資治通鑑唐紀 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 二十八年 680年

正月・二月 温泉行幸と張九齡の死

  • 正月癸巳、玄宗は驪山温泉に行幸し、庚子に還宮した。
  • 二月、荊州長史の張九齡が死去した。
  • 玄宗は九齡を意に逆らって逐ったとはいえ、その人物を最後まで愛重し、宰相が人を推薦するたびに「風度は張九齡に及ぶか」と尋ねた。

三月 安戎城奪回と西域戦後処理

  • 丁亥朔、日食があった。
  • 章仇兼瓊は、安戎城中の吐蕃側有力者・翟都局と、維州別駕の董承晏を内通させ、門を開かせて唐兵を導き入れ、城中の吐蕃将卒をほぼ殺し尽くした。監察御史の許遠に兵を率いさせて守らせた。
  • 甲寅、蓋嘉運が捕虜を連れて入朝し、戦勝を献じた。
  • 玄宗は吐火仙の罪を赦して左金吾大将軍とした。
  • 嘉運は阿史那懐道の子の昕を十姓可汗に立てるよう願い、玄宗はこれを許した。

四月 交河公主冊立

  • 辛未、昕の妻李氏を交河公主に冊立した。

六月 裴耀卿の諫言

  • 吐蕃は安戎城を囲んだ。
  • 玄宗は蓋嘉運の功を賞して河西・隴右節度使に任じ、吐蕃経略を命じたが、嘉運は恩寵を頼んで京中に逗留し、いつまでも任地へ向かわなかった。
  • 左丞相の裴耀卿は、嘉運は勇烈だが言動に驕りがあり、敵を侮る色があるので功を成しにくいと上疏した。莫敖が蒲騷の勝利を頼みにして楚軍を敗らせた故事を引き、しかも防秋は近いのに出発が遅れれば士卒もまだ互いを知らず敵を制し得ないと警告した。
  • 玄宗はようやく出発を促したが、のち結局大きな成果は挙がらなかった。

八月・十月 幽州の勝利と安戎改名

  • 八月甲戌、幽州から奚・契丹を破ったとの報が届いた。
  • 十月甲子、玄宗は驪山温泉へ行幸し、辛巳に還宮した。
  • 吐蕃が安戎城・維州を侵したため、関中から強騎兵を派遣して救援した。吐蕃は撤退し、安戎城は「平戎」と改名された。

十一月・十二月 突騎施の再編と金城公主の死

  • 十一月、牛仙客は朔方・河東節度使を罷めた。
  • 突騎施の莫賀達干は、阿史那昕が可汗に立てられたことに怒った。蘇禄を誅した功は自分にあるのに、なぜ史昕を立てて自分を賞しないのかと言って諸部を率いて叛いた。
  • 玄宗はやむなく莫賀達干を可汗に立て、突騎施の衆を統率させ、蓋嘉運に招諭を命じた。
  • 十二月乙卯、莫賀達干は降伏した。
  • この月、金城公主が薨じた。吐蕃は訃を告げて和を請うたが、玄宗は許さなかった。

この年の天下戸口

  • 天下の県は千五百七十三、戸数は八百四十一万二千八百七十一、人口は四千八百一十四万三千六百九であった。
  • 西京・東都では米一斛の値は二百銭に満たず、絹一匹も同程度で、国内は富み安んじ、旅人は万里を行くにも武器を持たないほどであった。