、金銭で厚く賞すると訴えた。
  • 将士はこれに転じて扈㠋を殺し、軍府は鎮まった。孔巣父は田緒に仮に軍府を預けさせた。数日後、衆は田緒が実際には兄同然の田悦を殺したと知って悔いたが、すでに立っていたのでどうしようもなかった。
  • 田緒はさらに田悦の親将薛有倫ら二十余人を殺した。李抱真・王武俊は貝州救援に向かっていたが、変を聞いて進めなかった。

三月 朱滔の誘いと魏博の帰順

  • 朱滔は田悦の死を喜び、鄭景済らに歩騎五千を与えて馬寔軍に合流させ、一万二千で魏州を攻めさせた。馬寔は王莽河に陣し、騎兵と回紇を放って四方を略奪させた。
  • 朱滔は別に使者を出して田緒を説き、魏博節度使の地位を与えると約した。田緒は危急のなか、随軍侯臧を貝州へ送り朱滔に通じた。朱滔はこれを喜び、急いで盟約を結ばせようとした。
  • しかしその頃には田緒は魏州城内をすでに掌握しており、李抱真・王武俊も使者を送り、田悦存命時と同じ条件で救援すると約した。
  • 幕僚の曾穆・盧南史らは、幽州軍は殺掠をほしいままにしており、たとえ田悦に背徳があっても民に罪はない、いま一時の危機をしのぐために逆賊に従うべきではないと説いた。
  • そして、天子は今まさに蒙塵しているのだから、魏博が朝廷に帰順すれば喜んで官爵を与えるはずだと勧めた。田緒はこれに従い、行在所へ表を奉って命を待ち、城を守った。

三月 韓遊瓌、邠州で自立して朝廷に帰す

  • 皇帝が奉天を出たとき、韓遊瓌は部下八百余人を率いて邠州へ戻った。
  • 李懷光は咸陽から、邠州留後の張昕に命じて、留兵一万余人と行営将士の家族をすべて涇陽へ移させようとし、劉礼ら三千余騎を送って強制移送させようとした。
  • 韓遊瓌は張昕に、李太尉は功高くして自ら禍に踏み込みつつあり、中丞である張昕も今こそ富貴を自求すべきだと語り、自身も協力すると申し出た。だが張昕は、微賤の身から引き立ててくれた李懷光に背けないと答えた。
  • そこで韓遊瓌は病と称して表に出ず、ひそかに高固・楊懷賔らと結んだ。ちょうど崔漢衡が吐蕃兵を邠州南に駐屯させていたため、高固らは渾瑊の書に見せかけた偽書で吐蕃を邠城へ近づけ、張昕らを脅した。
  • 張昕らは結局動けず、逆に従わぬ諸将を殺そうとしたが、韓遊瓌が先手を取って高固らとともに挙兵し、張昕を殺した。
  • 楊懷賔が表を奉って報告し、崔漢衡は詔を偽って韓遊瓌を軍府の主とした。軍中は大いに喜んだ。
  • 李懷光の子・李旻が邠州にいたが、韓遊瓌はあえて殺さず追放した。殺せば李懷光が激怒して大軍を差し向けると見たためである。
  • これにより韓遊瓌は邠寧、戴休顔は奉天、駱元光は昭応、尚可孤は藍田に屯し、みな李晟の節度を受ける形となって、李晟の声勢は大いに振るった。

三月 李懷光、軍心を失い河中へ逃れる

  • 当初、朱泚は李懷光を恐れて兄事し、関中を分けて帝位を並べるほどに扱っていた。だが李懷光がついに反し、車駕を南へ追いやると、その配下の離反も多くなって勢力は衰えた。
  • すると朱泚は逆に李懷光へ臣下の礼を取る詔書を送り、その兵を徴発しようとした。李懷光は内には部下の反乱を恐れ、外には李晟の急襲を恐れて、ついに焼営して東へ走り、涇陽など十二県を荒らしながら河中へ向かった。
  • この途中、富平に至るころ大将孟渉・段威勇が数千人を率いて李晟に降った。将士も道中で次々に散亡した。
  • 河中の守将呂鳴岳に橋を焼いて拒むべきだと勧める者もいたが、兵少を理由に受け入れてしまった。河中尹李斉運は城を捨てて逃げた。
  • 李懷光は同州防備のため趙貴先に壘を築かせたが、刺史李紓が逃げたあと、幕僚の裴向が州事を代行し、趙貴先に逆順を説いた。趙貴先は悟って降伏し、同州は保全された。裴向は裴遵慶の子である。
  • また符嶠を坊州に送り込んだが、渭北守将の竇覦が猟戸を集めた七百人でこれを包囲し、符嶠は降った。朝廷は竇覦を渭北行軍司馬とした。
  • 丁亥、李晟は京畿・渭北・鄜坊・丹延も兼ねる節度使となった。

