資治通鑑唐紀三十四 肅宗 至德 一年 756年
五月 南陽・河南方面の人事と戦況
- 魯炅は軍勢が潰走して南陽にこもった。賊軍はこれを包囲したが、朝廷では張垍の推挙により虢王巨が起用され、陳留・譙郡太守、河南節度使として南陽救援に向かった。あわせて何履光を嶺南節度使、趙国珍を黔中節度使、魯炅を南陽節度使とした。
- 巨が藍田から進軍すると、賊は南陽の囲みを解いて退いた。
雍丘の張巡
- 令狐潮は再び雍丘を攻めた。張巡とは旧知の間柄で、城下で言葉を交わし、潮は降伏を勧めたが、張巡は忠義を説いてこれを拒んだ。潮は恥じて退いた。
河北戦線での郭子儀・李光弼の勝利
- 郭子儀・李光弼が常山へ戻ると、史思明は散兵を集めてその後を追った。子儀は精鋭騎兵を選んで連日挑発し、行唐まで引きつけて敵を疲弊させたうえで、沙河で打ち破った。
- 安禄山は蔡希德を洛陽に呼び戻したのち、さらに二万の歩騎と范陽などからの兵一万余を史思明に合流させ、総勢五万余とした。うち有力な騎兵には同羅・曳落河が多く含まれていた。
- 郭子儀は恒陽で堅固な陣を築き、敵が来れば守り、退けば追い、昼は軍容を示し夜は敵営を襲って休ませなかった。数日ののち、李光弼と相談して決戦に移り、嘉山で大勝した。
- この戦いで賊は四万の首級を失い、千余が捕虜となった。史思明は落馬し、徒歩で辛うじて逃げ、博陵へ走った。光弼はそのまま包囲に移り、この勝利で河北十余郡が賊将を殺して唐に帰順した。
范陽との連絡遮断と安禄山の動揺
- 河北での勝利により、賊の根拠地である范陽との交通は再び断たれた。往来する者は軽騎で潜り抜けるしかなく、多くが官軍に捕らえられた。范陽に家族を持つ賊軍兵士の動揺も広がった。
- 安禄山は高尚・厳荘を激しく責め、反乱計画の「万全」はどこにあるのかと怒った。二人は恐れて出仕できなかったが、田乾真が取りなして安禄山をなだめたため、再び旧どおり遇された。
- ただし安禄山は洛陽を捨てて范陽へ帰ることまで考えるようになり、賊側にも不安が広がっていた。
潼関をめぐる朝廷内の不信
- 当時、天下の人心は楊国忠に対する怨みが深く、安禄山も「楊国忠誅伐」を名目に兵を挙げていた。王思礼は哥舒翰に対し、楊国忠の罪を弾劾する上表を勧め、さらに三十騎で潼関に迎えて殺す策まで口にしたが、哥舒翰はいずれも拒んだ。
- 一方で楊国忠は、朝廷の重兵を握る哥舒翰が自分を討つのではないかと恐れ、禁苑の監牧兵や新募兵を別に養成・配備して、名目上は対賊、実際には翰への備えとした。哥舒翰もこれを警戒し、灞上の軍を潼関の指揮下に入れるよう求め、杜乾運を関に呼び寄せて斬った。
六月 潼関出兵の強要
- 崔乾祐が陝にいて兵数も少なく、しかも疲弊しているという報告が入り、玄宗は哥舒翰に陝・洛の奪回を命じた。
- 哥舒翰は、安禄山ほどの将が無防備であるはずがなく、これは弱兵を餌にした誘いだと論じた。賊は遠征軍であり速戦を望むが、官軍は険を頼んで持久すべきであり、賊はいずれ内部崩壊するから、急いで戦う必要はないと主張した。
- 郭子儀・李光弼もまた、北上して范陽を衝き、賊の巣穴を覆すべきで、潼関の大軍は固守して敵を疲れさせるべきだと進言した。
- しかし楊国忠は、翰が出兵を渋るのは自分を討つ企てではないかと疑い、玄宗にも「機会を失う」と説いた。玄宗はこれを信じ、宦官たちに次々と出兵を促させた。哥舒翰はやむなく胸を打って慟哭しつつ、ついに関を出た。
六月 霊宝西原の大敗
- 哥舒翰は霊宝西原で崔乾祐軍と遭遇した。敵は南に山、北に黄河を背にして狭い道を押さえていた。
