資治通鑑唐紀三十一 玄宗 三載 三年 744年

正月:年の呼称変更と太子改名

  • 正月朔日、年の数え方を「年」ではなく「載」と改めた。
  • 玄宗は再び驪山温泉に行幸し、二月に還宮した。
  • 太子は名を「亨」と改めた。

海賊討伐

  • 海賊の呉令光らが台州・明州方面を掠奪した。
  • 河南尹の裴敦復が討伐にあたり、四月にこれを破って呉令光を捕えた。

安禄山の兼任と寵遇の固定化

  • 三月、安禄山は平盧節度使に加えて范陽節度使も兼ねることとなり、裴寛は戸部尚書へ移った。
  • 礼部尚書席建侯による河北巡察では、安禄山は公正だと称賛され、李林甫・裴寛も玄宗の意向に合わせて称美した。
  • こうして安禄山への寵信はさらに揺るぎないものとなった。

西域:十姓可汗の再編

  • 河西節度使夫蒙霊詧が突騎施の莫賀達干を討って斬った。
  • その後、黒姓の伊里底蜜施骨咄禄毗伽を推して立てるよう願い出て、六月、唐はこれを十姓可汗に冊立した。

秋:突厥の崩壊と回紇の台頭

  • 八月、抜悉密が突厥の烏蘇可汗を斬り、その弟が白眉可汗として立ったが、国内は大混乱となった。
  • 王忠嗣は朔方軍を率いて出撃し、薩河内山に進んで突厥左廂の阿波達干ら十一部を破った。
  • 一方で回紇・葛邏禄が抜悉密を攻めて頡跌伊施可汗を殺し、回紇の骨力裴羅が自立して骨咄禄毗伽闕可汗を称した。
  • 玄宗は裴羅を「懐仁可汗」に冊した。
  • こうして回紇は突厥旧地をほぼ継承し、牙帳を烏徳犍山に置き、十一部を統べる大勢力となった。

楊慎矜の復帰

  • 九月、李林甫は楊慎矜が自分に屈していると見て、再び御史中丞とし、諸道鋳銭使も兼ねさせた。

九宮貴神の祭祀制度化

  • 術士の蘇嘉慶が、遁甲術における九宮貴神は水旱を司ると説き、東郊に壇を立てて四季ごとに祀るよう進言した。
  • 玄宗はこれを採用し、礼秩は昊天上帝の下、太清宮・太廟の上に置かれ、供物も天地祭に準ずる重いものとなった。

十二月:会昌県の設置と楊太真への傾斜

  • 温泉宮の麓に会昌県を置いた。
  • 裴寛は玄宗から重んじられていたが、李林甫はその入相を恐れた。
  • 海賊討伐帰りの裴敦復が、軍功を広く付け替えた件を裴寛がひそかに奏したところ、林甫はこれを敦復に知らせ、敦復は楊太真の姉を通じて玄宗に働きかけた。
  • その結果、裴寛は睢陽太守に左遷された。
  • 武惠妃の死後、玄宗は後宮に満足できず、寿王妃楊氏の美貌を知って心を寄せた。そこで彼女をいったん女道士とし、号を太真としたうえで、寿王には別の妃を娶らせた。
  • 太真は音律に通じ、聡敏で、ほどなく武惠妃に比肩する寵愛を受けるようになった。宮中では「娘子」と呼ばれ、待遇は皇后に準じた。

年末の雑事

  • 宗女を和義公主として阿悉爛達干に嫁がせた。
  • 九宮貴神を正式に祀り、大赦を行った。
  • また百姓の成年年齢を改め、十八歳を中男、二十三歳を成丁とした。
  • 玄宗は近年長安にとどまり、天下を李林甫に委ねて高位安逸を望む気持ちを高力士に漏らしたが、高力士は天子の大権を人に預ける危険を諫めた。玄宗は不快としたため、高力士は以後、深く天下のことを論じなくなった。