資治通鑑唐紀三十三 玄宗 天宝 十四載 755年

正月:安禄山への疑念と玄宗の優柔

  • 春正月、蘇毗王子の悉諾邏が吐蕃から来降した。
  • 二月辛亥、安禄山は副将の何千年を遣わし、蕃将三十二人を漢将に代えて任用したいと奏請した。玄宗は中書に命じ、即日で発日勅を作らせ、告身も与えようとした。
  • 韋見素は楊国忠に、安禄山の異志は明白であり、この請願は許してはならぬと迫った。翌日、見素は玄宗に強く反対意見を述べたが、楊国忠は約束したにもかかわらず口ごもって加勢できなかった。
  • それでも国忠は後日、安禄山を平章事にして召還し、その留守の三鎮を賈循・呂知誨・楊光翽に分ければ自然に勢力を削げると提案した。玄宗はいったん同意して制書まで作らせたが、発布せずに留めた。
  • 代わりに中使の輔璆琳を安禄山のもとへ送り、珍果を賜いながらひそかに変事の有無を探らせた。
  • しかし輔璆琳は安禄山から厚く賄賂を受け、帰朝すると「安禄山は忠誠を尽くしており二心はありません」と強く弁護した。玄宗はこれを信じ、「東北の二虜を抑えるには彼に頼るほかない」と言って問題を打ち切った。

三月:哥舒翰の病

  • 隴右・河西節度使の哥舒翰は入朝の途中で中風を患い、そのまま京師に留まって家に籠もり、政務に出られなくなった。

四月:安禄山の態度の変化

  • 三月辛巳、給事中の裴士淹が河北宣慰使として派遣された。
  • 夏四月、安禄山は奚・契丹を破ったと奏上した。
  • 癸巳、蘇毗王子の悉諾邏は懐義王に封じられ、李忠信の姓名を賜った。
  • 安禄山は范陽へ帰ると、朝廷から使者が来ても病と称してすぐには出迎えず、まず武装を見せつけてから会見するようになった。裴士淹も二十日余り待たされ、ようやく会えたが、もはや臣下としての礼を失っていた。

四月〜六月:楊国忠の挑発と安禄山の警戒

  • 楊国忠は日夜、安禄山の反状を求め、その邸宅を取り囲ませ、配下の李超らを御史台の獄に送り、ひそかに殺した。
  • 安禄山の子で、宗女の栄義郡主を娶って京師に仕えていた安慶宗は、密かに父へ危険を知らせたため、安禄山はいよいよ恐れを深めた。
  • 六月、玄宗は安禄山の子の婚儀に際して、手詔で観礼を命じたが、安禄山は病を理由に応じなかった。

七月:三千匹の馬献上計画と玄宗の疑念

  • 秋七月、安禄山は馬三千匹を献上すると表し、それぞれに二人ずつの御者を付け、さらに蕃将二十二人に率いさせて送らせた。表向きは献馬だが、実際には長安急襲の下準備であった。
  • 河南尹の達奚珣は異変を疑い、「車馬の進献は冬まで待たせ、夫役は官が手配すべきで本軍に煩わせるべきでない」と奏した。
  • 玄宗はここで少し目が覚め、ようやく安禄山を疑い始めた。さらに、輔璆琳の収賄も露見したため、玄宗は別件を口実に彼を杖殺した。
  • 中使の馮神威が手詔をもって范陽へ赴き、達奚珣の案に従うよう命じ、さらに「十月に華清宮に新しい湯を作るので来て見よ」と伝えた。
  • だが安禄山は床に寄りかかったままわずかに身を起こしただけで拝礼せず、「陛下はお元気か」と答え、「馬を献じなくてもよい」「十月には必ず行く」と言いながら、数日間も馮神威を再び引見せず、返書も持たせなかった。
  • 馮神威が帰ると、玄宗に対し「危うく生きてお目にかかれないところでした」と泣いて訴えた。