- 翰は川中の船上から軍勢を眺め、敵が少ないのを見て前進を命じた。王思礼らが先鋒、龐忠らが後続となり、翰自身は河北の高地から鼓を打って督戦した。
- 賊の出てきた兵は少数で、疎密を変えながら散開していたため、官軍はこれを侮った。だが実際には精兵を後ろに伏せており、交戦が始まると退くふりをして油断させたところへ、山上から木石を落として大損害を与えた。狭路のため唐軍の槍矛は役に立たなかった。
- さらに東風が強まると、乾祐は草車に火を放って前面を焼き払い、煙の中で官軍は味方同士で射かけ合った。日暮れに矢が尽きてようやく敵がいないことを知ったころ、同羅騎兵が背後に回り込んで攻撃し、官軍は総崩れになった。
- 兵は谷に逃げるか河へ押し落とされ、多数が溺死した。哥舒翰はわずかな騎兵とともに首陽山西から河を渡って関内へ逃れたが、潼関外に掘ってあった三重の塹壕はたちまち死体と兵で埋まり、辛うじて関内に入れた兵は八千余にすぎなかった。
六月 潼関陥落と哥舒翰の降伏
- 翌日、崔乾祐は潼関を攻め落とした。哥舒翰は潼関西の駅で敗残兵を集め、なお守ろうとしたが、火拔帰仁ら蕃将に囲まれ、「二十万を失ってどの面で天子に会うのか」と迫られ、意に反して東へ連行された。
- 途中で賊将田乾真と合流し、哥舒翰は洛陽へ送られた。安禄山は彼に屈辱を与えたが、翰は李光弼・李祇・魯炅らへ降書を書けば呼応させられると述べたため、司空・同平章事に任ぜられた。
- しかし諸将はみな返書でこれを責め、安禄山も効果がないと知って、翰らを東都の苑中に幽閉した。火拔帰仁は主を裏切ったことを責められ、処刑された。
六月 長安動揺と玄宗の蜀行決定
- 潼関敗報を受けると、河東・華陰・馮翊・上洛などの防禦使は郡を捨てて逃げ、各地の守兵も散った。玄宗は当初、急報を受けてもすぐには面会せず、夕刻まで平安火が来ないのを見てようやく危機を悟った。
- 楊国忠は以前から蜀への退避に備え、剣南副使崔圓に蓄えを整えさせていた。このとき彼が真っ先に蜀行を唱え、玄宗も同意した。
- 翌日、国忠は百官を朝堂に集めて対策を問うたが、誰も答えられなかった。国忠は、安禄山の反状を十年来告げる者がいたのに帝が信じなかったのであって、宰相の罪ではないと弁明した。
- 玄宗は勤政楼に出て親征の制を下したが、誰も本気とは思わなかった。魏方進を御史大夫兼置頓使、崔光遠を京兆尹兼西京留守とし、辺令誠に宮中の鍵を掌らせた。また穎王璬が剣南へ赴く名目で、道中の備蓄を命じた。
- その夜、玄宗は興慶宮から大明宮へ移り、陳玄礼に六軍の整備と厚い恩賞、御馬の選抜を命じた。外部には事情を伏せた。
六月乙未 玄宗、長安を脱出
- 夜明け前、玄宗は楊貴妃姉妹、皇子・妃主・皇孫、楊国忠、韋見素、魏方進、陳玄礼、高力士ら近習だけを連れて延秋門から出発した。外にいた妃主や皇孫たちは置き去りにされた。
- 左蔵庫にさしかかると、楊国忠は賊に与えるくらいなら焼くべきだと進言したが、玄宗は「賊が得られなければ後で百姓から取り立てるだけだ」として許さなかった。
- なおその日も朝参に来た官人はおり、宮門には漏刻の音が響き、衛士の儀仗も整っていた。だが門が開くと宮人が騒然と逃げ出し、都中は大混乱となった。民衆は宮中や王公の邸に入り込み、財物を奪い、左蔵や大盈庫に火が放たれた。崔光遠と辺令誠が消火と秩序回復に努めた。
- 便橋に至ると、楊国忠は橋を焼いて追手を防ごうとしたが、玄宗は民の避難路を絶つことを許さず、高力士に消火させた。
望賢宮から金城へ
