資治通鑑唐紀三十三 肅宗 至徳 元載 756年

正月:安禄山、燕帝を称す

  • 春正月乙卯朔、安禄山はみずから大燕皇帝を称し、年号を聖武と改めた。
  • 達奚珣を侍中、張通儒を中書令、高尚・厳荘を中書侍郎とした。
  • 李随は睢陽に至って数万の兵を集めていたため、丙辰、朝廷は彼を河南節度使とした。
  • また、前高要尉の許遠を睢陽太守兼防禦使に任じた。

正月:濮陽・済陰方面の抗戦

  • 濮陽の尚衡は義兵を挙げ、郡人の王栖曜を衙前総管として、済陰を攻め落とし、安禄山配下の邢超然を殺した。

正月:顔杲卿の失陥

  • 顔杲卿は李欽湊の首と何千年・高邈を京師へ送ろうとし、子の泉明、賈深、翟万徳らを派遣した。
  • しかし張通幽は、兄が賊中にいることを理由に同行を願い出て、太原で王承業に取り入ると、顔杲卿の表文を書き換え、自分と王承業の功を大きく見せ、杲卿を貶めた使者を別に送った。
  • 顔杲卿は起兵してまだ八日、城の備えも未完成のうちに、史思明・蔡希德の大軍が到着した。
  • 顔杲卿は王承業に救援を求めたが、王承業は功を横取りし、かつ常山が落ちる方が自分に有利だと考えて兵を出さなかった。
  • 壬戌、常山城は陥落し、賊は一万人余りを殺し、顔杲卿・袁履謙らを洛陽へ送った。玄宗は事情を知らず、王承業の使者の報告を喜んで、彼を羽林大将軍に昇進させ、部下にも多数の恩賞を与えた。
  • 顔杲卿には衛尉卿の任命が出たが、その勅命が到着する前に常山は失われていた。

正月:顔杲卿・袁履謙の殉節

  • 洛陽に送られた顔杲卿に対し、安禄山は「范陽の戸曹から判官、そして太守にまでしてやったのに、なぜ背いた」と責めた。
  • 顔杲卿は怒って、「お前はもとは営州の牧羊の羯奴にすぎぬ。天子が三道節度使にまで引き上げたのに、恩を仇で返して反いた。私は代々唐の臣であり、唐のために賊を討つだけだ」と罵った。
  • 安禄山は激怒し、袁履謙らとともに洛陽の中橋に縛りつけて身体を裂かせたが、二人は死ぬまで罵倒をやめなかった。
  • 顔氏一門では、刀鋸にかかって死んだ者が三十余人に及んだ。

正月:河北の再失陥

  • 史思明・李立節・蔡希德は常山を取ると、他の不服従の郡も攻め、鄴・広平・鉅鹿・趙・上谷・博陵・文安・魏・信都などは再び賊の支配に入った。
  • ただし饒陽太守の盧全誠だけは屈せず守り続けた。
  • 河間司法の李奐は七千人、景城長史の李暐の子の李祀は八千人を率いて救援したが、いずれも史思明に敗れた。

正月:郭子儀・李光弼の起用

  • 朝廷は郭子儀に雲中包囲を解かせて朔方に戻し、さらに兵を増やして東京奪回に向かわせることにした。
  • また、河北平定のため井陘から先行する名将を選ばせ、郭子儀は李光弼を推した。
  • 癸亥、李光弼は河東節度使となり、朔方兵一万人を分け与えられた。

正月:哥舒翰の昇進と南陽方面の布陣

  • 甲子、哥舒翰は左僕射・同平章事を加えられ、兵馬副元帥としての任もそのままとされた。
  • 南陽節度使が新設され、南陽太守の魯炅が任ぜられた。嶺南・黔中・襄陽の子弟五万人を率いて葉北に屯し、安禄山に備えることになった。
  • 魯炅は薛愿を潁川太守兼防禦使、龐堅を副使として推挙した。

正月〜二月:潼関・平原・河北

  • 乙丑、安禄山の子の安慶緒が潼関を攻めたが、哥舒翰はこれを撃退した。
  • 己巳、顔真卿は戸部侍郎を加えられ、引き続き平原防禦使を兼ねた。李暐が副使とされた。
  • 二月丙戌、李光弼は魏郡太守・河北道採訪使も兼ねた。

