資治通鑑唐紀 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 二十九年 681年

正月 賑給権限の委任と老子像の発見

  • 正月癸巳、玄宗は驪山温泉へ行幸した。
  • 丁酉、従来は諸州の飢饉時、奏報が届いてから倉を開いて賑給していたが、道が遠く救済が遅れるとして、今後は州県長官と採訪使が事情を量って先に支給し、事後に奏聞するよう命じた。
  • 庚子、玄宗は還宮した。
  • 玄宗は夢で玄元皇帝から、京城西南百余里の地に自分の像があるので探させよ、興慶宮で会おうと告げられたといい、使者を派遣すると盩厔の楼観山中で像が見つかった。

閏四月・五月 玄元像の奉迎

  • 閏四月、その像を迎えて興慶宮に置いた。
  • 五月、玄元皇帝の真容を描かせ、諸州の開元観に分置した。

六月 吐蕃大軍を破る

  • 吐蕃四十万が侵入し、安仁軍に至った。
  • 渾崖峰の騎将・臧希液が五千の兵を率いて出撃し、これを大破した。

七月 突厥の内乱

  • 丙寅、突厥が使者を送って登利可汗の死を告げた。
  • もと登利可汗は、兵権を握る二人の従叔父の左右殺を恐れ、母と謀って右殺を誘い出して斬ったうえ、自らその兵を併せた。
  • 左殺の判闕特勒は兵を率いて登利を攻め殺し、毗伽可汗の子を立てたが、ほどなく骨咄葉護に殺され、さらにその弟も殺された。
  • 最終的に骨咄葉護が自ら可汗となった。
  • 玄宗は突厥が内乱したのを見て、癸酉、左羽林将軍の孫老奴に命じ、回紇・葛邏禄・抜悉密ら諸部を招諭させた。

洛水の氾濫

  • 乙亥、東都で洛水が溢れ、千人余りが溺死した。

八月 安禄山、平盧軍使となる

  • 平盧兵馬使の安禄山は、巧みに人に取り入り、誰からも褒められていた。平盧へ来る玄宗側近には厚く賄賂を贈っていたため、玄宗はますます彼を賢いとみなした。
  • 御史中丞の張利貞が河北採訪使として平盧に赴くと、安禄山は丁重に仕え、利貞の左右にも贈り物をした。
  • 利貞は帰京して安禄山を盛んに称えたため、乙未、安禄山は営州都督・平盧軍使・両蕃渤海黒水四府経略使となった。

十月・十一月 温泉行幸と諸王の死

  • 十月丙申、玄宗は驪山温泉へ行幸した。
  • 壬寅、北庭と安西を二つの節度に分けた。
  • 十一月庚戌、司空の邠王守礼が薨じた。
  • 守礼は凡庸で才能に乏しかったが、雨の前後をよく言い当てた。岐王・薛王らが玄宗に術があるのだと言うと、玄宗は理由を問うた。
  • 守礼は、則天武后の時代、章懐太子の縁で十年以上宮中に幽閉され、しばしば杖で打たれて背に傷痕が残ったので、雨前には沈み苦しみ、晴れる前には軽くなるのだと答え、涙を流した。玄宗も痛ましく思った。
  • 辛酉、玄宗は還宮した。
  • 辛未、太尉の寧王憲が薨じた。玄宗は深く哀しみ、「天下は兄の天下であったが、兄が自分に譲ってくれた」と言い、太伯になぞらえて通常の諡では足りぬとして、「讓皇帝」と追諡した。
  • 子の汝陽王璉は父の遺志を述べて帝号辞退を願ったが許されず、葬送の日には玄宗は自らの服を出し、霊前への書にも本名の「隆基白」と記した。
  • その陵を恵陵と名づけ、妃の元氏も恭皇后と追諡して合葬した。

十二月 吐蕃の攻勢

  • 乙巳、吐蕃が達化県を屠り、石堡城を陥れた。
  • 蓋嘉運はこれを防ぐことができなかった。裴耀卿が以前に抱いた懸念が、ここで現実となった。