- 王洛卿を先行させて郡県に食事の用意を命じたが、咸陽の望賢宮では県令も役人も逃げており、正午になっても食事がなかった。楊国忠が市中で胡餅を買って献じ、ついで民衆が麦や豆の混じる粗飯を競って差し出した。皇孫たちは手づかみで争って食べたが、なお足りなかった。
- 玄宗は代金を払い、民をねぎらった。民も帝も涙を流し、老父郭従謹は、かつて安禄山の謀反を告げる者を殺し、忠言を遠ざけたことが今日の禍いを招いたと直言した。玄宗は自らの不明を悔いた。
- その夜半近く金城県に至った。県令も逃げ、住民も去っていたが、器物や食物は残っており、兵士たちはそれで飢えをしのいだ。従者の離散も進み、袁思芸まで逃亡し、驛中では貴賤の区別もつかぬありさまであった。
馬嵬駅の変
- 潼関から王思礼が来て、哥舒翰の被擒が判明した。王思礼には河西・隴右節度使を命じ、散兵の収拾を命じた。
- 馬嵬駅に至ると、将士は飢え疲れ、怒りは楊国忠に向かった。陳玄礼は東宮宦官の李輔国を通じて太子に誅殺を伝えたが、太子は決断できなかった。
- そこへ吐蕃使が食料不足を訴えて楊国忠の馬を遮ったため、軍士たちは「国忠は胡虜と通じて謀反した」と叫び、矢を射かけた。国忠は逃げたが追って斬られ、死体は槍に掲げられた。子の楊暄、韓国夫人・秦国夫人も殺され、魏方進が咎めると彼もまた殺された。韋見素も殴打されたが、辛うじて助かった。
- 玄宗が外へ出て軍士をなだめると、陳玄礼は「楊貴妃が陛下の側にあるかぎり、将士は安心できない」と述べた。玄宗はやむなく高力士に命じ、仏堂で楊貴妃を絞殺させ、その遺体を庭に出して将士に示した。将士はようやく甲を解いて罪を謝し、隊伍も整った。
- 韋諤はこの急変の中で決断を促し、その功により御史中丞兼置頓使に抜擢された。陳倉へ逃れた国忠の妻裴柔、その幼子晞、虢国夫人や裴徽も、薛景仙によって追捕され誅された。
太子の分離と北行
- 馬嵬を発つにあたり、朝臣で玄宗のそばにいたのは韋見素一人だけだった。将士は「蜀には行けぬ、楊国忠の将吏がいる」と唱え、河隴・霊武・太原・あるいは長安へ戻るべきだと議論した。玄宗は蜀行の意を持ちながらも、反発を恐れて明言できなかった。
- 父老たちは道を塞いで帝にとどまるよう願い、さらに太子には自分たちを率いて東に戻り長安を奪回してほしいと請うた。太子は当初これを断ったが、建寧王倓・広平王俶・李輔国らは、蜀へ入れば棧道を焼かれて中原を失うと説き、朔方・河北の兵を用いて回復を図るべきだと強く勧めた。
- 人々が太子の馬を取り囲んで離さなかったため、玄宗はついに天意としてこれを受け入れ、後軍二千と飛龍廐の馬を太子に分け与えた。将士にも太子を宗廟の主として補佐せよと命じた。さらに内人を太子に与え、伝位の意向まで伝えたが、太子は受けなかった。
- 玄宗は岐山を経て扶風へ向かい、流言に揺れる将士を成都貢の綵でなだめ、自らの失政を認めて帰郷を許すと涙ながらに告げたため、ようやく軍心は落ち着いた。
- 一方太子は、建寧王倓の建言により朔方へ向かうことを決めた。途中、潼関敗兵と誤って戦い死傷を出しながらも、渭水を渡って奉天から北上し、新平・安定の太守が逃亡したのでこれを斬って軍紀を正した。
- 彭原・平凉では李遵らが迎え、糗糧・衣服・兵を献じた。監牧馬も数万得られ、軍勢はしだいに立ち直った。
玄宗の蜀入りと諸道の再編
- 玄宗は散関を越え、諸将を六軍に分けて統率し、穎王璬を先に剣南へ向かわせた。寿王瑁らも六軍を分けて率いた。