八月:租庸の免除

  • 八月辛卯、今年分の百姓の租庸が免除された。

十月:再び華清宮へ

  • 冬十月庚寅、玄宗は再び華清宮に行幸した。

十一月:安禄山の反乱決意

  • 安禄山は三道を専制してすでに十年以上も異志を蓄えていたが、本来は玄宗の崩御を待って挙兵しようとしていた。
  • しかし楊国忠がたびたび反逆を訴え、さまざまに刺激して早く反乱を起こさせようとしたため、安禄山はついに決意を固めた。
  • その謀議を知るのは、孔目官の厳荘、掌書記の高尚、将軍の阿史那承慶らごく少数で、他の将佐は、八月以来しきりに将兵を饗応し、兵馬を整えているのを怪しむばかりだった。
  • ちょうど京師から戻った奏事官がいるのを利用し、安禄山は偽の勅書を作って諸将を集め、「密旨により兵を率いて入朝し、楊国忠を討つ」と告げた。諸将は驚いたが異論を唱えられなかった。

十一月甲子:范陽で挙兵

  • 十一月甲子、安禄山は范陽で配下の兵と同羅・奚・契丹・室韋などあわせて十五万を動員し、号して二十万と称して反乱を起こした。
  • 范陽には節度副使の賈循、平盧には呂知誨、大同には高秀巖を残し、諸将は夜のうちにそれぞれ出発した。
  • 翌朝、安禄山は薊城南で大閲兵を行い、「楊国忠討伐」を名目として誓師し、軍中には異議を唱える者は本人も三族も斬ると掲げた。
  • 安禄山は鉄の轝に乗り、歩騎の精鋭を率いて南下した。天下は久しく承平で、民は数世代にわたり兵乱を知らなかったため、遠近は大いに震えた。
  • 河北はもとより安禄山の勢力圏であり、州県は風の前の枯葉のように崩れ、守令は迎降するか、逃げ隠れるか、あるいは捕えられて殺されるだけで、抵抗する者はほとんどいなかった。

十一月:太原方面の異変

  • 安禄山は将軍の何千年・高邈に奚騎二十を率いさせ、射生手を献ずると称して先に太原へ向かわせた。
  • 乙丑、北京副留守の楊光翽が迎え出ると、彼らはその場で楊光翽を拉致した。太原や東受降城はこの状況を朝廷に報じたが、玄宗はなお、安禄山を憎む者の偽報ではないかと疑って、すぐには信じなかった。
  • 庚午、ついに玄宗も安禄山の反乱が確実と知り、宰相たちと対策を協議した。楊国忠はむしろ得意げに「反したのは安禄山一人で、将士は本心から従っていない。十日もすれば首が届く」と述べ、玄宗もそれを信じた。大臣たちは顔色を失った。
  • 畢思琛を東京へ、程千里を河東へ派し、募兵して守りを固めさせた。

十一月〜十二月:封常清の出動

  • 辛未、安西節度使の封常清が入朝すると、玄宗は賊討ちの方略を問うた。
  • 封常清は、平和が長く続いたため人々は賊を恐れているが、逆順の理は明らかであり、自分が東京へ急行して府庫を開き、勇士を募れば、たちまち賊の首を持ち帰れると豪語した。
  • 玄宗はこれを喜び、壬申、封常清を范陽・平盧節度使とし、ただちに東京へ向かわせた。
  • 封常清は十日ほどで六万の兵を集め、河陽橋を断って防備を整えた。

十一月末:博陵・常山方面

  • 甲戌、安禄山は博陵南に到着した。何千年らは連れてきた楊光翽を安禄山の前に引き出し、楊国忠に親しいことを理由に斬って見せしめにした。
  • 安禄山は安忠志を土門に駐屯させ、張献誠を博陵太守代理とした。
  • さらに藁城に至ると、常山太守の顔杲卿は兵力で抗しきれず、長史の袁履謙とともに出迎えた。安禄山は彼に金紫を与え、子弟を人質にとって常山を守らせた。
  • 李欽湊に数千の兵を与えて井陘口を守らせ、西から来る官軍に備えさせた。
  • 顔杲卿は帰路、自身の着る賜衣を指して袁履謙に「なぜこんなものを着ねばならぬのか」と言い、袁履謙はその意を悟って、ひそかに挙兵の謀をめぐらせるようになった。

