資治通鑑唐紀 代宗睿文孝武皇帝 大暦 十四年 779年

正月〜四月・田承嗣・李忠臣の最期と変動

  • 正月壬戌、李泌は澧州刺史に任じられた。
  • 二月癸未、魏博節度使の田承嗣が死去した。十一人の子がいたが、甥で中軍兵馬使の田悦に才があるとして軍務を託し、諸子はこれを補佐する体制とされた。翌日、田悦が魏博留後となった。
  • 淮西節度使の李忠臣は貪欲で好色、将吏の妻女をも奪うほどで、軍政は妹婿の張恵光に一任していた。張恵光父子もまた横暴で、軍州の怨みを買っていた。
  • 左廂都虞候の李希烈は一族ながら衆望を集めており、三月丁未、大将丁暠らとともに張恵光父子を殺して李忠臣を追放した。李忠臣は単騎で京師へ逃れた。
  • 皇帝は李忠臣に従来の功があるとして、検校司空・同平章事のまま京師に留め、李希烈を蔡州刺史・淮西留後に任じた。
  • 李勉は永平節度使のまま汴州刺史を兼ね、汴・潁二州を加えて治所を汴州へ移した。
  • 辛酉、容管経略使の王翃が河中少尹・知府事となった。河東副元帥留後の部将・凌正が横暴だったが、王翃はこれを抑え、凌正は夜に乱を起こそうとした。王翃は漏刻をずらして時間を狂わせ、賊を驚かせて潰走させ、凌正を捕えて誅した。
  • 張宝臣は前年に張姓へ復していたが、なお不安を感じて再び賜姓を願い、四月癸未、再度李姓を与えられた。

代宗の病・崩御

  • 五月癸卯、皇帝は初めて病を得た。
  • 辛酉、皇太子に監国を命じた。
  • その夜、代宗は紫宸殿の内殿で崩御した。遺詔で郭子儀を冢宰格で総覧役とした。

徳宗即位と常衮失脚

  • 癸亥、徳宗が即位した。諒闇の中にあっても礼法をよく守り、弟の韓王迥を招いて食事をした際も、馬歯羹だけで塩や酪を添えなかった。
  • 常衮は性格が剛急で政治も苛細だったため、人望に欠けていた。大喪中に泣き伏して歩けなくなり、従者に支えられていたところを、崔祐甫が「君を哭する場で人に扶けられる礼があるか」とあてこすったため、常衮はますます崔祐甫を憎んだ。
  • 群臣の喪服日数をめぐって、常衮は君に対して三年服が本義で、唐近例でも二十七日とすべきだと主張した。一方、崔祐甫は遺詔が「天下吏人は三日で釈服せよ」とした以上、朝臣も庶人も同様に三日でよいと主張し、激しく対立した。
  • 常衮は崔祐甫を「私情で礼を変えた」として潮州刺史への左遷を請い、閏月壬申、徳宗は重すぎるとして河南少尹へ貶めた。
  • ところが常衮は、郭子儀と朱泚の名前を無断で使って奏書に連署し、崔祐甫を貶めていた。二人がのちに「彼は無罪だ」と上表したため、徳宗は常衮の欺罔を知って驚いた。
  • 甲辰、月華門で百官が喪礼の列に立つなか、常衮は潮州刺史へ左遷され、崔祐甫が門下侍郎・同平章事に任じられた。崔祐甫は昭応まで行っていたが呼び戻された。
  • ただし群臣の喪服日数そのものは、最終的に常衮案が用いられた。

崔祐甫の用人と朝政刷新

  • 徳宗は諒闇中であったため、庶政はほぼ崔祐甫に委ねられた。彼の進言はほとんど採用された。
  • 至徳以後、諸将が功を争い、元載・王縉の時代には賄賂で官を求める者が門に連なった。常衮はその弊を断とうとして一律に取り合わなかったが、賢愚の区別まで止めてしまった。
  • 崔祐甫はこれに代わって人望回復を目指し、絶えず推薦・抜擢を行い、二百日足らずで八百人を任官した。適否については後世に議論があるが、停滞打破を優先したのである。
  • 皇帝が「縁故者の起用が多いと非難されている」と問うと、崔祐甫は「知らない者の才行をどうして見極められましょう」と答え、皇帝ももっともだとした。
  • 不急の貢献は停止され、梨園使と楽工三百余人も罷免され、残りは太常に編入された。

