資治通鑑唐紀四十三 徳宗神武聖文皇帝 建中 三年 782年

正月:洹水の大戦と田悦の潰走

  • 河陽節度使の李艽は兵を率いて衛州に迫ったが、田悦の守将・任履虛は偽って降伏し、のち再び叛いた。
  • 馬燧ら諸軍は漳水流域に駐屯し、田悦は王光進に月城を築かせて長橋を守らせたため、官軍は渡河できなかった。
  • 馬燧は鉄鎖でつないだ多数の車に土嚢を積んで下流を堰き止め、水を浅くして渡河した。
  • 軍中は食糧不足だったが、馬燧はあえて十日分の糧だけを持たせて倉口へ進み、洹水をはさんで田悦軍に迫った。
  • 李抱眞・李艽が深入りを疑うと、馬燧は、敵は持久戦で官軍を疲弊させるつもりなので、必ず救わねばならない場所へ迫って決戦を引き出すのだと説明した。
  • その後、洹水に三橋を設けて連日挑戦したが、田悦は応じなかった。
  • そこで半夜に密かに移動し、なお営中には鼓角と火を残し、敵が渡河しきったところで橋を焼く計略を用いた。
  • 田悦は淄青・成徳の軍とともに四万で追撃し、火を放ちながら迫ったが、馬燧は前面の草を刈って戦場を整え、勇士五千余を前列に置いて待ち構えた。
  • 敵は火勢が衰え、気力が落ちたところを攻められて大敗した。神策・昭義・河陽の諸軍は一時後退したが、河東軍の奮戦を見て再び戦い、さらに大破した。
  • 田悦軍は三橋の焼け跡に殺到して溺死者が続出し、斬首二万余、捕虜三千余、死体は三十里にわたって積み重なった。
  • 田悦はわずか千余騎で魏州へ逃げ込んだ。

田悦、魏州で再起を図る

  • 馬燧と李抱眞は不和のため、すぐには魏州を攻め込まず平邑の浮屠にとどまった。
  • 田悦が夜に魏州南郭へ着くと、大将の李長春はすぐに開門せず、官軍の来着を見きわめようとした。夜明けになってようやく入城を許したため、田悦は怒って李長春を殺した。
  • 城中の兵は数千にも満たず、死者の親族の泣き声が街を満たした。
  • 田悦は佩刀を持って府門に立ち、自らの失敗を認めて、自分の首を斬って馬燧に降れば各自は富貴を得られると泣いて訴えた。
  • 将士はこれに感じ、敗北は兵家の常であり、なお一戦して敗れるなら共に死ぬと誓った。
  • 田悦は諸将と断髪して兄弟の契りを結び、府庫の財物と富民から集めた金を賞与に回して士気を立て直した。
  • さらに、以前退けていた邢曹俊を呼び戻して部伍を整えさせ、軍勢は再びまとまりを取り戻した。

李納側近の投降

  • 李納は濮陽に軍を置いていたが、河南軍に圧迫されて濮州へ退いた。
  • 援軍を魏州へ求めたため、田悦は軍使の符璘に三百騎を率いさせて護送させた。
  • 符璘の父・令奇は、安史以来の叛乱者で安泰を得た者はいないと息子を諭し、ここで逆を捨て順に従えば家名があがると、腕を噛んで別れを告げた。
  • 符璘は副将の李瑶とともに馬燧へ降った。田悦はその一族を捕え、令奇は罵って死んだ。
  • 李瑶の父の再春は博州を、田悦の従兄の田昂は洺州をもって降った。
  • 王光進も長橋を守っていた兵とともに降伏した。
  • 田悦が入城して十余日後、ようやく馬燧らの諸軍が城下に着き攻城を始めたが、落とせなかった。

