資治通鑑唐紀 徳宗神武聖文皇帝 興元 元年 一年 784年
春正月・興元改元と大赦
- 癸酉朔、天下に大赦し、年号を興元と改めた。
- 詔では、徳宗自ら、深宮育ちで国政に暗く、安きにいて危うきを忘れ、民の農事や征戍の苦しみを知らず、上下の意思も通わず、戦争を起こして四方から兵を集め、輸送や課役で民を疲弊させ、ついには宗廟を失い都に乱を招いたと明言した。
- 以後、中外の上書には「聖神文武」の尊号を用いてはならないとした。
- 李希烈・田悦・王武俊・李納については、彼らの疑懼は君主である自分の失政に由来するとし、配下の将吏も含めてすべて旧に復して処遇することを命じた。
- 朱滔についても、朱泚との連座はあるが路遠く必ずしも同謀ではないとして、もし帰順すれば新たに遇する余地を残した。
- 朱泚だけは、名器を盗み陵寝を犯した大逆として赦さなかったが、官軍が長安に入る前に離反・帰順した将吏百姓は赦すとした。
- 奉天・京城回復のため出兵する諸軍諸道の将士には「奉天定難功臣」の号を与えた。
- さらに、墊陌銭・間架税・竹木税・茶漆税・鉄の専売など、民の嫌う諸課税を停止した。
- この赦令は四方の人心を大いに悦ばせ、のちに李抱真も、山東で赦書を布告した際、兵士たちが感泣したのを見て、賊平定は難しくないと語った。
- 李充を恒冀宣慰使に任じた。
朱泚・田悦・王武俊・李納・李希烈の動き
- 朱泚は国号を漢と改め、自らを漢元天皇と号し、年号を天皇とした。
- 王武俊・田悦・李納は赦令を受けると王号を去り、上表して謝罪した。
- ただし李希烈だけは、兵力と財貨を恃んで皇帝即位を企てた。儀礼を顔真卿に問うたが、顔真卿は、覚えているのは諸侯が天子に朝する礼だけだと答え、暗に拒んだ。
- それでも李希烈は皇帝位につき、国号を大楚、年号を武成とし、百官を置き、鄭賁を侍中、孫広を中書令、李緩・李元平を同平章事とした。汴州を大梁府とし、境内を四節度に分けた。
- さらに将の辛景臻に命じて顔真卿を脅し、屈服しなければ焼き殺すと薪を積み油を注いだが、顔真卿はそのまま火に赴こうとしたため、景臻はかえって止めた。
淮南・江淮方面の攻防
- 李希烈は将の楊峯に赦書を持たせ、陳少遊と寿州刺史の張建封に送った。張建封は楊峯を捕え、軍中で引き回したうえで市で腰斬にした。
- 張建封は陳少遊が李希烈と通じていた実情も詳しく奏聞した。徳宗はこれを喜び、張建封を濠州・寿州・廬州三州都団練使に任じた。
- 李希烈は将の杜少誠を淮南節度使と称させ、歩騎万余でまず寿州を取り、次いで江都へ進ませようとした。
- 張建封は賀蘭元均・邵怡に霍丘の秋柵を守らせた。杜少誠はそこを越えられず、南へ転じて蘄州・黄州を侵し、長江の交通を断とうとした。
- 徳宗は包佶に命じて江淮の財賦を自ら監督させ、長江をさかのぼって行在所へ向かわせたが、蘄口に至ると杜少誠の侵攻に遭遇した。
- 曹王李皋は蘄州刺史の伊慎に七千を率いさせて永安戍で迎え撃たせ、大破して首一万級を斬った。杜少誠は身一つで逃れ、包佶はようやく前進できた。
- その後、包佶が入朝して陳少遊による財貨強奪を詳しく奏すると、陳少遊は恐れ、所部に重い徴斂を課して弁償した。
- 李希烈はまた、夏口が江漢交通の要衝であるため、驍将の董侍に死士七千を募らせて鄂州を襲わせた。
- 鄂州刺史の李兼は旗鼓を隠し門を閉ざして待ち、敵が門を焼こうとすると兵を率いて出撃し、大勝した。徳宗は李兼を鄂・岳・沔都団練使とした。
- こうして李希烈は東では李皋、西では李兼に阻まれ、江淮方面へ再び大きく伸びることはできなくなった。
朱滔と田悦の決裂
- 朱滔が趙の地に入ると、王武俊は大いにもてなし、魏の地では田悦がさらに手厚く供奉し、使者や迎えの者が道に相次いだ。