郭子儀の権限整理

  • 郭子儀は司徒・中書令として河中尹、霊州大都督、単于鎮北大都護、関内・河東副元帥、朔方節度、塩池・水運・営田など数多くの職を兼ねていた。功名も権任も極めて重く、代宗もその権限を削りたくても長く決断できなかった。
  • 甲申、徳宗は郭子儀を尚父と尊び、太尉兼中書令を加え、実封・食糧などを厚く増したうえで、副元帥以下の多くの使職を解いた。
  • その職掌は分割され、李懷光が河中尹・邠寧慶晋絳慈隰節度使、常謙光が霊州大都督・西受降城などの節度使、渾瑊が単于大都護・東中二受降城・振武鎮北綏銀麟勝などの節度使となった。

新帝の倹約と風紀是正

  • 丙戌、沢州刺史の李鷃が慶雲図を献じたが、徳宗は「時和年豊こそ吉祥であり、賢を進め忠を顕すことこそ良き瑞である。雲や芝や珍禽異獣が人に何の益をなすか」と詔し、今後この種の献上を禁じた。
  • 内荘宅使が諸州に官租一万四千余斛あると報告すると、徳宗はその地の軍糧に充てるよう命じた。
  • 先年から献上されていた馴象四十二頭は、飼育費がかかり本性にも背くとして荆山の南に放した。豹貀・闘鶏・猟犬なども同様に放逐し、宮女数百人も宮外に出した。朝野は大いに喜んだ。淄青の軍士ですら、「明主が出た、我らはなお反くのか」と語ったという。
  • 戊子、李希烈を正式に淮西節度使とした。
  • 辛卯、馬燧を河東節度使とした。河東は前年の大敗で騎兵が弱っていたが、馬燧は牧馬の厮役まで集めて鍛え、数か月で精騎に育てた。甲の長短も体格に応じて作り分け、戦車も整備し、一年で三万の精兵を得た。張建封を判官に、李自良を代州刺史に用いた。

宦官・財政・制度

  • 兵部侍郎の黎幹と、宦官で特進の劉忠翼は、ともに狡険で貪縦な人物として人々に憎まれていた。二人は代宗に独孤貴妃を皇后に、韓王迥を太子に立てるよう勧めたとも噂された。徳宗即位後、黎幹が密かに輿に乗って劉忠翼のもとへ赴いたことが露見し、丙申、二人は除名のうえ流罪とされ、途中の藍田で死を賜った。
  • 韓滉は太常卿へ移され、財政権は劉晏に一元化された。従来、劉晏は江南・山南・江淮・嶺南を、韓滉は関内・河東・剣南を分担していたが、徳宗は韓滉の苛斂を嫌って利権を奪い、のち晋州刺史へ出した。
  • 劉晏は塩専売をいっそう精密に運営し、初期六十万緡だった歳入を末年には十倍以上に増やしたが、人々に耐えがたい苦痛を感じさせない運用で知られた。大暦末には年間財政収入一千二百万緡に達し、その大半を塩利が占めた。