二月:李光弼、常山を救う

  • 史思明は饒陽を二十九日囲んでも落とせなかったところへ、李光弼が蕃漢歩騎一万余と太原弩手三千を率いて井陘を出た。
  • 己亥、李光弼が常山に着くと、常山の団練兵三千は胡兵を殺し、安思義を捕えて降った。
  • 李光弼は安思義に敵情を問うた。安思義は、唐軍は遠来で疲れており、思明とすぐに野戦するのは危険だから、城に入り備えを固め、敵の利が得られず気が衰えたときに図るべきだと答えた。李光弼はその見立てを採用し、彼を釈放した。
  • 史思明は常山が失われたと聞いて饒陽の包囲を解き、翌朝には先鋒が常山城下に迫った。李光弼は城上の弩兵を用いて撃退し、さらに九門南の逄壁で休息中の賊歩兵五千を急襲して全滅させた。
  • 史思明は勢いを失って九門に退いた。
  • この時、常山九県のうち七県は官軍につき、九門と藁城だけが賊側に残った。李光弼は各所に少数の守兵を置き、石邑には張奉璋を五百で守らせた。

二月〜三月:雍丘の張巡

  • 朝廷は呉王祗を霊昌太守・河南都知兵馬使とした。
  • 賈賁は先に雍丘へ入って二千人を集めていた。これに先立ち、譙郡太守の楊万石が郡ごと安禄山に降り、真源県令の張巡を長史として賊迎撃に当たらせようとした。
  • 張巡は真源で吏民を率いて玄元皇帝廟に哭し、討賊の兵を挙げて数千を得ると、西の雍丘で賈賁と合流した。
  • 雍丘令の令狐潮はすでに賊に降り、将となって東の淮陽救援軍を襄邑で破って捕虜百余人を雍丘に連れ帰っていた。だが彼が一時城を離れた隙に、捕虜たちが守兵を殺し、賈賁らを迎え入れたため、令狐潮は妻子を捨てて逃げた。
  • 庚子、令狐潮は賊精兵を率いて雍丘を攻めた。賈賁は戦って敗死し、張巡は力戦してこれを撃退し、その軍を引き継いで「呉王先鋒使」を称した。
  • 三月乙卯、令狐潮は再び李懐仙・楊朝宗・謝元同ら四万余とともに城下へ急襲した。
  • 城中が恐怖して守る気を失うと、張巡は「賊は我らを軽んじている。奇襲してその鋭気を折れば守れる」と言い、自ら千人を率いて数隊に分け、城門を開いて突撃した。賊軍は大きく動揺して退いた。
  • 翌日からも攻防が続き、賊は百礮で城を囲み、楼堞を破壊し、蟻のように群がってよじ登った。張巡は脂をしみこませた柴束を投じて焼き払い、また隙をみて夜襲も敢行した。
  • 六十余日、大小三百余戦を重ね、兵は甲を着けたまま食事し、傷を包んでは再び戦った。ついに賊を敗走させ、二千の胡兵を捕えて還った。張巡の軍名は大いに振るった。

三月:安思順の処刑

  • 戸部尚書の安思順は、安禄山の反意を以前から知って入朝して奏していたので、反乱後も当初は罪に問われなかった。
  • しかし哥舒翰はかねて彼と仲が悪く、人を使って安禄山から安思順に宛てたように見せかけた書を関門で押収させ、七つの罪を並べて処刑を願った。
  • 丙辰、安思順と弟の安元貞はともに死を賜り、一族は嶺外に流された。
  • 楊国忠はこれを救えず、ここで初めて哥舒翰を恐れるようになった。

三月:郭子儀・呉王祗・李光弼

  • 郭子儀は朔方でさらに精兵を選抜し、戊午、代州へ進んだ。
  • 戊辰、呉王祗は謝元同を撃退し、陳留太守・河南節度使に任ぜられた。
  • 壬午、李光弼は范陽長史・河北節度使となり、顔真卿も河北採訪使を兼ね、張澹を支使とした。