十一月末:朝廷の軍制再編

  • 丙子、玄宗は安慶宗を斬り、栄義郡主に自尽を命じた。
  • 朔方節度使の安思順を戸部尚書に移し、その弟の安元貞を太僕卿としたうえで、朔方右廂兵馬使の郭子儀を新たに朔方節度使とした。
  • 王承業を太原尹に任じ、また河南節度使を新設し、張介然に陳留など十三郡を統轄させた。賊の進路に当たる諸郡には防禦使が初めて置かれた。
  • 丁丑、榮王琬を元帥、高仙芝を副将として東征軍を統率させ、内府の金帛を出して京師で十一万の兵を募った。これが天武軍であるが、その実態は多くが市井の若者だった。

十二月:高仙芝の東征

  • 十二月丙戌、高仙芝は飛騎・彍騎、新募兵、在京の辺兵を合わせて五万人を率い、長安を発した。宦官の辺令誠が監軍として随行し、陜に駐屯した。

十二月:安禄山の河南制圧

  • 丁亥、安禄山は霊昌で河を渡った。敗船や草木を綱で結びつけて一夜のうちに流氷の橋のような渡河路を作り、霊昌郡を陥れた。
  • 張介然は陳留に着いてまだ数日だったが、安禄山の軍が迫ると城に兵を配して守ろうとした。しかし衆は恐れて戦えず、郭納が庚寅に城を挙げて降った。
  • 安禄山は入城後、安慶宗が殺されたことを知って号泣し、陳留の将士で降った者たちを一万人近くも斬って怒りを晴らし、張介然を軍門で斬った。
  • 李庭望を陳留守将とした。

十二月:平原の顔真卿、義兵を挙げる

  • 壬辰、玄宗は自ら親征する意向を示し、朔方・河西・隴右の兵を城堡の守備分以外すべて行営へ送らせ、節度使自ら率いて二十日以内に集結させるよう命じた。
  • そのころ平原太守の顔真卿は、安禄山の反乱を以前から見越して、長雨の間に城郭・壕を整え、壮丁を点検し、倉庫を充実させていた。安禄山は彼を単なる書生として軽んじていた。
  • 反乱後、安禄山は平原・博平から兵七千を出して河津を守らせるよう命じたが、顔真卿は司兵の李平を間道で長安に派遣し、事態を奏上した。
  • 玄宗は、河北二十四郡がほぼ風靡したと聞いて「義士は一人もいないのか」と嘆いていたところへこの報が届いたので、大いに喜び、顔真卿という人物を知らなかったが、その志に深く感じ入った。
  • 顔真卿は、安禄山の檄文を逆用して諸郡にひそかに送り、多くの郡がこれに呼応した。

十二月:滎陽・洛陽の失陥

  • 安禄山は滎陽へ進み、太守の崔無詖が抵抗したが、士卒は鼓角を聞いただけで恐れて城上から落ちるほどだった。
  • 癸巳、滎陽は陥落し、崔無詖は殺された。
  • 田承嗣・安忠志・張孝忠らが前鋒となり、武牢で封常清軍を破った。封常清の募兵は訓練不足の白徒で、鉄騎の突撃に耐えられなかった。
  • 封常清は葵園・上東門内・都亭駅・宣仁門と転戦したがことごとく敗れ、ついに苑西から城壁を壊して西走した。
  • 丁酉、安禄山は東京洛陽を陥とし、四門から鼓噪して入り、略奪をほしいままにした。
  • 河南尹の達奚珣は降り、留守の李憕と御史中丞の盧奕、採訪判官の蔣清は踏みとどまって殺された。盧奕は最後まで安禄山を罵り、順逆を知るべきだとして節を曲げなかった。

十二月:潼関防衛へ

  • 封常清は敗残兵を率いて陜に至った。太守の竇廷芝はすでに河東へ逃げ、吏民も散っていた。
  • 封常清は高仙芝に、賊勢は鋭く、潼関に兵がなければ長安は危ういので、陜は捨てて潼関を固めるべきだと説いた。
  • 高仙芝はこれに従い、西へ向かって潼関へ急行した。軍は狼狽して統制を失い、踏みつけられて死ぬ者も多かったが、潼関に入って守りを修めると、賊もついに入れずに退いた。
  • 安禄山は崔乾祐を陜に置き、臨汝・弘農・済陰・濮陽・雲中なども次々に降った。
  • ただしこの時、朝廷の徴兵はまだ諸道から到着しておらず、関中は大いに恐怖したものの、安禄山がひとまず洛陽にとどまり帝号を図ろうとしたため、朝廷はその間に守備を整える時間を得た。

