資治通鑑唐紀 代宗睿文孝武皇帝 大暦八年 八年 773年

春 昭義・永平の継承

  • 正月、昭義節度使・相州刺史薛嵩が死んだ。子の薛平はまだ十二歳で、将士は擁立しようとしたが、薛平は表向き応じつつ、夜に父の喪を奉じて郷里へ逃れ、叔父の薛㟧に譲った。壬午、朝廷は薛㟧を留後とした。
  • 二月壬申、永平節度使令狐彰が死去した。彼は貢賦を欠かさず、防秋兵三千も自前の糧で送り、沿道からの供給も受けぬほど規律正しかった。病篤くして掌書記斉映と相談し、後継を請願し、子らを東都私第へ帰した。将士は子の令狐建を立てようとしたが、本人が固辞して西帰した。
  • 三月丙子、李勉が永平節度使となった。

春夏 元載・王縉派への粛清

  • 吏部侍郎徐浩と薛邕は元載・王縉の党だった。徐浩の妾の弟侯莫陳怤は美原尉で、徐浩は京兆尹杜済に便宜供給の実績を偽って奏上させ、薛邕には長安尉へ擬させた。
  • 御史大夫李栖筠がこれを弾劾し、万年の于劭らが再調査したが、于劭は薛邕の罪は赦前であるとして軽く扱おうとした。皇帝は怒り、五月乙酉、徐浩を明州別駕、薛邕を歙州刺史に左遷し、丙戌には杜済を杭州刺史、于劭を桂州長史へ貶した。これにより朝廷はやや引き締まった。

秋 回紇馬市の負担

  • 回紇は乾元以来、毎年和市を求め、一馬につき四十匹の絹を要求し、数万匹に及ぶこともあった。馬は多くが駑馬で役に立たず、朝廷には重荷だった。しかも使者は鴻臚寺に絶えず滞留していた。皇帝は回紇を喜ばせようとして、ついにすべて買い取るよう命じた。
  • 七月辛丑、帰国する回紇に与えた賜物と馬価は、あわせて車千余両にのぼった。
  • 八月己未、吐蕃六万騎が霊武へ来て秋の作物を踏み荒らして去った。
  • 辛未、朱泚は弟朱滔に精騎五千を率いさせ、涇州防秋へ派遣した。安禄山の乱以来、幽州兵がこうして朝廷に実用されるのは珍しく、皇帝は大いに喜んで厚く慰労した。
  • 壬申、回紇はまた赤心を使者として一万匹の馬を送り、和市を求めた。

秋冬 嶺南反乱・郇模上書・田承嗣

  • 九月壬午、循州刺史哥舒晃が嶺南節度使呂崇賁を殺し、嶺南に拠って反した。
  • 癸未、晋州の郇模という男が東市で麻髪・竹筐・葦席という異様な姿で哭し、「三十字を献じたい。一字ごとに一事を言う。取るに足らぬなら、この席で屍を巻いて筐に入れ野に棄ててほしい」と訴えた。召見されると、彼は諸州団練使や諸道監軍使の廃止などを求めた。
  • 魏博節度使田承嗣は安禄山父子・史思明父子のために祠を建て「四聖」と称していた。朝廷は内侍孫知古にそれを壊すようほのめかしたが、十月甲辰、かえって田承嗣に同平章事を加えて慰撫した。

吐蕃大挙と宜禄・塩倉の敗戦

  • このころ、霊州方面で吐蕃一万余を破った報もあったが、さらに十万が涇・邠へ押し寄せた。
  • 郭子儀は朔方兵馬使渾瑊に歩騎五千を授けて迎撃させた。庚申、宜禄で戦うと、渾瑊は高地を占めて拒馬を設けたが、史抗・温儒雅ら老将がこれを軽んじ、酒に酔って命令を聞かず、騎兵で突撃して敗れた。官軍は大敗し、死者は多数、住民千余人も連れ去られた。
  • 甲子、馬璘も塩倉で吐蕃に敗れ、夕暮れまで帰還できなかった。涇原の将たちは敗兵と城門に殺到したが、段秀実は大将の生死が分からぬうちに城を閉ざして自衛するのは軍法に反すると叱責し、未戦兵を率いて東原に布陣して応戦の姿勢を示した。そのため吐蕃は退き、夜になって馬璘も戻れた。
  • 郭子儀は諸将に雪辱策を問うたが、渾瑊だけが自らの責任処断か再任のどちらかを願い出た。郭子儀はこれを赦し、再び将とした。
  • また、塩州刺史李国臣は、吐蕃が勝勢に乗って都畿へ向かうと見て、その背後を脅かすため秦原へ進み、西方で太鼓を鳴らした。吐蕃はこれを聞いて引き返し、渾瑊が隘路で邀撃して奪われた馬を奪還し、馬璘も潘原で敵の輜重を襲って数千を殺し、敵はついに退いた。

年末 元載の西辺構想と回紇馬購入

  • 乙丑、江西観察使路嗣恭が哥舒晃討伐を命じられた。
  • 元載はかつて西州刺史を務めて河西・隴右の地理に通じていたため、吐蕃対策として、原州の故塁を二十日ほどで修復し、京西の軍を移して守らせ、郭子儀を涇州へ移し、石門・木峡にも兵を分ければ、吐蕃の腹心に迫って安西回復にもつながると説き、地図まで献じた。だが田神功は「書生の空論で国を動かすべきでない」と反対し、まもなく元載が失脚したため、この計画は実現しなかった。
  • 回紇使者赤心の大量の馬について、有司は千匹だけ買うよう求めたが、郭子儀はそれでは相手の心を逆なでするとし、自身の一年俸で国のために買うと申し出た。皇帝はそれを許さず、十一月戊子、六千匹を買うよう命じた。