六月・徳宗初政

  • 六月己亥朔、大赦が行われた。
  • 崔寧と李勉に同平章事を加えた。
  • 冤訴や滞案については、州府が処理しない場合に朝堂の三司へ訴え出ることを許した。なお解決しないものは登聞鼓を打って訴えることも認めたが、訴えが非常に多くなった。右金吾将軍の裴諝が「細事まで天子が親裁しては、官吏が何のためにいるのか」と諫めたため、結局多くは有司に戻された。
  • 山陵の制度は手厚くせよとの詔に対し、刑部員外郎の令狐峘が「遺詔は倹約を旨としているのに、優厚はその意に反する」と諫めた。徳宗はこれを「自分の弱点を突き、なおかつ美徳を成してくれる」と称え、従う姿勢を示した。
  • 皇子の誦・謨・諶・諒・詳を王に立て、また皇弟の迺・傀も王に封じた。
  • 六品以上の清望官から毎日二人を更代で待制させ、顧問に備える先天年間以来の制度を復活した。
  • 庚戌、朱泚を鳳翔尹とした。

中使の収賄一掃

  • 代宗は宦官の使者が四方で賄賂を取るのを黙認し、返礼が少ないと不満まで示していた。そのため中使は州県に公然と贈賄を要求し、宰相も閣中に銭を置いて、賜物や宣旨のたびに手ぶらで帰さないのが慣例になっていた。
  • 徳宗はこの弊害を知っており、中使の邵光超を李希烈のもとへ遣わしたところ、僕馬・縑七百匹・黄茗二百斤を贈られたと知ると激怒し、邵光超を杖六十のうえ流した。これにより帰途の中使たちは、得た財物を山谷に捨てるほど恐れた。

近侍・藩鎮・日食

  • 甲子、神策都知兵馬使の王駕鶴を東都園苑使へ移し、白琇珪に代えた。白琇珪は名を志貞と改めた。王駕鶴は禁兵を十余年握っていたため、皇帝は急な交代で変事が起きぬよう、崔祐甫に長く相手をさせて時間を稼がせ、その間に白志貞が任に就いた。
  • 李正已は徳宗の威名を恐れ、三十万緡を献じた。皇帝は受ければ見くびられ、拒めば名目が立たないと考えたが、崔祐甫が「使者を出して将士を慰労し、その銭を彼らに賜えばよい。朝廷が財貨を重んじないことも諸道に伝わる」と勧めたため、その通りにした。李正已は深く恥じて服し、天下も太平の兆しとして歓迎した。
  • 七月戊辰朔、日食が起こった。

諡号・客省・奢侈の是正

  • 礼儀使の顔真卿は、祖宗の諡号が長大化しすぎて古制を超えているとして、中宗以前は初諡に戻し、睿宗・玄宗・粛宗も簡明な諡に改めるべきだと建議した。多くの儒者は賛同したが、袁傪が「陵廟の玉冊・木主はすでに刻まれており、軽々に改められない」と反対し、立ち消えとなった。
  • 代宗期には事務の停滞のため、四夷の使節や地方からの奏計、上書しても任用されない者たちが右銀台門の客省に長年留め置かれ、数百人とその部曲・家畜まで含めると莫大な費用がかかっていた。徳宗はこれを整理し、拘留者は出し、済んだ者は返し、任用すべき者は任じたので、毎年一万九千二百斛の穀を節約できた。
  • 壬申、元載・馬璘・劉忠翼の邸宅を取り壊した。安史の乱後、法度が崩れて大臣や将帥が豪邸造営を競い、当時「木妖」とまで呼ばれていたためである。馬氏の園地は没収され、奉成園とされた。
  • 癸丑、宮中の服用のための錦千匹や服玩数千件を削減した。
  • 庚辰、京師の回紇や諸胡に対し、自国の服装のままでいるよう命じ、中華風の衣服を禁じた。以前から回紇の滞京者や商胡が多数おり、官給を受けつつ財産を蓄え、都市の有利な商業を独占し、華服をまとって妻妾を誘惑する者までいたためである。
  • 辛卯、天下の酒専売を廃止して収利をやめた。

張渉の登用

  • 徳宗が東宮にいた頃、国子博士の張渉は侍読を務めていた。即位の夜に禁中へ召され、大小の政務について意見を求められた。
  • 翌日、張渉は翰林に置かれて学士となり、親任は比類なかった。
  • 乙未、張渉は右散騎常侍を兼ねたまま、引き続き学士として仕えた。