資治通鑑唐紀四十二 德宗 建中 元年 779年

秋八月:新政の開始と宰相人事

  • 八月甲辰、徳宗は即位直後の改革の一環として、左遷されていた楊炎を門下侍郎・同平章事に抜擢し、あわせて喬琳も御史大夫・同平章事とした。楊炎は元載に連なることで失脚していたが、崔祐甫の推挙もあり、徳宗がその名声を以前から知っていたため復帰した。
  • 喬琳は太原の人で、性格は大まかで戯れを好んだが、学識や政務の実力で特に優れていたわけではなかった。張渉の推薦によって登用されたため、世間は驚いた。

吐蕃への懐柔策

  • 代宗の時代、吐蕃はたびたび和議を求める使者を送っていたが、唐はその使者を引き留め、長く帰国できない者も多かった。また捕虜にした吐蕃人を江南・嶺南へ配流していた。
  • 徳宗は威圧ではなく恩徳で辺境を安定させようと考え、乙巳、韋倫を吐蕃への使者に任じた。各地の吐蕃捕虜五百人を集め、それぞれに衣服を与えて帰国させた。

沈既済の選挙制度論

  • 協律郎の沈既済は、官人登用の議論を上奏した。彼は、人材を見る基本は徳・才・功労の三つであるのに、当時の選曹は書類や試験文、履歴といった表面的な基準ばかりを重んじ、本来の人物評価から外れていると論じた。
  • そのため、五品以上や主要官庁の長官は宰相が推薦し、吏部・兵部がこれに参与すべきだとした。六品以下や地方の属官は州府の長官や節度使らに辟召を認め、不正任用だけ中央が糾察すればよい、と提案した。
  • さらに、節度使たちはすでに自分で僚属を選んで実績を上げているのだから、この方式を州県にも広げるべきだと説いた。沈既済は呉の人であった。

曹王皋の復帰

  • かつて衡州刺史だった曹王皋は善政で知られたが、湖南観察使の辛京杲に憎まれ、罪に陥れられて潮州へ左遷されていた。
  • 楊炎は道州司馬時代からその冤罪を知っており、宰相になると再び曹王皋を衡州刺史に起用した。
  • 曹王皋は取り調べを受けていた際、老いた太妃を驚かせまいとして、外では囚人服で弁明しつつ、宮中に入る時は笏と魚袋を身につけて王族としての礼を保った。潮州へ赴く際にも皇居に入って賀礼を終えてから向かったという。彼は曹王李明の玄孫である。

李懐光の粛清

  • 朔方・邠寧節度使の李懐光は郭子儀の後任となったが、邠州・邠寧の古参将である史抗・温儒雅・龐仙鶴・張献明・李光逸らは、功名で自分たちが上だと自負しており、懐光に服さなかった。
  • 防秋のため長武城に駐屯した際、監軍の翟文秀が李懐光に奏請してこれら宿将を宿衛に回させた。いったん陣を離れさせてから追捕し、黄萯での敗戦は彼らの責任だと決めつけて全員を殺した。

淮西改称・崔寧の入朝・南詔王の死

  • 九月甲戌、淮西は淮寧と改称された。
  • 西川節度使・同平章事の崔寧は蜀に十数年居座り、地勢の険しさと兵力を頼みに奢侈を極めていた。朝廷はこれを憂えていたが更迭できず、この時ようやく入朝させ、司空と山陵使を加えた。
  • 南詔王の閤羅鳳が死去し、子の鳳迦異がすでに死んでいたため、孫の異牟尋が立った。

冬十月:吐蕃・南詔の蜀侵攻

  • 十月丁酉朔、吐蕃と南詔は十万の兵を三道に分け、茂州・扶文方面・黎雅方面から蜀へ侵入した。
  • 吐蕃側は「蜀を東の拠点にする」と公言しており、崔寧が不在の蜀では留守の諸将が防ぎきれず、州県が次々と陥落した。刺史たちは城を捨てて逃げ、住民は山谷に隠れた。
  • 徳宗はこれを憂え、崔寧を急ぎ帰鎮させようとした。

楊炎の対蜀策

  • 楊炎は徳宗に対し、崔寧は蜀に長年割拠して朝廷の財政を損ない、諸将との関係も薄く、今さら帰しても功を立てるとは限らないと論じた。もし成功すれば逆に崔寧を排除できなくなる、と警告した。
  • そのうえで、崔寧は京師に留め、朱泚配下の范陽兵数千に禁軍を加えて討たせれば、蜀の内部に朝廷の親兵を置くことができると進言した。功を収めれば改めて別の主将を任命し、豊かな蜀を再び国家の直轄に戻せる、という見通しである。
  • 徳宗はこれを採用し、崔寧を留めた。

