資治通鑑唐紀四十三 徳宗神武聖文皇帝 建中 二年 781年
六月:韓滉の転任と鎮海軍の成立
- 六月庚寅、浙江東西観察使・蘇州刺史の韓滉が、潤州刺史・浙江東西節度使に任じられ、その軍は「鎮海」と名づけられた。
張著の襄陽到着と梁崇義討伐の発端
- 張著が襄陽に到着したが、梁崇義は不安を深め、兵を並べて対面した。藺杲は鄧州への任命詔書を受けていたため勝手に動けず、急いで梁崇義に面会して助命を願った。
- しかし梁崇義は張著に対して泣きながら訴えるばかりで、ついに詔命を受け入れなかった。
- 癸巳、朝廷は李希烈を南平郡王に進め、漢南・漢北兵馬招討使として諸道の兵を督し、梁崇義討伐に当たらせた。
- 楊炎は、李希烈はもともと董秦の養子として重用されながら、その地位を奪った人物で、残忍で恩義を知らず、しかも統制しにくいので、梁崇義を平定した後にはさらに扱いに困ると強く諫めた。だが徳宗は聞き入れなかった。
- 荊南の牙門将・吴少誠は、梁崇義攻略の策を李希烈に献じ、前鋒に抜擢された。
全国的な出兵と運漕の停滞
- このころ関中から蜀、漢南、江淮、閩越、さらに北の太原に至るまで各地で出兵が続いた。
- 一方、李正已は兵を出して徐州の甬橋・渦口を押さえ、梁崇義も襄陽で抗戦したため、水陸の輸送路が絶たれ、人々は大いに動揺した。
- 江淮からの進奉船千余艘は渦口に停泊したまま進めなくなった。
- 徳宗は和州刺史の張萬福を濠州刺史に移し、渦口の水路回復を担当させた。
- 張萬福は現地に到着すると岸辺に馬を立てて進奉船を次々と出発させ、淄青軍の兵たちは岸からにらみつけるだけで、手出しできなかった。
郭子儀の死
- 辛丑、汾陽忠武王・郭子儀が薨去した。
- 郭子儀は名将として強兵を握りながらも、朝廷から一枚の詔書で召されれば即日出発し、程元振や魚朝恩らの讒言も通じなかった。
- かつて田承嗣のもとへ使者を送った際には、田承嗣が西に向かって拝し、「この膝を他人に屈したことは長年ない」とまで言ったほど威望があった。
- 李靈曜が汴州に拠って乱を起こした時も、往来する公私の物資はすべて差し止められたが、郭子儀の荷だけは触れられず、兵をつけて境外まで護送された。
- 彼は莫大な俸禄と私財を持ち、家中の人数も多く、八子七壻はいずれも高官であった。孫も非常に多く、朝の挨拶では顔を見分けきれず、うなずくだけのこともあった。
- 僕固懷恩・李懷光・渾瑊らもその麾下から出たが、彼らが王公となってもなお郭家では旧来どおりに扱われた。
- 天下の安危を三十年近くその身に担いながら、功が天下を覆っても主君に疑われず、位が極まっても人々に憎まれず、奢侈であっても非難されず、八十五歳で生涯を終えた。配下から大官・名臣になった者も多かった。
河陽節度使の新設
- 壬子、懷鄭河陽節度副使の李艽が河陽懷州節度使に任じられ、東都畿内の五県がこれに属した。
安西・北庭からの使者帰還
- 吐蕃によって河隴が遮断されて以来、北庭・安西は長く朝廷と連絡が絶えていた。
- それでも伊西北庭節度使の李元忠、四鎮留後の郭昕らは将兵とともに閉境して持ちこたえ、しばしば使者を送ったが通じなかった。
- 十年以上ぶりに、彼らの使者が諸胡の地を経て回紇経由で到達し、朝廷はその忠節を賞した。