束鹿・深州をめぐる戦い

  • 丙寅、李惟岳は孟祐とともに束鹿を守らせたが、朱滔と張孝忠がこれを攻め落とし、さらに深州を包囲した。
  • 李惟岳は恐れて掌書記の邵眞の勧めに従い、ひそかに弟の惟簡を入朝させ、自らものちに入朝し、妻の父の鄭詵に節度事を委ねる計画を立てた。
  • だが孟祐がこれを察知して田悦へ知らせ、田悦は扈岌を遣わして、反逆の責任だけを自分へ押しつけて抜け駆けするのかと李惟岳を責めた。
  • 判官の畢華も、田悦を見捨てるのは不義だと説いたため、李惟岳は前計を捨て、邵眞を扈岌の前で斬った。
  • そして成徳軍一万を出して再び束鹿を囲んだ。
  • 朱滔・張孝忠は束鹿城下で李惟岳軍を大破し、陣営を焼かせて敗走させた。

王武俊、李惟岳を殺す

  • 束鹿の戦いで前鋒を務めた王武俊は、李惟岳から疑われていた。
  • 彼は「ここで朱滔を破っても、帰れば自分が殺される」と考え、全力で戦わずに敗れた。
  • 朱滔はその勢いで恒州へ進みたかったが、張孝忠は義豐に軍を置いて進軍を止めた。恒州にはなお宿将が多く、急迫すれば団結して死戦するが、猶予を与えれば内部崩壊すると見抜いていたためである。
  • その後、趙州へ向かった王武俊は、歩軍使の衛常寧から、逃亡して張孝忠へ走るより、李惟岳を討ち取って自ら功を立てるほうが得策だと勧められた。
  • ちょうど李惟岳の腹心の要籍・謝遵が来たので、王武俊はこれを引き込んだ。謝遵は帰って王士眞に密告したが、王士眞もまた内応した。
  • 閏月甲辰、王武俊・衛常寧は趙州から軍を返して恒州を急襲した。
  • 王士眞と謝遵は李惟岳の命と偽って城門を開かせ、夜明けに王武俊が数百騎で府門へ突入した。
  • 王武俊は「大夫は叛逆、将士は帰順せよ。逆らう者は一族皆殺しだ」と命じ、誰も抵抗しなかった。
  • 李惟岳を捕え、鄭詵・畢華・王它奴らも殺した。
  • 王武俊は李惟岳を生かして長安へ送ろうとしたが、衛常寧は、都へ出ればかえって王武俊へ罪をなすりつけるだろうと説き、結局絞殺してその首を京師へ送った。
  • 深州刺史の楊榮國も朱滔に降り、朱滔はそのまま任地に復させた。

酒税の復活

  • この月、天下で酒の専売が再開され、西京だけは例外とされた。

二月:河北再編と朱滔・王武俊の不満

  • 戊午、李惟岳が任命していた定州刺史の楊政義が降伏した。
  • この時点で河北はほぼ平定され、残るは魏州のみとなり、河南諸軍は濮州で李納を攻めていた。
  • 朝廷は天下平定も近いと考えた。
  • 甲子、張孝忠を易定滄三州節度使、王武俊を恒冀都団練観察使、康日知を深趙都団練観察使とし、徳・棣二州を朱滔に与えた。
  • だが朱滔は深州も欲したが許されず、不満を抱いて深州にとどまった。
  • 王武俊も、自分こそ李惟岳誅殺の主功でありながら、張孝忠より下位で、康日知と同格に扱われ、しかも趙・定二州を失ったことに不満だった。
  • さらに、朝廷が朱滔へ糧三千石を、馬燧へ馬五百匹を与えたことも、王武俊には「恒冀を弱めて将来奪う布石」と映った。

田悦の工作で朱滔・王武俊が反意を強める

  • 田悦はこの不満につけ込み、判官の王侑・許士則を深州へ遣わし、朱滔に対して、李惟岳討伐の功は本来すべて朱滔のものなのに、朝廷は深州を康日知へ与えて信義を失ったと説いた。
  • さらに、朝廷は河北の藩鎮世襲を絶やして文臣に置き換えるつもりであり、魏博が滅べば次は燕・趙が狙われるから、今のうちに魏博を救うことが自家の長久に通じると説いた。
  • あわせて貝州を報酬として約束したため、朱滔は大いに喜んだ。
  • また王武俊にも、康日知などと同列にされるのは不当であり、朝廷はいずれ馬燧と朱滔の両面から恒冀を圧迫するつもりだと説いた。
  • 王武俊もこれに同意し、王巨源を朱滔のもとへ送って連携を約した。