- 河池に至ると、剣南の崔圓が迎え、蜀の豊かさと兵備の充実を報告した。玄宗は大いに喜び、即日、崔圓を同平章事に任じた。また隴西公瑀を山南西道の防禦長官とした。
- 河西では諸胡が潼関で都護が没したと誤って聞き、部落どうしで争い始めた。そこで玄宗は周泌を河西節度使、彭元耀を隴右節度使とし、思結進明らの都護とともに各鎮へ帰して部落を収めさせた。王思礼は行在都知兵馬使とされた。
長安陥落
- 扶風・陳倉では康景龍や薛景仙が賊の任命した官を討ち、局地的に唐側の拠点を守った。
- しかし安禄山は玄宗の西走を予想しておらず、崔乾祐を潼関に十日ほど留めたのち、孫孝哲を長安へ入れた。張通儒を西京留守、崔光遠を京兆尹、安忠順を苑中駐屯に任じ、関中支配を固めようとした。
- 孫孝哲は安禄山の寵臣で、厳荘と権力を争うほどであった。残忍で知られ、諸将も彼を恐れた。彼らは百官・宦官・宮女を捜し出しては数百人単位で洛陽へ送った。車駕に随従しなかった王侯将相の家族は幼児に至るまで殺された。
- 陳希烈や張均・張垍らは賊に降り、禄山は陳希烈・張垍を宰相にした。賊勢は西は汧隴を脅かし、南は江漢に迫り、北は河東の半ばを切り取った。
- ただし賊将は粗暴で遠大な計略に乏しく、長安を取ると酒色と財宝に溺れ、西へさらに進む意志を失った。このため玄宗の蜀行も、太子の北行も追撃を受けずに済んだ。
河北・河南の再編
- 李光弼は博陵包囲を解いて南下し、史思明の追撃を退けて郭子儀とともに井陘へ引いた。常山の守備は王俌に景城・河間の兵を付して委ねた。
- 平盧節度使劉正臣は范陽を襲おうとして史思明に迎撃され、大敗して妻子を棄てて逃げた。
- 顔真卿は、郭子儀・李光弼が西へ入ったのを受けて、河北の軍事を自ら再整理することになった。
太子、朔方へ入り即位
- 平凉は守りに不向きで、兵糧も整う霊武こそ拠点にすべきだとして、杜鴻漸・魏少遊・崔漪・盧簡・李涵らが太子を迎える計画を立て、朔方の兵馬・甲仗・穀帛の数まで書き上げて献じた。裴冕も平凉へ至って同じく朔方行を勧めた。
- 魏少遊は霊武で宮室や帷帳、飲食まで禁中にならって整え、太子を迎える準備をした。七月辛酉、太子は霊武に到着したが、そうした華美な設備はすべて撤去させた。
- 房琯が玄宗のもとへ参じると、玄宗は彼を宰相に任じた。張均・張垍兄弟について尋ね、琯は同行を誘ったが逡巡していると答えたため、玄宗は彼らの不忠を見抜いた。
- そのころ裴冕・杜鴻漸らは、馬嵬での玄宗の命を根拠に太子へ即位を請願した。太子は辞退したが、将士が関中へ帰りたがり、統一した君主を必要としていたため、五度の上表の末に受け入れた。
- 七月甲子、太子は霊武城南楼で即位し、肅宗となった。玄宗を上皇天帝と尊び、大赦して、天宝十五載を改めて至徳元載とした。裴冕・杜鴻漸・崔漪らを要職に用い、関内にも新たに節度体制を敷いた。
- 草創の朝廷は文武の官がわずか三十人にも満たず、規制も未整備だった。武人は驕り、管崇嗣が朝堂で無礼を働いたため、李勉が弾劾した。肅宗は彼を赦したものの、「李勉がいてこそ朝廷の威儀が立つ」と嘆じた。
- 張良娣は機転があり、軍中でも肅宗に寄り添って寵愛を深めた。霊武で子を産んで三日目に戦士の衣を縫ったともいい、肅宗の信任を得ていった。
上皇の制書と諸王分任
- 上皇は、太子亨を天下兵馬元帥として朔方・河東・河北・平盧の節度都使に任じ、長安・洛陽回復を託した。裴冕・劉秩らをその府に属させた。
- また永王璘に山南東道・嶺南・黔中・江南西道、盛王琦に江南東路・淮南・河南、豊王珙に河西・隴右・安西・北庭などを総轄する節度都使の名目を与え、各道の官吏任免権まで委ねた。