- 秋七月戊午朔、李元忠を北庭大都護・寧塞郡王、郭昕を安西大都護・四鎮節度使・武威郡王とし、将士も一律に七資進めた。李元忠はもと曹姓で曹令忠といい、その姓名は朝廷から賜ったものであった。
楊炎の罷免
- 李希烈が長雨を理由に進軍を遅らせると、徳宗はこれを怪しんだ。
- 盧杞は、李希烈がためらうのは楊炎が彼の任用に反対したからだと密かに説き、まず楊炎を宰相から外して李希烈を喜ばせるべきだと勧めた。
- 徳宗はこれを受け入れ、庚申、楊炎を左僕射として罷相した。
- あわせて、前永平節度使の張鎰を中書侍郎同平章事とし、朔方節度使の崔寧を右僕射とした。
袁光庭への追贈
- 丙子、かつて伊州刺史だった袁光庭に工部尚書が追贈された。
- 袁光庭は天宝末から伊州を守り、吐蕃が河隴を奪った後も多年にわたり孤城を保った。吐蕃はさまざまに降伏を誘ったが応じなかった。
- 糧尽き兵尽きて陥落が避けられなくなると、先に妻子を殺し、最後は自ら火を放って死んだ。郭昕の使者が朝廷に着いたことで、ようやくその最期が知られた。
梁崇義討伐の勝利
- 辛巳、邠寧節度使の李懷光が朔方節度使を兼ねた。
- 李希烈は漢水沿いに進軍し、諸道の兵と合流した。
- 梁崇義は部将の翟暉・杜少誠を蠻水に送り迎撃させたが、李希烈はこれを大破し、さらに疏口まで追撃して再び破った。
- 翟暉らが降伏を願うと、李希烈はその兵を率いさせて先に襄陽へ入り、軍民を慰撫させた。
- 梁崇義は城門を閉ざして抗ったが、守兵たちは争って脱出し、もはや統制できなかった。
- 梁崇義は妻とともに井戸へ身を投じて死に、その首は京師へ送られた。
朱滔の説得と張孝忠の帰順
- 朱滔は李惟岳討伐のため莫州に進み、張孝忠は精兵八千を率いて易州を守っていた。
- 朱滔の判官・蔡雄は張孝忠に、田悦はすでに敗れ、梁崇義も滅び、河北諸鎮の行く末は明らかだとして、先んじて易州を挙げて朝廷に帰すべきだと説いた。
- 張孝忠はこれに同意し、牙官の程華を朱滔のもとへ送り、録事参軍の董稹に表を持たせて入朝させた。
- 九月辛酉、徳宗は張孝忠を成徳節度使に任じ、李惟岳には喪を護って入朝するよう命じたが、李惟岳は従わなかった。
- 張孝忠は朱滔に恩義を感じ、子の茂和に朱滔の娘を娶らせて結びつきを深めた。
李承の起用
- 壬戌、李希烈に同平章事を加えた。
- 以前、黜陟使の李承は淮西から戻った際、李希烈は小さな功は立てるだろうが、功を立てた後には必ず驕慢となり、再び朝廷を悩ませるだろうと徳宗に告げていた。しかし徳宗は意に介さなかった。
- 李希烈が襄陽を奪うと、その地を自領のように扱ったため、徳宗はようやく李承の言葉を思い出した。
- そこで甲子、河中尹の李承を山南東道節度使に任じた。
- 李承は禁軍の護送を断って単騎で赴任したが、襄陽では李希烈に外館へ置かれ、さまざまに脅迫されても屈しなかった。
- 李希烈はやむなく境内の財物を略奪して撤退した。
- 李承は一年で軍府をある程度立て直し、その後も心腹の臧叔雅を許州・蔡州方面へ行き来させて、李希烈の側近の周曾らと内応を図った。
楊炎・趙惠伯の獄と誅殺
- 楊炎が宰相のころ、京兆尹の厳郢を嫌って左遷したため、盧杞はこれを利用して厳郢を御史大夫に起用した。