李納の降伏機会を逃す

  • 宣武節度使の劉洽は濮州で李納を攻め、外城を落とした。
  • 李納は城上で涙を流し、改心を願った。李勉もまた使者を遣わして帰順を勧めた。
  • 己卯、李納は判官の房説に母弟の経と子の成務を伴わせて入朝させた。
  • ところが中使の宋鳳朝が、李納はいま窮地にあり、ここで赦してはならないと進言したため、徳宗は房説らを禁中に拘留した。
  • そのため李納は鄆州へ帰ってしまい、再び田悦らと結んだ。
  • 朝廷はようやく三月乙未になって李洧に徐海沂都団練観察使を兼ねさせたが、海州・沂州はすでに李納に押さえられており、実際の利益はなかった。

四月:徳州・棣州の帰順

  • 李納が反した当初、徳州刺史の李西華は厳重に守備していたが、都虞候の李士眞が密かに中傷したため、李納は李西華を召還して李士眞に代えた。
  • 李士眞はさらに棣州刺史の李長卿をだまして徳州へ呼び寄せ、ともに朝廷へ帰順した。
  • 戊午、李士眞・李長卿をそれぞれ徳州・棣州刺史に任じた。
  • 李士眞は朱滔に援軍を求めたが、朱滔はすでに反意を抱いており、大将の李濟時に三千人を与えて徳州支援を名目に送り、李士眞本人は深州へ呼び寄せて留め置いた。

吐蕃の俘虜返還

  • 庚申、吐蕃は以前に掠奪していった唐の兵民八百人を返還した。
  • これは徳宗が先に帰国使節への厚遇や譲歩を示して、吐蕃を懐柔しようとしたことへの応答だった。

朱滔の挙兵準備と将兵の動揺

  • 徳宗は中使を送り、盧龍・恒冀・易定の兵一万を魏州討伐へ向かわせようとした。
  • 王武俊は詔を受けず、使者を捕えて朱滔のもとへ送った。
  • 朱滔は将士を前に、朝廷は功を立てた者に十分な官勲を与えない、だから魏州へ進んで馬燧を破り温飽を得ようと呼びかけたが、将士は応じなかった。
  • 彼らは、安史の乱以来、南へ出た幽州兵で無事に帰った者はいない、今さら危険を冒したくないと答えた。
  • 朱滔はやむなく大将数十人を誅し、兵をなだめつつ反計を進めた。
  • 康日知がこの動きを馬燧へ知らせたため、朝廷も察知したが、魏州未平定で王武俊も叛き、朱滔を討つ余力はなかった。
  • 壬戌、徳宗は逆に朱滔へ通義郡王の爵を与え、懐柔を試みた。

張孝忠、朱滔の誘いを拒絶

  • 朱滔は趙州方面へ兵を出して康日知を圧迫し、深州は王巨源に与え、王武俊は子の王士眞に恒・冀・深三州留後を任せて趙州を囲ませた。
  • 涿州刺史の劉怦は、いま忠順を守れば不朽の名が得られるが、安禄山・史思明のように戦を好んで家滅び身を屠られる例を思うべきだと書を送って朱滔を諫めた。朱滔は採用しなかったが、その忠節は評価した。
  • 朱滔はまた蔡雄を遣わして張孝忠を誘ったが、張孝忠は、自分は朱滔の言葉に従って朝廷へ帰順したのであり、今さら逆に加担することはできないと断った。
  • さらに、王武俊のような夷落出身者は翻覆しやすいから、いずれその言葉を思い出すことになるだろうと告げた。
  • 蔡雄がなおも巧言で説こうとすると、張孝忠は怒って逮捕しようとしたため、蔡雄は逃げ帰った。