三月 梁州着と陸贄の進言

  • 庚寅、車駕は城固に到着した。この地で唐安公主が薨去した。皇帝の長女である。
  • 行路で民が瓜や果物を献じると、皇帝はその礼として散官の試官を与えようと考え、陸贄に諮った。
  • 陸贄は、爵位は慎重に扱うべきで、兵乱後の今は実利の不足を官職の濫授で埋めているが、これ以上軽くすれば勲功ある者への賞の重みまで失われると反対した。
  • 命を懸けて戦って得る官と、瓜果を献じて得る官とが同じでは、功ある者は自らの命が瓜果と同等に扱われたと感じ、誰も尽力しなくなると説いた。
  • また唐の官制では、実際に職務と俸禄を伴う職事官と、名誉や服色・資蔭を主とする散官・勲官・爵号とを組み合わせて運用してきたのであり、虚名さえ濫発すれば人を勧める手段が失われるとも論じた。
  • このころ陸贄は翰林にあって皇帝の深い信任を受け、大小の政務をしばしば相談され、「内相」と呼ばれていた。
  • 行幸中も常に側近として従い、梁州・洋州への険路で一夜迷ったときには、皇帝が涙を流して捜索を命じ、無事戻ると大いに喜んだ。
  • ただし陸贄はしばしば直言して皇帝に逆らい、盧杞をかばう皇帝に対してその奸邪を論難したため、恩遇は厚くても宰相には取り立てられなかった。
  • 壬辰、車駕は梁州に着いた。山南は土地が痩せて民も貧しく、安史以来の略奪で戸口が激減しており、十五州を持ちながら租税は中原の数県にも及ばなかった。
  • 行在所の糧が乏しいため、皇帝は成都へさらに西遷しようと考えたが、厳震は、山南は京畿に接しており、李晟の収復戦に六軍を声援としてつなぎ止める必要があると反対した。
  • そこへ李晟からも、漢中に留まるからこそ天下の心をつなぎ、賊を滅ぼす形勢が作れるのであり、岷峨へ遷都すれば士庶は失望してしまうとの表が届いた。皇帝は西行を思いとどまった。
  • 厳震はあらゆる方法で財賦を集め、民を窮させないようにしつつ、供給を欠かさなかった。転運は従弟の厳礪が見事に切り回した。

三月 李楚琳への処置

  • 奉天の囲みが解けた後、李楚琳は使者を送って貢を奉り、皇帝はやむなく鳳翔節度使に任じたが、内心では張鎰を殺して朱泚に与したことを憎んでいた。
  • しかも鳳翔は行在所のすぐ近くであり、反覆常ならぬ人物として警戒論が強かった。そのため李楚琳の使者が何度来ても引見されず、留め置かれたままだった。
  • 漢中へ着くと、渾瑊を李楚琳に代えて鳳翔に置こうという案が出た。これに対し陸贄は、李楚琳の罪は重いが、いまは乗輿がまだ長安に戻っておらず、大賊も残る非常時で、諸軍への命令伝達は褒斜道に依存しているのだから、この路を閉ざされる危険の方がはるかに大きいと論じた。
  • もし李楚琳が恨みを抱いて南の要衝を塞ぎ、東方の群雄を引き入れれば、朝廷は咽喉を断たれるようなものだと警告した。
  • いま彼が両属のような態度を取っているのは、むしろ帰順へ導く好機なのだから、旧悪をほじくり返して追い詰めるべきではないと説いた。
  • 皇帝はこれを聞いて納得し、李楚琳の使者を善く遇し、慰撫の詔を出した。