李晟・曲環らの出兵と蜀の回復

  • もと涇原の名将李晟は、かつて馬璘に功名を妬まれ、宿衛に回されていたが、このたび禁兵四千を率いて蜀救援を命じられた。邠隴・范陽の兵五千は曲環が率いた。
  • 東川の兵は江油から白垻へ進み、山南の兵と合流して吐蕃・南詔軍を破った。范陽兵は七盤まで追撃し、さらに勝利した。
  • その後、維州・茂州を奪回し、李晟は大度河の外でも敵を破った。吐蕃・南詔軍は飢えと寒さ、険路で多数が死に、死者は八、九万に達したという。
  • 吐蕃は侵攻を誘導した者を怒って殺し、異牟尋は不安から苴哶城を築いて移り住んだ。吐蕃は彼を日東王に封じた。

法の厳格運用と郭子儀への配慮

  • 徳宗は法の運用を厳しくし、百官は震え上がった。代宗の山陵が近づくと、京城での屠殺を禁じた。
  • 郭子儀の家人がひそかに羊を殺して都に持ち込んだことを、右金吾将軍の裴諝が奏上した。周囲は郭子儀の大功に遠慮すべきだと勧めたが、裴諝は、徳宗が即位したばかりで郭子儀の威望を群臣が恐れる状況だからこそ、小さな違反をあえて明るみに出し、天子の権威が上であることを示すのだと説明した。

代宗の葬儀と陰陽忌避の否定

  • 己酉、代宗を元陵に葬った。発引の際、霊車が皇帝の本命に当たる方位を避けて少しずれた道を進もうとした。これに対し徳宗は、先帝の霊柩を曲げて自分の吉凶を図る道理があるかと泣いて叱り、正しい道筋へ戻させた。
  • 肅宗・代宗は陰陽・鬼神を篤く信じ、大小の事を卜祝に問う傾向があり、王嶼・黎幹らがそれで用いられた。しかし徳宗は本来これを信用せず、山陵も礼制どおり七か月を目安に、事が整えば日取りを選ばず執行した。

十一月:韓滉登用と喬琳罷免

  • 十一月丁丑、晋州刺史の韓滉を蘇州刺史・浙江東西観察使とした。
  • 喬琳は老衰と難聴で、徳宗の下問に答えを誤ることがあり、政論も疎略だったため、壬午に工部尚書へ転じて宰相を罷免された。これにより、彼を薦めた張渉も徳宗の信任を失った。

崔寧の外転と蜀統制策

  • 崔寧を蜀から留めたことをきっかけに、楊炎と崔寧の関係は悪化した。楊炎は、北辺には大臣の鎮撫が必要だと理由づけ、癸巳に崔寧を単于鎮北大都護・朔方節度使として坊州に鎮させた。
  • 代わって荊南節度使の張延賞を西川節度使とした。
  • また、杜希全・張光晟・李建徽らを各地の留後に置いた。通常なら崔寧が蜀を去る以上、あらためて留後を置く必要はなかったが、楊炎は崔寧の権限を削ぎ、その行動を監視させる狙いで、彼ら三人に中央へ直接奏事させ、崔寧の過失を探らせた。

十二月:皇太子冊立

  • 十二月乙卯、宣王李誦を皇太子に立てた。

左蔵への財賦回収

  • 旧来、天下の金帛は左蔵・太府に蓄えられ、出納は比部が検査していた。ところが第五琦の時代、京師の権勢家や武将の要求が激しく、これに対処しきれず、大盈内庫へ移して宦官に管理させるようにして以来、天下の公財が天子の私蔵のようになっていた。
  • その結果、官吏はその増減を把握できず、宦官三百余人がそこから利益を吸い取り、根深い弊害となっていた。
  • 楊炎は、財政は国家の根本であり、本来は重臣が扱うべきものだと奏し、宮中の年間必要額だけを見積もって納め、それ以外はすべて有司に返すべきだと主張した。
  • 徳宗は即日詔を下し、財賦をすべて左蔵に戻し、旧制に従わせた。ただし毎年、精良な絹三千から五千匹だけは大盈に納めることとした。
  • この一言で人主の考えを転換させたとして、楊炎は高く評価された。

湖南の賊・王国良と関播

  • 丙寅の晦日、日食があった。
  • 湖南では賊帥の王国良が山中に拠っており、徳宗は都官員外郎の関播を派遣して招撫させた。
  • 出発に際して徳宗が政治の要諦を問うと、関播は、有道の賢人を得て共に政治を行うことが第一だと答えた。徳宗が、すでに詔で賢人を求め、使者にも広く探索させていると言うと、関播は、それで集まるのは文章や出世に長けた者ばかりで、本当の賢人は公募や推薦に応じて出てくるものではないと述べた。徳宗はこれを喜んだ。

崔祐甫の病

  • 崔祐甫が病気になると、徳宗は輿に乗せて中書省へ入らせ、あるいは私宅で休んでいる時でも、大事は宦官に諮問させて裁決を仰いだ。