深州兵の反乱と朱滔の強行南下

  • 朱滔は歩騎二万五千で深州を発し、束鹿に至った。
  • 翌朝出発の角笛が鳴ると、兵たちは突然大騒ぎし、天子の命令は幽州へ帰れというものなのに、なぜ田悦救援へ南下するのかと抗議した。
  • 朱滔は驛舎の後堂へ逃げ込んだが、蔡雄と兵馬使の宗頊らが、司徒の行動は兵卒のためであり、深州の産物を得て賦役を軽くするためだと説明した。
  • さらに、朝廷は褒賞の絹を馬燧に奪わせたのだと煽ったため、兵は詔使の館を襲ってこれを殺した。
  • なおも兵は当面は帰還を望んだが、蔡雄はひとまず深州へ戻ってから休息し、のち帰ろうと収めた。
  • 朱滔は深州へ引き返し、騒ぎを唱導した者二百余人を探し出して処刑したのち、再び南下した。今度は誰も逆らわなかった。
  • 朱滔は寧晉に進んで王武俊を待ち、王武俊もまた元氏から東へ進んで合流した。

孟華の諫言

  • 王武俊が李惟岳を誅した際に長安へ送った判官・孟華は、才略と弁舌で徳宗に喜ばれ、恒冀団練副使に任じられていた。
  • 朱滔との異謀を知った徳宗は、孟華を急ぎ返して王武俊を諭させた。
  • 孟華は、天子は王武俊に厚意を示しており、忠義を尽くせば官爵も領土も必ず広がる、深趙もいずれ得られるのに、なぜ自ら逆乱に身を投じるのかと諫めた。
  • しかし孟華は李宝臣幕下以来、直言のため同僚から恨まれており、王武俊配下の者たちは「軍中の密事を朝廷へ漏らした内応者だ」と讒言した。
  • 王武俊は旧臣であることから殺さず、官を奪って私宅へ退けた。

御河の戦いと財政破綻

  • 田悦は援軍到来を頼みにして、将の康愔に一万余を率いさせ、御河の上で馬燧らと戦わせたが大敗した。
  • このころ両河の戦費は月百余万緡に達し、国家財政は数か月も支えられない状態だった。
  • 太常博士の韋都賓と陳京は、富商の財力を借り上げれば軍費を賄えると建議した。
  • 徳宗はこれを採用し、甲子、商人からの借財を命じた。
  • 判度支の杜佑は長安の商賈を厳しく捜索し、申告が不実とみれば鞭打ったため、苦しみのあまり首をくくる者まで出た。
  • 都は大騒ぎとなり、まるで盗賊に襲われたような有様になった。
  • 得られたのは商人からで八十余万緡にすぎず、さらに質屋や蓄財者にも四分の一を供出させ、櫃や窖に封印までしたため、百姓は市を閉じ、群衆が宰相の馬を取り囲んで訴えた。
  • 盧杞は最初なだめたものの収拾がつかず、別路から逃れるように帰宅した。
  • しかし最終的に集まった額もわずか二百万緡ほどで、人心だけを著しく失った。

諸将の不和の解消

  • 甲戌、昭義節度副使・磁州刺史の盧玄卿を洺州刺史兼魏博招討副使にした。
  • もともと李抱眞と馬燧は、懷州刺史の楊鉥をめぐる旧怨から不仲で、田悦討伐でもたびたび対立し、互いに会おうともしなかったため、諸軍の停滞が長引いていた。
  • 徳宗はしばしば中使を送って和解を図った。
  • 王武俊が趙州を圧迫すると、李抱眞が部下二千を邢州へ回したことに馬燧が怒り、撤退を言い出した。
  • そこで李晟が、邢州は趙州と隣接し守備上当然だとして馬燧を諭した。
  • 馬燧は単騎で李抱眞の陣を訪れて和解し、田昂の入朝を受けて洺州を李抱眞の配下に組み込み、盧玄卿をその刺史に推薦した。
  • また李晟軍を馬燧・李抱眞の双方に属させ、協調を示した。