三月 諸将の任命替え

  • 丁酉、宣武節度使劉洽に同平章事を加えた。
  • 己亥、行在都知兵馬使の渾瑊を同平章事・朔方節度使とし、さらに朔方・邠寧・振武・永平・奉天行営兵馬副元帥とした。これは李懷光の兵権を削るためである。
  • 庚子、詔して李懷光の罪悪を数え上げつつも、旧勲に免じて極刑は避け、副元帥・太尉・中書令・河中尹および朔方諸道節度・観察などの官をすべて罷めた。
  • その兵馬は本軍に功高く人望ある者を一人選ばせ、朝廷が節鉞を授ける方式に改めた。

四月 李懷光旧部の分解

  • 夏四月壬寅、邠寧兵馬使韓遊瓌を邠寧節度使とした。
  • 癸卯、奉天行営兵馬使戴休顔を奉天行営節度使とした。
  • 霊武では、守将寗景璿が李懷光の邸宅を造営していたため、別将の李如暹が「天子を逐った李太尉のために邸を造るのは反逆に等しい」と言って攻め殺した。
  • 甲辰、李晟に鄜坊・京畿・渭北・商華副元帥を加え、李懷光の兵柄をさらに分与した。

四月 李晟軍の忠義

  • 李晟の一家百口や神策軍士の家族はみな長安にあり、朱泚はこれを厚く遇して懐柔した。
  • 軍中で家のことを口にする者があると、李晟は涙を流して「天子がまだ流離しているのに、家のことなど語れるか」と戒めた。
  • 朱泚は李晟の親しい者に家書を持たせ、「一家は無事だ」と伝えさせたが、李晟は怒って、その者を間者として斬った。
  • 軍士たちは春服の支給も受けられず、盛夏でも毛皮や粗布を着たままであったが、離反する者は出なかった。

四月 河中・魏博・関中の再編

  • 乙巳、陝虢防遏使の唐朝臣を河中同絳節度使とし、前河中尹李斉運は京兆尹として李晟軍の糧運・役務を担当させた。
  • 庚戌、魏博兵馬使田緒を正式に魏博節度使とした。

四月 渾瑊の出兵と武功の戦い

  • 渾瑊は諸軍を率いて斜谷から出た。崔漢衡は吐蕃に出兵を促したが、尚結贊は、邠州軍が動かなければ背後を襲われる恐れがあるとして慎重だった。
  • 韓遊瓌が曹子達に三千を与えて渾瑊軍に合流させたため、吐蕃も論莽羅依に二万を授けて従わせた。
  • 李楚琳も石鍠に七百を率いさせて渾瑊に従わせ、武功を奪取した。
  • 庚戌、朱泚は韓旻を差し向けて武功を攻めさせたが、石鍠は途中で兵ごと渾瑊に降った。渾瑊は一度不利となって西原に退いて兵をまとめた。
  • そこへ曹子達と吐蕃軍が到着し、武亭川で韓旻を大破、首級一万余を斬り、韓旻はかろうじて逃れた。
  • 渾瑊はそのまま奉天に屯し、李晟と東西から呼応して長安を圧迫した。

四月 姜公輔の諫争と罷免

  • 皇帝は唐安公主のために塔を建て、厚葬しようとした。
  • 諫議大夫・同平章事の姜公輔は、山南は長く安住する地ではなく、公主の葬は長安帰還後にすべきであり、今は軍需を優先して倹約すべきだと上表して諫めた。
  • 皇帝は陸贄に対し、塔の費用はわずかなのに宰相が論じることではなく、姜公輔は自分の過失を指摘して名を求めているだけだと不満を漏らした。
  • これに対し陸贄は、宰相たる者が事に当たって諫めるのは当然で、大小を問わず道理の是非で論じるべきだと弁護した。
  • もし諫争を「君の失を指摘すること」として嫌えば、古来の忠諫をすべて否定することになり、諫めを受け入れれば、たとえ名を求めていても結果的に君徳を高めるだけだと論じた。
  • しかし皇帝の怒りは収まらず、甲寅、姜公輔は左庶子へ左遷された。
  • 同時に、西川節度使張延賞に同平章事を加えた。車駕の供給に欠乏がなかった功を賞したのである。

四月 涇原の変

  • 朱泚と姚令言は、たびたび人を送って涇原節度使馮河清を誘ったが、馮河清はその都度使者を斬った。
  • ところが大将田希鑒がひそかに朱泚と通じ、馮河清を殺して軍府を朱泚に付した。朱泚は田希鑒を涇原節度使とした。