十二月:山東の抗戦

  • 安禄山は張通晤・楊朝宗らに千余の胡騎を与えて東方の郡県を攻略させた。多くの官吏は望風して降るか逃げた。
  • しかし東平太守の嗣呉王祗、済南太守の李随らは起兵して抵抗した。郡県で賊に従わぬ者は、みな呉王の名をよりどころとした。
  • 単父尉の賈賁は南下して睢陽を攻め、張通晤を斬った。李庭望は東へ地を略取しようとしたが、この報を聞いて引き返した。
  • 庚子、永王璘を山南節度使、潁王璬を剣南節度使とし、それぞれ源洧・崔圓を副えたが、両王とも実際には宮中を出なかった。

十二月:親征議の挫折

  • 辛丑、玄宗は太子に監国を命じ、自らは親征しようとした。
  • 玄宗は、在位ほぼ五十年で政務に倦み、前年秋にはすでに譲位を考えていたが、水旱が続いたため凶事を子孫に残すのを嫌って延期していたのだと語った。今回は逆胡が突発したため、自ら出陣し、平定後に安んじて隠退するつもりだとした。
  • だが楊国忠は、太子が即位すれば自分の一族は滅ぼされると恐れ、韓・虢・秦の三夫人に働きかけ、貴妃を通じて泣いて助命を願わせたため、この親征案は取りやめとなった。

十二月:河北諸郡の蜂起

  • 顔真卿は勇士を募り、十日で一万余を集めて涙ながらに討賊を訴え、士気を高めた。
  • 安禄山が段子光に李憕・盧奕・蔣清の首を持たせて河北を威嚇させると、壬寅、顔真卿は段子光を捕えて腰斬りにし、三人の首を衣で整えて棺に納め、礼を尽くして葬り、弔問を受けた。
  • 海運使の劉道玄が景城を支配すると、清池尉の賈載・塩山尉の穆寧らがこれを斬り、兵船や武器を奪って景城長史李暐に合流した。李暐は厳荘の一族を誅した。
  • 盧全誠は饒陽を守って賊の任命を拒み、河間司法の李奐は賊の長史王懐忠を殺し、李随は将の訾嗣賢を河を渡らせて博平太守馬冀を討たせた。
  • こうして各地で数千から一万の兵が起こり、顔真卿が盟主として軍事を統率することになった。張献誠は五郡の兵一万を率いて饒陽を囲んだ。

十二月:高仙芝・封常清の処刑

  • 高仙芝の軍では、監軍の辺令誠がしばしば軍務に口を出したが、高仙芝は多く従わなかった。
  • 辺令誠が帰朝して、高仙芝と封常清が敗報を誇張・隠蔽し、陜の地を捨て、しかも軍糧を盗み減らしたと訴えると、玄宗は激怒した。
  • 癸卯、辺令誠に勅を持たせ、潼関の軍中で両将を斬らせた。
  • 封常清は敗戦後も三度にわたり賊情を詳しく上表したが、玄宗は見ようとしなかった。常清は自ら渭南まで来たところで官爵を剥奪され、白衣で功を立てて償えと命じられた。
  • 処刑にあたり、封常清は遺表で「臣の死後、陛下はこの賊を軽んじてはなりません」と言い残した。
  • 高仙芝もまた「敗れて退いた罪で死ぬのはやむを得ぬ。しかし軍糧を盗んだと言われるのは無実だ」と訴え、兵士たちは皆、大声で冤を叫んだが、ついに斬られた。