蔡廷玉・厳郢の失脚

  • 盧龍節度行軍司馬の蔡廷玉は、判官の鄭雲逵を嫌って莫州参軍へ左遷させた。鄭雲逵は朱滔の娘婿であり、朱滔はこれを再び掌書記に取り立てた。
  • 鄭雲逵は蔡廷玉を朱滔の前で深く中傷し、蔡廷玉と朱体微も朱泚に対して、朱滔は専横で兵権を預けるべき人物ではないと告げた。
  • 朱滔は激怒して二人の誅殺を兄の朱泚へ求めたが、朱泚は応じなかったため兄弟の間に隙が生まれた。
  • 朱滔が叛いたのち、徳宗は朱滔を喜ばせるため、甲子、蔡廷玉を柳州司戸、朱体微を万州南浦尉へ貶した。
  • ところが、詔文伝達の手違いから、蔡廷玉らは朱滔に引き渡されるものと誤解し、霊宝西方で黄河へ身を投げて死んだ。
  • 徳宗が驚くと、盧杞は御史台が大夫の厳郢の指示で動いたはずだとして、鄭詹と厳郢の取調べを進言した。
  • 獄が終わらぬうちに壬午、鄭詹は京兆府で杖殺され、厳郢は費州刺史に貶され、配所で死んだ。

卢杞政権下の重税

  • 徳宗が即位した当初、崔祐甫が宰相として寛大な政治を行ったため、世人は貞観の風があるとまで称えていた。
  • しかし盧杞は徳宗の猜疑心を利用し、群臣を疑わせ、厳刻な統治を勧めたため、朝野は失望した。
  • 淮南節度使の陳少遊は、本道の税銭を千ごとに二百増やしたいと奏請し、五月丙戌、徳宗は他道もこれに倣わせ、塩一斗ごとに百銭を上乗せした。

六月:李懷光の東征

  • 朱滔・王武俊は寧晉から南下して田悦救援へ向かった。
  • 辛卯、徳宗は朔方節度使の李懷光に、朔方・神策の歩騎一万五千を率いて東へ進み、田悦を討ち、あわせて朱滔らを防ぐよう命じた。
  • 途中、朱滔の掌書記・鄭雲逵と参謀・田景仙は宗城で朱滔を見限って投降した。
  • 丁酉、馬燧に同平章事を加えた。
  • 辛亥、定州に義武軍節度使を置き、易・定・滄三州を属させて張孝忠に統べさせた。

回紇との緊張

  • 張光晟が突董を殺した事件以来、徳宗は回紇との関係を絶とうとして、冊立使の源休を太原から戻らせていた。
  • その後ようやく源休を派遣し、突董や翳密施、大梅録・小梅録らの遺骸を返還させた。
  • 可汗は宰相の頡子斯迦らを出迎えに出したが、源休たちを雪の中に立たせ、突董を殺した事情を問い詰め、何度も殺そうとした。待遇もきわめて薄く、五十余日たってようやく帰国を許した。
  • 可汗は、国人は血で血を洗う復讐を望むが、自分は水で血を洗うほうを選ぶ、ただし唐は馬価百八十万匹分の代償を速やかに払えと言った。
  • 散支将軍の康赤心を源休に同行させて長安へ送ったが、源休は可汗に直接会うこともできずに戻った。
  • 己卯、長安に着くと、朝廷は絹十万匹と金銀十万両で馬価を償った。
  • 盧杞は、弁舌に長けた源休が帝の寵を得ることを恐れ、到着前に光禄卿へ転出させた。

