資治通鑑唐紀 代宗睿文孝武皇帝 大暦 十三年 778年

正月・民利を優先

  • 正月辛酉、白渠の支流に設けられた水碾・水磑を壊して灌漑に回すよう命じた。昇平公主は自分の持つ二つの碾磑だけは残してほしいと願ったが、皇帝が「民の利を先にすべきだ。おまえがその先頭に立て」と諭すと、公主はその日のうちに破却した。

回紇の太原侵入

  • 戊辰、回紇が太原を侵した。河東押牙の李自良は、遠来の精鋭と正面決戦するより、退路に二つの塁を築いて帰路を断ち、疲れたところを前後から挟撃すべきだと進言した。
  • しかし留後の鮑防はこれを採らず、焦伯瑜らに迎撃させたため、癸酉に陽曲で大敗し、死者は一万余に及んだ。回紇は兵を放って大いに掠奪した。
  • 二月、代州都督の張光晟が羊武谷で回紇を破ると、回紇はようやく引き揚げた。皇帝はこの侵入の理由を追及せず、従来どおりに待遇した。

吐蕃の侵攻

  • 己亥、吐蕃の将・馬重英が四万を率いて霊州に侵入し、填漢渠・御史渠・尚書渠の取水口を奪って屯田を疲弊させた。
  • 三月甲戌、回紇の使者が帰途に河中を通ると、朔方軍士がその輜重を掠めたのをきっかけに、市場一帯で大掠奪が起こった。
  • 四月甲辰、吐蕃が再び霊州に侵入したが、朔方留後の常謙光がこれを破った。

猫鼠同乳と崔祐甫

  • 六月戊戌、隴右節度使の朱泚が「猫と鼠がともに乳を飲み、互いに害しない」という怪異を瑞祥として献上した。
  • 常衮は百官を率いて祝賀したが、中書舎人の崔祐甫だけは祝わず、「猫が鼠を捕らえないのは本性に反する異変であり、賀すべきでなく、法吏が奸を見抜かず、辺吏が賊を防げないことを戒めるべきだ」と述べた。皇帝はこれを高く評価した。
  • 七月、崔祐甫は吏部選事を担当するようになったが、公務をめぐって常衮としばしば争い、常衮は彼を憎むようになった。

回紇・吐蕃への備え

  • 戊午、郭子儀は「回紇がなお塞上にあって辺民が恐れている」として、邠州刺史の渾瑊に兵を率いさせて振武軍へ駐屯させるよう請い、許された。これにより回紇はようやく去った。
  • 辛未、吐蕃の馬重英が二万で塩州・慶州を侵し、郭子儀は李懐光に撃退させた。

藩鎮・葬礼・西辺

  • 八月乙亥、成徳節度使の李宝臣は、以前復した張姓をやめて再び李姓を賜るよう願い、これが許された。
  • 吐蕃二万が銀州・麟州に侵入して党項の家畜を奪ったが、李懐光がこれも撃破した。
  • 皇帝は独孤貴妃を深く追慕し、長年内殿に殯して葬るに忍びなかったが、丁酉、ようやく荘陵に葬った。
  • 九月庚午、吐蕃一万騎が青石嶺を越えて涇州に迫り、郭子儀・朱泚・段秀実にこれを防がせた。

冬・劉晏と李泌

  • 十二月丙戌、劉晏が左僕射となり、三銓と転運・塩鉄などの使職を従前どおり兼ねた。
  • 郭子儀が入朝すると、留守を主宰した杜黄裳は、李懐光が偽詔を作って温儒雅ら大将を誅そうとしたのを見抜き、問い詰めて服罪させた。さらに扱いにくい将たちを郭子儀の名で外へ出して、軍府の安定を保った。
  • 杜亞が江西観察使に転じるにあたり、皇帝は江西判官の李泌を召し出した。皇帝は元載をようやく誅したことや、以前路嗣恭が元載の意を受けて李泌を虔州別駕にしたこと、路嗣恭の献じた琉璃盤よりも、元載家から出た路嗣恭贈与の盤の方が大きかったことなどを語った。
  • 李泌は、路嗣恭は小心で権勢に従いやすいが事務に勤勉で、陛下が本当に理解して用いれば尽力する人物だと弁護し、自分の左遷も彼の罪ではないと述べた。皇帝は怒りを解き、路嗣恭を兵部尚書に任じた。

郭子儀の失策と李泌の外任

  • 郭子儀は、朔方節度副使の張曇が剛直で武人として自分を軽んじると恨み、孔目官の呉曜がこれを利用して仲を裂いたため、張曇を軍衆扇動の罪で誅した。掌書記の高郢は強く諫めたが聞き入れられず、逆に左遷された。
  • その後、僚佐が病気を理由に辞職を願う者ばかりとなると、郭子儀は過ちを悟って皆を朝廷に推薦し、呉曜を追放した。
  • 常衮は皇帝に対し、「李泌を用いるなら、まず刺史にして民間の利病を知る経験を積ませ、その報告を見てから重用すべきだ」と進言した。