- このとき山南東道節度使、嶺南節度使、黔中節度使、江南東西二道などの区分も改めて整えられた。諸方ではこれによって、車駕の所在と新政権の形が初めて明確に知られた。
- のちに問題を起こす永王璘だけは実際に鎮に赴いた。
長安での粛清と上皇の成都到着
- 安禄山は霍国長公主やその一族、また楊国忠・高力士に連なる者、自身が憎んでいた者たちを次々に殺させた。心臓をえぐって安慶宗の祭りに供えた者までいた。計八十三人に及んだ。さらに皇孫・郡県主二十余人も殺された。
- 上皇は巴西で崔渙の出迎えを受け、房琯の再薦もあって、崔渙を門下侍郎同平章事とした。
李泌の登用
- 李泌は幼時から聡敏で、かつて忠王時代の太子と親しかったが、楊国忠に嫌われて左遷・隠遁していた。肅宗は馬嵬ののち使者で彼を召し、霊武で再会すると大いに喜び、軍国の大小をことごとく相談した。
- 肅宗は李泌を宰相にしたかったが、泌は固辞し、賓客として仕えるほうが宰相より重いと述べた。そこで明官は避けつつも、実際には軍国の枢機を預かる立場となった。
同羅・突厥の離反と招撫
- 同羅・突厥のうち安禄山に従っていた者が、長安苑中から廄馬二千を奪って朔方へ逃れた。酋長の阿史那従礼が率いる五千騎で、さらに諸胡を誘って辺地に拠ろうとした。肅宗はこれを逆に利用し、使者を送って招撫したため、帰順する者が多く出た。
- 安禄山は高嵩を遣わし、敕書や絹を示して河隴の将士を懐柔しようとしたが、大震関使の郭英乂に捕えられて斬られた。
- 長安では同羅らの離脱で大混乱が起こり、囚人まで勝手に出る始末となった。京兆尹崔光遠は賊が遁走するのではないかと期待して孫孝哲邸を見張らせたが、孝哲が安禄山へ告げたため危険を悟り、長安令蘇震らとともに霊武へ奔った。肅宗は崔光遠を御史大夫兼京兆尹とし、渭北で民衆の招集に当たらせた。
霊武政権への合流
- 田乾真を京兆尹とした賊政権からも、呂諲・楊綰・崔器らが相次いで霊武に逃れてきた。肅宗は呂諲・崔器を御史中丞、楊綰を起居舎人知制誥に任じた。
- 李嗣業には安西・河西方面から五千を率いて行在へ来るよう命じた。彼は梁宰とともに情勢見極めのため出兵を遅らせようとしたが、段秀実が「君父の急に赴かぬのは大丈夫ではない」と面と向かって責めたため、羞じてただちに兵を発し、秀実を副将として従わせた。
- さらに李栖筠も安西で精兵七千を募り、忠義を励まして送った。
- 上皇は扶風を鳳翔郡と改めた。
雍丘の張巡、さらに奮戦
- 令狐潮は雍丘を四十余日包囲したが、張巡は城内の動揺を抑えるため、降伏を唱えた六将を天子画像の前で罪に問い斬った。士気はいっそう高まった。
- 矢が尽きると、張巡は藁人形に黒衣を着せて夜に城外へ垂らし、賊に射させて大量の矢を回収した。後日も同じように見せかけて油断させたのち、死士五百で夜襲し、賊営を焼いて大いに破った。
- 城上の雷万春は顔に六本の矢を受けても動かなかったため、敵は木像と思ったほどだった。令狐潮はこれを見て張巡軍の統制に驚いた。
- やがて張巡は再戦して賊将十四人を捕え、百余を斬ったため、潮は陳留へ退いてしばらく出られなかった。続いて白沙渦に駐屯した賊七千余を夜襲で破り、桃陵で救援の四百余も捕えて、そのうち媯・檀・胡兵は斬り、滎陽・陳留の脅従兵は帰農させた。十日ほどで一万余戸が賊地から帰順した。
河北諸郡の動揺
- 常山では王俌が賊に降ろうとしたため、諸将が毬戯の最中に馬で踏み殺した。なお河北の多くの郡は依然として唐を奉じていた。