四月 陸贄、猜疑を戒める

  • 皇帝は陸贄に、最近山北から来た下級官人の中に怪しい者が多く、邢建という者などは賊勢を誇張しており、偵察の疑いがあるので拘禁した、同類も数人いるがどう処置すべきかと尋ねた。
  • 陸贄は、賊が宮闕を占拠する中で危険を冒して遠路行在所へ来る者には、むしろ恩賞を量って与えるべきで、猜疑して拘囚してはならないと答えた。
  • 項羽は秦の降兵二十万を疑って坑殺し、劉邦は来る者を疑わず用いたが、滅びたのは項羽で興ったのは劉邦であると対比した。
  • また、秦始皇は厳しい猜疑で荊軻の陰謀を招き、光武帝は寛容によって馬援の誠を得たとし、虚心で人を待てば敵すら腹心となるが、疑えば骨肉も仇となると説いた。
  • さらに、皇帝には人臣を軽んじて独断し、刑罰と威力で天下を御そうとする傾向があり、それが離叛と禍乱を招いたのだと、かなり踏み込んで戒めた。

四月 賈耽の譲位的退任

  • 丁巳、前山南東道節度使の賈耽を工部尚書とした。
  • 以前、賈耽が行軍司馬樊沢を行在所へ遣わしたところ、樊沢が帰任して大宴の最中に急牒が届き、樊沢をもって節度使に代えると命じられた。
  • 賈耽はその牒を懐に入れたまま宴を続け、顔色ひとつ変えなかった。宴後に樊沢へ事情を告げ、ただちに将吏に樊沢へ拝謁させた。
  • 牙将張献甫が激怒して樊沢を殺すべきだと言ったが、賈耽は、天子の命である以上、樊沢はその時点で節度使なのだと諭した。
  • そして即日離鎮し、張献甫だけは自ら帯同したので、軍府は無事に引き継がれた。

四月 李揆の死と韓遊瓌の進出

  • 甲子、左僕射李揆が吐蕃から帰る途上、鳳州で薨じた。
  • 韓遊瓌は兵を率いて奉天の渾瑊に合流した。
  • 丙寅、平盧節度使李納に同平章事を加えた。
  • 丁卯、義王玼が薨じた。

四月 王武俊・李抱真の和解と対朱滔連携

  • 朱滔は貝州を百余日攻め、馬寔も魏州を四十日余攻めたが、いずれも落とせなかった。
  • 賈林は再び李抱真のために王武俊を説き、朱滔が貝魏を併せ取れば、張孝忠も臣従し、幽州・易定・魏博の三道に回紇まで加わって常山へ迫り、ついには河朔全域が朱滔の手に落ちると説いた。
  • だから今のうちに昭義・恒冀が合兵して魏博を救い、朱滔を破れば、関中の朱泚も士気を失い、天子帰還の第一功は王武俊に帰すると勧めた。
  • 王武俊は喜んで従い、戊辰、南宮の東南に進出した。李抱真も臨洺から兵を進めてこれに会し、両軍は十里を隔てて営した。
  • なお互いに疑いが残ったので、翌日、李抱真はわずかな騎兵だけで王武俊の営へ赴いた。幕僚が諫めても、天下の安危がかかっている、もし戻らなければ軍を率いて朝命に従え、仇恥を雪げと言い残して出向いた。
  • 王武俊は厳重に備えて迎えたが、李抱真が国家の難と天子の流離を語って涙を流すと、王武俊もまた悲しみに耐えられず、互いに兄弟の約を結んで賊滅ぼしを誓った。
  • 王武俊は、自分はかつて李抱真の説得で逆から順へ転じて王公の栄を保てたのだから、今回は必ず回紇を頼みとする朱滔を破って恩に報いると述べた。
  • 李抱真はそのまま王武俊の帳中で酣睡し、王武俊はこれに深く感じ入って、身命を十兄に委ねたと誓った。両軍はついに連営して進んだ。

四月 山南の暑熱と皇帝の倹素

  • 山南は暑く、軍士にはまだ春服が行き渡らなかったため、皇帝自身もなお夾衣を着て質素を示した。