六月末から七月:愜山の戦いと官軍の大敗

  • 朱滔・王武俊が魏州へ至ると、田悦は牛酒を備えて城外まで迎え、魏州の人々は地を震わせるほど歓呼した。
  • 朱滔は愜山に陣を敷いた。同じ日、李懷光も到着し、馬燧らが盛大な軍容で迎えたため、朱滔は攻撃と誤解して陣を出した。
  • 李懷光は敵の営塁がまだ整わぬうちに攻撃すべきだと主張し、馬燧が将士の休息と敵情観察を求めたのを退けて、愜山西方で突撃した。
  • 朱滔軍は千余人を失って崩れたが、李懷光は勝勢に乗じて軍紀を保てず、兵は敵営に雪崩れ込んで宝貨を奪い始めた。
  • そこへ王武俊が二千騎で横撃し、朱滔も兵を率いて続いたため、官軍は大敗した。
  • 兵は永済渠へ押し込まれ、溺死者は数えきれず、折り重なった死体で水流が止まるほどだった。
  • 馬燧らはそれぞれ軍を収めて塁に拠った。
  • その夜、朱滔らは永済渠の水を王莽故河へ流し込み、官軍の糧道と退路を絶った。翌日には水深が三尺余になった。
  • 馬燧は恐れて低姿勢の使者を送り、各節度使を本道へ帰すこととし、河北のことは「五郎」朱滔に任せるよう天子へ奏請すると述べて講和を求めた。
  • 朱滔は応じようとしたが、王武俊は、十万近い官軍をここで放てば必ず立て直して戻ってくると反対した。朱滔は結局これを聞き入れず、官軍を退かせた。
  • 七月、馬燧らは西へ退いて魏県を守り、朱滔・王武俊もまた東南に陣して対峙した。ここから両者の間にしこりが残った。

李納への圧力強化

  • 李納は救援を朱滔らに求め、朱滔は信都承慶に魏博兵を率いさせて支援した。
  • 李納は宋州を攻めたが落とせず、李克信・李欽遥に濮陽・南華を守らせて劉洽に備えた。
  • 甲辰、李希烈を平盧淄青兗鄆登萊斉州節度使に兼ねさせ、李納討伐を命じた。
  • あわせて馬燧に魏博澶相節度使を兼ねさせ、李懷光には同平章事を加えた。

李晟の北上

  • 神策行営招討使の李晟は、率いる軍で北上し、趙州の包囲を解いて張孝忠と合流し、范陽攻略の形勢をつくりたいと願い出た。
  • 徳宗はこれを許し、李晟は魏州から北へ進んだ。
  • 王士眞は趙州の囲みを解いて去り、李晟は趙州に三日とどまってから張孝忠と合兵し、さらに北へ進んで恒州方面を掠めた。

安南の反乱

  • 演州司馬の李孟秋が兵を挙げて反し、自ら安南節度使を称した。
  • 安南都護の輔良交がこれを討って斬った。

八月:輸送行政の再編

  • 丁未、汴州を中心に東西二系統の水陸運・両税・塩鉄使を設け、度支は大綱のみを統轄することにした。
  • 辛酉、涇原留後の姚令言を節度使に任じた。

顔真卿、吐蕃使節に同行

  • 盧杞は太子太師の顔真卿を憎み、外へ出したいと考えていた。
  • 顔真卿は、盧杞の父・盧奕の首が平原に届いたとき、自分はその血を舐めて哀悼したほどなのに、今なぜ容れないのかと面前で言った。盧杞はその場では驚いて礼をとったが、恨みはむしろ深くなった。
  • 九月癸卯、崔漢衡が吐蕃から帰り、贊普は臣の区頰贊を同行させて入朝させた。

十月:曹王皋の江西赴任と伊慎の疑獄

  • 十月辛亥、湖南観察使の曹王皋を江南西道節度使とした。
  • 曹王皋は洪州へ着くと、将佐を集めて才能を見極め、伊慎・王鍔らを抜擢し、許孟容を幕府へ招いた。
  • 伊慎はかつて李希烈に従って梁崇義を討ったことがあり、李希烈はその才能を惜しんで配下に留めようとしたが、伊慎は逃げ帰っていた。
  • そのため李希烈は、伊慎が曹王皋に用いられていると知ると脅威を感じ、七属甲を贈り、あたかも伊慎が返書したように見せかけて江南西道の境上に落とした。
  • 徳宗はこれを聞き、中使を送って軍中で伊慎を斬らせようとしたが、曹王皋が無実を強く訴えたため裁決は保留された。
  • ちょうどそのとき江賊三千余が侵入したので、曹王皋は伊慎に討伐させた。
  • 伊慎は数百人を斬って勝利し、その功で疑いを免れた。