- 諸将は信都の烏承恩に常山へ移って守るよう勧め、常山の戦略的重要性と井陘の険を説いたが、承恩は詔がないとして応じず、宗仙運の説得にもついに決断しなかった。
- その間、史思明・蔡希德は九門を攻め、偽降を受けて登城したところを伏兵に襲われ、思明は城から落ちて脇を傷つけた。夜に博陵へ逃れた。
蜜表と郭子儀の入朝
- 顔真卿は蝋丸に包んだ表を霊武へ送り、肅宗は彼を工部尚書兼御史大夫、河北招討采訪処置使とした。赦書もまた蝋丸で河北に届けられ、さらに河南・江淮へも伝えられたため、諸道は肅宗即位を知って忠義の心を固めた。
- 郭子儀らは五万を率いて河北から霊武へ到着した。これにより霊武の軍威は一気に増し、天下にも再興への希望が生まれた。
八月 郭子儀・李光弼の重用
- 八月朔日、郭子儀を武部尚書・霊武長史、李光弼を戸部尚書・北都留守とし、二人とも同平章事に任じた。光弼は景城・河間の兵五千を率いて太原へ向かった。
- 先に河東節度使王承業は軍政が乱れ、朝廷は崔衆を遣わしてその兵権を奪い、さらに中使を遣わして誅した。崔衆は王承業を軽んじていたため、光弼はこれを快く思っていなかった。兵の引継ぎでも崔衆が不遜で遅滞したので、光弼は怒って彼を斬り、軍中を粛然とさせた。
外夷との連携
- 回紇可汗と吐蕃賛普は相次いで使者を送り、唐のために賊討伐を助けたいと申し出た。肅宗は宴と賜物でこれに応じ、ひとまず帰した。
- 北海太守賀蘭進明の部下・第五琦は蜀で上皇に会い、戦時には江淮の財賦確保が急務であると論じ、自らにその任を与えるよう願った。上皇はこれを喜び、第五琦を江淮租庸使に抜擢した。
上皇、肅宗即位を正式に認める
- 霊武からの使者が蜀に着くと、上皇は「わが子は天に応じ人に順って立った、もはや憂うことはない」と喜んだ。
- ついで制書を出し、今後の制敕は「誥」と呼び、上表文では自分を「太上皇」と称させ、軍国の大事はすべて先に皇帝の判断を仰ぎ、自分は知るだけにすると定めた。長安回復後は政務に関わらない意向も示した。
- さらに韋見素・房琯・崔渙に伝国宝と玉冊を持たせ、霊武へ送って正式な伝位の手続きを取らせた。
長安の荒廃
- 史思明は藁城を落とした。
- 安禄山はかつて玄宗が好んだ大規模な音楽・舞踊・雑技をそのまま奪い取り、長安の楽工・楽器・舞衣、舞馬や犀・象まで洛陽へ運ばせた。
- 洛陽の凝碧池で群臣に宴を開き、梨園の楽工に演奏させたが、彼らは涙を流した。雷海清は悲憤のあまり楽器を地に投げ、西に向かって慟哭したため、安禄山に処刑された。
- また長安では、騒乱に乗じて庫蔵から略奪した者を三日間の大捜索で追及し、私財まで徹底的に掠め取った。微細な物品まで追及したので、民心はいよいよ唐室を慕うようになった。
- 太子が北で兵を集めているという噂だけで賊はしばしば怯え、長安近辺の豪傑は賊の官吏を殺して官軍に呼応した。西門の外はほとんど敵地となり、賊の勢力は武関より南へ、雲陽より北へ、武功より西へは広がれなかった。
- 江淮から蜀や霊武へ送られる貢賦は、襄陽から上津を経て扶風へ届き、途絶えなかった。これは薛景仙の守りによるところが大きかった。
九月 河北での賊の攻勢
- 史思明は趙郡を包囲してこれを落とし、さらに常山も旬日で陥して数千人を殺した。
建寧王倓と李泌の進言
- 建寧王倓は英敏で武略があり、馬嵬以後の北行でも自ら精兵を選んで前後を固め、たびたび賊や盗賊と血戦して肅宗を守った。肅宗が食をとれぬと泣き、軍中の注目を集めた。
