正月:改元と辺境防衛体制の整備
- 正月朔日、玄宗は勤政楼で朝賀を受け、大赦を行い、年号を天宝に改めた。
- 平盧節度を分割し、安禄山を新たに平盧節度使に任じた。
- この時期の唐は、直轄・羈縻を合わせて広大な州郡を支配し、辺境には十の節度・経略使を置いて防備を固めていた。安西・北庭・河西・朔方・河東・范陽・平盧・隴右・剣南・嶺南の各鎮に大軍を駐屯させ、総兵力は約四十九万、軍馬は八万余に達した。
- しかし開元期以前に比べ、天宝期以後は辺兵の増強で軍需費が激増し、国家財政も民間も重い負担に苦しみ始めた。
玄元皇帝の霊符騒ぎ
- 陳王府参軍の田同秀が、玄元皇帝の霊符が尹喜旧宅に隠されているとの神秘的な報告を上奏した。
- 玄宗は使者を派遣して函谷関付近を探索させ、霊符を得たとされた。
- これを受けて群臣は、年号「先天」に応じる祥瑞が現れたとして、尊号に「天宝」を加えるよう請願し、玄宗もこれを認めた。
三門運河の開削
- 陜州刺史の李斉物は、三門峡の難所を避けて漕運を通すため運河を開削し、完成させた。
- ただし工事は険阻な地形に逆らうもので、実際の運用には疑問もあり、監察にあたった宦官への贈賄で便宜が報告されたともいう。
二月:祭祀と官名・地名の改定
- 玄宗は新たに建てた玄元皇帝廟で祭祀を行い、続いて太廟、さらに南郊で天地の合祭を行った。
- この際、大赦を行い、官名を大きく改めた。侍中を左相、中書令を右相とし、尚書左右丞相を再び僕射に戻した。
- 東都・北都をともに「京」とし、州を郡、刺史を太守と改称した。
- 桃林県は、霊符発見にちなみ「霊宝県」と改名された。
- 田同秀は朝散大夫に任じられた。
偽の霊符の発覚
- その後、清河の崔以清も別の場所で玄元皇帝の霊符を見たと称し、探索でやはり符が出たとされた。
- しかし東都留守の王倕が取り調べると偽造と判明した。玄宗は大事にはせず、流罪にとどめた。
三月:財利追求の風潮
- 韋堅が陜郡太守となり、江淮租庸転運使を兼ねた。
- 宇文融失脚後いったん弱まっていた「財利を献じて昇進する風潮」は、楊慎矜の登用以後また強まり、韋堅・王鉷らが利益を上げることで重用された。各官司の利権も、旧来の官庁を空洞化させるかたちで、別置の「使」に握られていった。
- 韋堅は太子妃の兄で、行政能力に優れるとして江淮の漕運を増収させ、玄宗の信任を得た。
- 王鉷も租税処理に長け、戸部員外郎兼侍御史として台頭した。
李林甫の政敵排除
- 宰相の李林甫は、自分より名望・功績があり、しかも玄宗の信任が厚くて将来の脅威となる人物を、あらゆる手段で追い落とした。
- 表向きは親しく甘言を用い、裏では陥れるため、世人は「口に蜜、腹に剣」と評した。
- 兵部侍郎の盧絢は、玄宗がその風采と品格を高く評価したため、李林甫に警戒された。林甫は盧絢の子弟を通じて本人の意向を探らせ、華州刺史への転出を経て、さらに病気を口実に詹事員外同正へ左遷した。
- また玄宗が「厳挺之は今どこにいる、用いることもできよう」と問うと、李林甫は挺之の弟を誘導して病気療養を願い出させ、玄宗には老病のため散官で休ませるのがよいと進言し、中央復帰の道を断った。
- 四月には厳挺之を詹事、斉澣を少詹事としたが、いずれも東京で養生する員外同正官とされ、実質的には遠ざけられた。
西域・突厥情勢
- 唐は十姓可汗阿史那昕を突騎施に送り込もうとしたが、俱蘭城で莫賀達干に殺された。
- 突騎施の有力者都摩度が唐に来降し、六月に三姓葉護に冊立された。
- 秋には突厥で、抜悉密・回紇・葛邏禄の三部が骨咄葉護を攻めて殺し、抜悉密の酋長を頡跌伊施可汗に立てた。回紇・葛邏禄もそれぞれ葉護を称した。
- 残る突厥勢力は烏蘇米施可汗を立てたが、朔方節度使の王忠嗣はまず武力を示して圧迫し、さらに三部に働きかけて烏蘇を攻撃させ、自らはその右廂だけを奪って退いた。
- 十月ごろには、西葉護阿布思・西殺葛臘哆らも相次いで唐に降り、突厥は大きく衰えた。
- 九月、玄宗は花萼楼で降人たちを厚くもてなした。
吐蕃・護密との関係
- 護密王頡吉里匐が吐蕃から離れて唐への帰順を願い出た。
- 冬には隴右節度使皇甫惟明、河西節度使王倕が相次いで吐蕃への勝利を奏上した。玄宗が辺功を喜んだため、辺将の捷報が続いた形である。
年末の統計と回紇の朝貢
- この年、天下の県は一五二八、郷は一万六八二九、戸口は八五二万余戸、人口は四八九〇万余人に達した。
- 回紇の葉護・骨力裴羅が朝貢し、奉義王の爵位を与えられた。