闗播の入相

  • 盧杞は、徳宗がいずれ新たな宰相を立てると見て、自分と権を争わぬ人物を望んだ。
  • そこで、穏厚で風俗を鎮めるに足るとして吏部侍郎の関播を推挙した。
  • 丙辰、関播を中書侍郎同平章事とした。
  • しかし政事はすべて盧杞が決め、関播はただ居ずまいを正しているだけだった。
  • ある時、徳宗が宰相と政事を論じた際、関播は異論を述べようとして立ち上がったが、盧杞が目配せして止めた。
  • 退いてから盧杞は、口数の少ない実直さを見込んで引き上げたのに、なぜ発言しようとしたのかと責め、以後関播は何も言えなくなった。

吐蕃への使節と皇子の死

  • 戊辰、都官員外郎の樊澤を吐蕃へ派遣し、盟約締結の期日を告げた。
  • 丙子、肅王詳が薨去した。

十一月:朱滔・王武俊・田悦の称王

  • 十一月己卯朔、淮南節度使の陳少遊に同平章事を加えた。
  • 田悦は、朱滔に救われた恩を重く見て、王武俊と相談し、朱滔を盟主として臣従しようとした。
  • 朱滔は辞退し、愜山での勝利は王武俊の力が大きいと述べた。
  • そこで幽州判官の李子千や恒冀判官の鄭濡らが、いっそ李納も含め四国それぞれが王を称し、ただし年号は改めず、周代諸侯のように唐の正朔を奉じる形をとれば、名目も立ち将士への賞罰も行いやすいと提案した。
  • 朱滔らはこれに賛成し、この日、軍中に壇を築いて天に告げたうえで受位した。
  • 朱滔は冀王、田悦は魏王、王武俊は趙王を称し、李納にも斉王を称するよう求めた。
  • 朱滔は盟主として「孤」を、王武俊・田悦・李納は「寡人」を称した。
  • 居所は「殿」、命令は「令」と呼び、文武百官も天朝を模して別名を設けた。
  • 妻は妃、長子は世子とされ、各自の本拠州を府に改め、留守・元帥を置いて軍政を委ねた。
  • 王武俊は孟華を司礼尚書にしようとしたが、孟華は受けず、ついに憤死した。
  • 王武俊は兵馬使の衛常寧を内史監として軍政を任せたが、衛常寧が王武俊暗殺を謀ったため、腰斬に処した。
  • また王武俊は将の張終葵に趙州侵攻を命じたが、康日知に討たれて斬られた。

李希烈の野心

  • 李希烈は三万を率いて許州へ移り、親しい者を李納のもとへ派遣して、汴州を共同で襲う計画を相談した。
  • あわせて李勉へ、自分は淄青も兼領したので赴任のため汴州を通りたいと告げた。
  • 李勉は橋を整え、饗応の準備までしたが、厳重に備えも固めたため、李希烈はついに来なかった。
  • しかしひそかに朱滔らとも通じ、李納もたびたび遊兵を汴水の向こうへ出してこれを迎えようとした。
  • このため東南からの輸送船は汴渠を避け、蔡水から上る旧路に切り替えざるを得なかった。

十二月:李希烈、自ら天下都元帥を称す

  • 丁丑、李希烈は自ら「天下都元帥・太尉・建興王」と称した。
  • このころ朱滔・王武俊・田悦は官軍と長期対峙し、官軍は度支から兵粮補給を受け、各道の援兵もあったのに対し、朱滔と王武俊は孤軍で深入りし、田悦の供給に頼るのみで双方困窮していた。
  • 彼らは李希烈の軍勢が盛んなことを聞くと不満を募らせ、使者を許州へ送って帝位を勧めた。
  • 李希烈はひとまず皇帝ではなく、天下都元帥を称するにとどめた。

暦法の改定

  • 司天少監の徐承嗣が、新たな建中正元暦の作成を願い出て、これが認められた。
  • 従来の五紀暦は朔や星度の推算にずれが見え始めており、麟徳暦・大衍暦などを参照して改められた。