- 肅宗は倓を天下兵馬元帥にしたいと思ったが、李泌は、倓は広平王俶の弟であり、もし大功を立てれば皇太子の地位を脅かし、太宗・玄宗のような争いを再び招きかねないと諫めた。
- そのため広平王俶を天下兵馬元帥とし、諸将をその統属下に置いた。倓はこの判断を快く受け入れた。
李泌、元帥府を掌る
- 肅宗と李泌が軍中を歩くと、兵士は「黄衣の者が聖人、白衣の者が山人」と囁いた。疑惑を避けるため、肅宗は泌に紫袍を着せ、ついには「侍謀軍国元帥府行軍長史」の名を与えた。泌は固辞したが、最終的に受け入れた。
- 元帥府は禁中に置かれ、広平王がいるときは李泌が控え、李泌が入るときは広平王も同様にするなど、互いの権限を調和させた。
- 泌は、諸将は天威を畏れて肅宗の前では本音を言いにくいとして、まず自分と広平王に軍事を協議させ、その後に上奏する方式を提案し、認められた。夜通し届く各地の急報も、緊急のものはその場で開封して内奏し、それ以外は明け方まで府で整理した。禁門の鍵も広平王と李泌が掌握した。
郭子儀、同羅討伐へ
- 阿史那従礼は九姓府・六胡州の諸胡を誘い、数万が経略軍北に集まって朔方を脅かした。肅宗は郭子儀を天徳軍へやって討伐させた。
- 左武鋒使僕固懐恩の子・僕固玢が別働隊として戦い、いったん敗れて敵に降ったが、のちに逃げ帰った。懐恩は軍律を明らかにするため、実子であってもその場で斬った。将士は震え上がり、以後は一人で百人分の働きをして、ついに同羅を破った。
回紇・西域諸国への援兵要請
- 肅宗は朔方軍だけでは足りないと見て、外夷の兵を借りて威勢を張ろうとした。そこで敦煌王に封じた承寀と僕固懐恩を回紇へ遣わし、援兵を請わせた。
- さらに抜汗那の兵も徴発し、あわせて城郭諸国に伝えて安西兵とともに来援するよう求め、厚い報償を約した。
肅宗、彭原方面へ進む
- 李泌は、まず彭原へ進んで西北の援軍を待ち、その後扶風へ進んで呼応するのがよいと勧めた。ちょうど租庸も集まりつつあり、軍需も賄えたため、肅宗はこれに従って出発した。
- 霊武から逃げてきた辺令誠は、以前の失政と賊中での行動を咎められて斬られた。
- 肅宗は順化に至った。
宝冊の到着と李泌の諫言
- 成都から韋見素らが伝国宝と玉冊を奉じて到着したが、肅宗は「中原がまだ平定されていないなかで、危急に乗じて正式に位を継ぐわけにはいかない」として受け取らなかった。宝冊は別殿に安置し、朝夕に定省の礼を尽くした。
- 肅宗は韋見素がもとは楊国忠に近かったことを快く思わず、むしろ房琯を重く用いた。房琯は自ら天下の大事を担うつもりで振る舞い、他の宰相たちは彼を避けるようになった。
- 上皇が張良娣に七宝の鞍を賜ると、李泌は、天下分崩の折に奢侈を見せてはならぬとして、珠玉を外して功ある者への賞に回すよう進言した。良娣は不満を抱いた。
- 建寧王倓は、肅宗が諫言を素直に受け入れるのを見て、上皇帰還の日が近いと喜び泣いた。しかし良娣はこれを機に、李泌と倓を憎むようになった。
- 肅宗が李林甫の墓を暴いて焼き捨てたいと語ると、李泌は死者への復讐は聖徳にかなわず、賊方の帰順を妨げるだけでなく、上皇にも韋妃の旧事を思い出させて心を痛めると諫めた。肅宗は涙を流して自らの非を悟った。
- また肅宗が張良娣を中宮に立てて上皇を慰めたいと言うと、李泌は、霊武での即位は社稷のためであって私のためではなく、後宮のことは上皇の命を待つべきだと述べ、肅宗も従った。
西南の動揺
- 南詔はこの混乱に乗じて越嶲・会同軍を陥し、清溪関を押さえた。さらに尋伝・驃国もこれに帰服した。