- 楊炎が家廟を建てようとした際、東都の宅地を河南尹の趙惠伯に頼んで売却したが、趙惠伯がこれを官舎として買い上げたことについて、厳郢は不当利得があったと糾弾した。
- 盧杞は当初、比較的軽い法解釈を示した大理正の田晉を衡州司馬へ左遷し、別の官吏に重い罪を議させた。
- さらに、楊炎の家廟が蕭嵩家廟の旧地に建てられたことを「王気の地を狙った異志」と讒言した。
- 冬十月乙未、楊炎は左僕射から崖州司馬へ貶され、赴任途中で絞殺された。
- 趙惠伯も費州多田尉に貶され、まもなく殺された。
太子妃の冊立と太廟祫祭
- 辛巳、太子妃に蕭氏が立てられた。
- 癸卯、太廟で祫祭が行われた。
- この際、獻祖・懿祖の神主を西夾室から出し、獻祖を東向きの尊位に置いて祭った。配置は古礼と先例を参照して定められた。
徐州の李洧、朝廷に帰順
- 徐州刺史の李洧は李正已の従父兄にあたり、李納が宋州に侵攻すると、彭城令の白季庚は李洧に州を挙げて朝廷へ帰順するよう説いた。
- 李洧はこれに従い、巡官崔程を京師に派遣して表を奉り、あわせて徐州だけでは李納に対抗できないので、徐・海・沂三州の観察使を兼ねたいと口頭で求めた。
- しかし崔程は先に張鎰へ事情を伝え、盧杞を後回しにしたため、盧杞は怒って要請を十分に採り上げなかった。
- 戊申、李洧に御史大夫を加え、招諭使とした。
十一月:徐州救援と七里溝の大勝
- 戊午、永楽公主が田華に降嫁した。
- 蜀王傀は名を遂と改めた。
- 辛酉、宣武節度使の劉洽、神策都知兵馬使の曲環、滑州刺史の李澄、朔方大将の唐朝臣らが徐州で淄青・魏博の兵を大破した。
- もともと李納は王温と信都崇慶に徐州攻撃を命じており、李洧は牙官の王智興を京師へ走らせて救援を求めた。王智興は五日足らずで到着した。
- 徳宗は朔方兵五千を発し、唐朝臣に率いさせて劉洽らとともに救援させた。
- 朔方軍は装備がみすぼらしく、宣武軍から侮られたが、唐朝臣は先陣の戦利品を与えると激励して士気を奮い立たせた。
- 七里溝での戦いでは、楊朝晟が騎兵伏兵の策を献じ、敵騎兵が橋を越えて追撃してきたところを横撃して二分し、さらに川を渡って橋を奪取した。
- 官軍は敵を大破し、斬首八千余、溺死者はその半ばを超え、輜重も奪った。
- そのまま徐州城下まで追撃し、淄青・魏博軍は包囲を解いて退いた。これにより江淮の漕運が再び通じた。
海州・密州の帰順
- 己巳、李惟岳の官爵を削り、その部下で降る者には赦免と恩賞を与える詔が出た。
- 甲申、淮南節度使の陳少遊が兵を送って海州を攻めると、刺史の王渉が州を挙げて降った。
- 十二月、李納配下の密州刺史・馬萬通も降伏を願い出たため、丁酉、改めて密州刺史に任じた。
吐蕃との国境交渉
- 崔漢衡が吐蕃に到着すると、贊普は勅書が「貢献」と記し、賜物の扱いも臣礼であることに不満を示した。
- さらに、国境は賀蘭山をもって定めるべきだと要求し、崔漢衡にあらためて請願させた。
- 丁未、崔漢衡は判官に吐蕃使者を伴わせて入奏させた。
- 徳宗は勅書を書き換え、国境についても吐蕃の要求を受け入れた。関東・河北での戦争が激しく、吐蕃と争う余裕がなかったためである。
- また馬燧に魏博招討使を加えた。