十二月:哥舒翰の出陣

  • 河西・隴右節度使の哥舒翰は病床にあったが、玄宗はその威名と安禄山との不和を頼み、召して兵馬副元帥に任じ、兵八万を率いて討賊させた。
  • 天下四方にも進兵して洛陽を包囲するよう命じ、田良丘を行軍司馬、蕭昕を判官、火抜帰仁ら蕃将を配した。高仙芝旧兵も合わせ、号して二十万とした。
  • だが哥舒翰は病のため軍務を十分にみることができず、軍政を田良丘に委ねた。田良丘も専決できず、王思礼が騎兵、李承光が歩兵を主る形となって統一が取れなかった。
  • 哥舒翰は法令こそ厳しかったが士卒をいたわらず、軍には戦意が乏しかった。

十二月:朔方軍の反攻

  • 安禄山配下の高秀巖が振武軍を侵すと、郭子儀はこれを破り、乗勢して静辺軍を奪回した。
  • 薛忠義が再び静辺軍を犯すと、李光弼・高濬・僕固懐恩・渾釈之らが迎撃して大破し、その騎兵七千を斬った。
  • さらに公孫瓊巖に二千騎を与えて馬邑を攻めさせ、これを抜いて東陘関を開いた。
  • 甲辰、郭子儀は御史大夫に加えられた。僕固懐恩と渾釈之はいずれも代々北辺諸部の有力家の出であった。

十二月:顔杲卿の挙兵

  • 顔杲卿は、参軍の馮虔、前真定令の賈深、藁城尉の崔安石、郡人の翟万徳、内丘丞の張通幽らとともに挙兵を計画し、太原尹王承業にも密かに呼応を求めた。
  • さらに平原の顔真卿から甥の盧逖を通じて、兵を合わせて安禄山の帰路を断ち、西進を遅らせるよう勧められた。
  • ちょうど高邈が幽州へ兵を徴しに出て不在だったため、顔杲卿は安禄山の命をかたって李欽湊を郡に呼び寄せ、酒食と妓楽でもてなして酔わせ、夜にこれを斬った。
  • 翌日にはその党も悉く斬って井陘の兵を散らし、まもなく帰ってきた高邈も藁城で捕えた。南方から東京帰りの何千年が来ると、これも醴泉駅で捕らえて同日に郡へ送った。
  • 何千年は、自分をどう処置するかはともかく、募兵ばかりの常山兵で野戦を挑むべきではなく、深い堀と高い塁で持久し、朔方軍を待って趙・魏に檄を飛ばし、燕薊への腰を断つべきだと進言した。
  • 顔杲卿はこれに従い、李光弼が井陘から一万人で来るとの風説を流し、張献誠にも「山西の精兵には抗しがたい」と伝えた。張献誠は実際に饒陽の包囲を解いて去り、団結兵は潰れた。
  • 顔杲卿は各郡に檄を回し、「大軍が井陘を出た。先に降る者は賞し、遅れる者は誅す」と告げると、河北諸郡は次々に応じ、十七郡が朝廷側につき、二十万余の兵が集まった。

十二月:范陽内部の離反未遂

  • 顔杲卿はさらに范陽の賈循にも密使を送り帰順を促した。郟城出身の馬燧が、安禄山は結局滅びるのだから、范陽をもって帰国すれば不世の功になると説いた。
  • 賈循も心を動かされたが、決断を先延ばしにしたところ、別将の牛潤容が知って安禄山に密告した。
  • 安禄山は韓朝陽を派遣して賈循を呼び出し、ひそかに壮士に縊り殺させ、その一族を滅ぼした。牛廷玠が范陽の軍務を代行した。

年末:常山方面への反撃と安禄山の一時後退

  • 史思明・李立節が蕃漢の歩騎一万を率いて博陵・常山を攻め、馬燧は西山に逃れて徐遇に匿われた。
  • 安禄山自身も当初は潼関攻めに向かい、新安あたりまで進んだが、河北での反乱を聞いて引き返した。潼関に備えがあったからではなく、幽薊への退路が脅かされたためである。
  • 蔡希德は河内から北上して常山を攻めた。
  • 戊申、榮王琬が薨じ、靖恭太子を追贈された。
  • この年、吐蕃の賛普・乞棃蘇籠獵賛が死去し、子の娑悉籠獵賛が立った。