三月:李萼の策と魏郡攻略

  • これより前、清河の客で二十余歳の李萼が顔真卿に援軍を請い、清河は財貨・兵器・糧食が豊かで、北方財政の中心であるから、平原と結べば河北平定の腹心となると説いていた。
  • 顔真卿は当初、平原自体の守りで手一杯として断ったが、李萼は書を重ねて、清河を見捨てればやがて敵に回ると警告した。
  • 顔真卿は驚いて自ら宿舎に赴き、六千の兵を貸した。李萼はそこで、自分の策は魏郡を先に取り、袁知泰を追い出し、崞口を開いて程千里軍を通し、河北と河南の義兵を結集して賊の北帰路を断つことにあると明かした。
  • 顔真卿は賛同し、李擇交・范冬馥らに兵を率いさせ、清河兵四千・博平兵千と合わせて堂邑西南に布陣した。
  • 袁知泰は白嗣恭ら二万余で迎え撃ったが、三郡兵は終日戦って魏兵を大破し、首一万余を斬り、捕虜千余、馬千匹を得た。袁知泰は汲郡に逃げ、魏郡は平定され、軍声はさらに高まった。

三月〜四月:賀蘭進明との関係

  • 北海太守の賀蘭進明も起兵し、顔真卿の書を受けて河を渡り、歩騎五千で平原へ来た。
  • 顔真卿は兵を並べて迎え、馬上で互いに哭して哀切の情を示した。賀蘭進明は平原城南に駐屯し、顔真卿は事ごとに彼に相談したため、次第に軍権は賀蘭進明側へ移っていった。
  • それでも顔真卿はこれを嫌わず、堂邑の勝利の功を賀蘭進明に譲った。
  • 賀蘭進明はその報告を勝手に取捨して奏上し、自分は河北招討使に任ぜられた一方、李擇交・范冬馥らへの恩賞は微弱で、清河・博平の功ある者たちもほとんど録されなかった。
  • 賀蘭進明はさらに信都を長く攻めあぐねたが、録事参軍の第五琦が金帛で勇士を募るよう勧め、ようやくこれを攻略した。

四月:郭子儀・李光弼、九門で大勝

  • 李光弼は史思明と四十余日対峙したが、思明が常山への糧道を断ったため、城中では馬に草の代わりに薦や敷物を食わせるほどとなった。
  • 李光弼は甲冑を着せた輸送兵と弩手で護衛する五百輛の車列を石邑へ送り、草を刈り集めたが、賊も奪えなかった。
  • 蔡希德が石邑を攻めたが、張奉璋がこれを防いだ。李光弼は郭子儀に急を告げ、郭子儀は井陘を出て救援に向かった。
  • 夏四月壬辰、郭子儀は常山に到着し、李光弼と合流した。蕃漢の歩騎は十余万となった。
  • 甲午、二人は九門城南で史思明らと決戦し、大勝した。中郎将の渾瑊が李立節を射殺し、思明は趙郡へ、蔡希德は鉅鹿へ逃げた。
  • 思明が博陵へ向かうと、同郡はすでに官軍に降っていたため、思明は郡官を皆殺しにした。
  • 河朔の民は賊の残虐に苦しんでいたので、郭・李の軍が来ると各地で営を作ってこれに応じ、多いところでは二万人、少なくても一万人が自発的に集まった。
  • 庚子、郭・李の軍は趙郡を一日で降した。兵士が掠奪を始めると、李光弼は城門に座って押収品をすべて民に返し、郭子儀も生け捕り四千人を皆釈放した。民衆は大いに悦んだ。賊の太守郭献璆だけは斬られた。
  • 李光弼はそのまま博陵を十日囲んだが落とせず、恒陽へ引いて糧を求めた。

四月:来瑱・平盧・安東

  • 楊国忠は将となるべき人物を張鎬・蕭昕に問うた。二人は永寿の来瑱を推挙した。
  • 丙午、来瑱は潁川太守となり、賊軍のたび重なる攻撃を破って名を上げ、本郡防禦使も兼ねた。人々は彼を「来嚼鉄」と呼んだ。
  • 安禄山は呂知誨に安東副大都護の馬霊詧を誘って殺させたが、平盧遊奕使の劉客奴、先鋒使の董秦、安東将の王玄志らが謀って呂知誨を討ち、海路で顔真卿に通じて范陽攻略への協力を申し出た。
  • 顔真卿は判官の賈載に糧食と兵士の衣を持たせて支援し、まだ十歳余りの自分の子を人質として送った。
  • 朝廷はこれを聞き、劉客奴を平盧節度使とし、「正臣」の名を賜い、王玄志を安東副大都護、董秦を平盧兵馬使に任じた。

四月:魯炅の対陣

  • 南陽節度使の魯炅は滍水南岸に柵を築いた。安禄山の将である武令珣と畢思琛がこれを攻めた。