- 丁丑、朱滔が永済に着くと、王郅を田悦に遣わして館陶で合流し河を渡る約束を取り決めようとした。
- 田悦は、従軍したい気持ちはあるが、将士が疲弊し兵糧も尽き、いま城を出ればたちまち変乱が起こると述べ、自ら出陣せず、孟祐に歩騎五千を率いさせて輜重や牧養の役に従わせると言った。
- あわせて司礼侍郎の裴抗らを派遣して朱滔に謝意を表したが、朱滔は激怒した。かつて田悦が危急に陥った時、自分は君に叛き兄を棄ててまで救ったのに、今になってこれほど遠く来て飾り言で断るのかと言い募った。
- ただちに馬寔に宗城・経城を、楊栄国に冠氏を攻めさせ、いずれも落とした。さらに回紇兵に館陶を略奪させ、帳幕・器皿・車牛を奪わせた。
- 田悦は城門を閉じて守るしかなかった。
- 壬午、朱滔は裴抗らを送り返し、平恩・永済に官吏を置いて支配を固めた。
- 丙戌、盧翰を兵部侍郎同平章事とした。盧翰は盧義僖の七世の孫である。
- 朱滔は北上して貝州を囲み、水を引いて城をめぐらした。刺史の邢曹俊は城に拠って抗戦したが、朱滔は范陽兵と回紇兵に諸県を大掠させた。
- また武城を落として徳州・棣州と連絡し、軍糧補給路を確保し、馬寔に歩騎五千を率いさせて冠氏に屯させ、魏州を圧迫した。
江淮宣慰と瓊林大盈庫の撤去
- 給事中の杜黄裳を江淮宣慰副使とした。
- 徳宗は行宮の廡下に諸道からの貢献物をしまい、「瓊林大盈庫」と掲げた。
- 陸贄はこれに反対し、戦守の功への賞賚がまだ済んでいないのに、先に天子の私蔵庫を作れば士卒は恨み、もはや戦意を持たなくなると諫めた。
- また、奉天での重囲の五十日近い苦難を思い返し、今ある二庫の財貨はまず功臣・将士への賞に回すべきだ、それこそ小さな蓄えを散じて大きな蓄えを保つ道だと説いた。
- 徳宗はこれに従い、すぐに扁額を取り去らせた。
蕭復の疎外
- 蕭復は以前から徳宗に、宦官が監軍となって恩威を笠に縦横するのはよくなく、宮中の事に限らせて兵権や国政を委ねるべきでないと進言していた。
- また、即位当初の徳政は輝かしかったが、楊炎・盧杞が朝政を乱して今日に至ったのであり、もし志を改めるなら自分も尽力すると述べ、迎合して身を守ることはできないと明言した。
- あるとき盧杞とともに奏事した際には、蕭復がその場で盧杞の言は正しくないと面前で言い切り、徳宗は驚いて、退いたのち側近に蕭復は自分を軽んじていると漏らした。
- 戊子、徳宗は蕭復を山南東西・荊湖・淮南・江西・鄂岳・浙江東西・福建・嶺南など諸道の宣慰安撫使に任じたが、実際には遠ざける意図があった。
- ところが劉従一ら朝士がこれを留任させようと奏すると、徳宗は、遠方に重臣を送るのが当然と皆が言ったのに、今になって翻すのは蕭復が行くのを悔いたためではないかと疑い、陸贄に問うた。
- 陸贄は、蕭復は軽薄な策を弄する人ではなく、もし本人に請願があるなら劉従一が隠すはずはないし、従一に別の配慮があるなら蕭復を疑うのは筋違いだと答えた。
- そして、疑っても弁明の機会を与えないのが最も惑いを深くし、見疑われながら弁じる場がないのが最も冤であると説いたが、徳宗はついに問いただそうとはしなかった。
諸鎮への正式任命
- 辛卯、王武俊を恒冀深趙節度使とした。
- 壬辰、李抱真・張孝忠をともに同平章事に加えた。
- 丙申、田悦を検校左僕射とした。
- 山南東道行軍司馬の樊沢を本道節度使とし、前深趙観察使の康日知を同州刺史・奉誠軍節度使に移した。
- 曹州刺史の李納を鄆城刺史・平盧節度使に任じた。
- 戊戌、劉洽を汴滑宋亳都統副使・知都統事とし、李勉の兵衆はすべて劉洽に委ねた。
- 辛丑、六軍にそれぞれ統軍を置き、秩を従三品として功臣を優遇した。
- 吐蕃の尚結賛が、唐を助けて京城を回復したいと申し出たため、庚子、秘書監の崔漢衡を吐蕃へ使わせ、その兵を発させることにした。