資治通鑑唐紀 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 二十四年 676年

正月 逃戸帰還と北庭の勝利

  • 天下の逃戸に対し、この年のうちに自首すれば、旧来の財産がある者は本貫へ帰し、ない者は別途指示を待たせるとした。期限後に名乗り出ない者は、専使を出して捜索し、諸軍へ配属すると命じた。
  • 北庭都護の蓋嘉運が突騎施を大破した。

二月 県令への戒めと皇子改名

  • 新たに任じられた県令を朝堂で宴し、玄宗自ら「令長新戒」一篇を作って天下の県令に与えた。
  • 庚午、皇子たちの名を改めた。太子鴻は瑛、諸王も琮・璵・琰・瑶などに改名した。

三月 科挙試験の主管変更

  • 進士の李權が考功員外郎の李昂を侮ったため、考功員外郎では位が低く受験者を統御できないと議論された。
  • そこで壬辰、今後は礼部侍郎に貢挙試験を主宰させることとした。

安禄山の敗北と赦免

  • 張守珪は平盧討撃使・左驍衛将軍の安禄山に、奚・契丹の叛者討伐を命じた。
  • 安禄山は勇を恃んで軽進し、敵に敗れた。四月辛亥、張守珪は斬罪を請う奏上をした。安禄山は刑場で、自分を殺しては奚・契丹を滅ぼせないと叫んだ。張守珪はその驍勇を惜しみ、都へ送った。
  • 張九齡は、軍令を立てる以上は穰苴や孫武のように必ず誅すべきで、しかも禄山には反逆の相があるから将来の患いになると強く主張した。
  • しかし玄宗は王衍が石勒を見て危険視した故事を引き、人物相で忠良を害してはならぬとして、安禄山を赦し、免官のうえ白衣で軍務につけた。

安禄山・史思明の出自

  • 安禄山は営州の雑胡で、もとは阿犖山といい、母は巫女だった。父死後、母が再婚した突厥人安延偃の姓を冒し、安禄山と称した。
  • 史窣干はのちの史思明で、禄山と同郷で一日違いに生まれ、親しく交わった。二人とも互市牙郎として知られ、勇敢さで名を上げた。
  • 張守珪は安禄山を捉生将とし、毎回少数騎兵で出て契丹を多数捕えて帰るので、養子のように愛した。
  • 史窣干は奚に捕らえられた際、唐の和親使だと偽って命を拾い、逆に奚の将の瑣高らを平盧へ誘い出して誅殺させた。この功で出世し、後に玄宗から「思明」の名を賜った。

四月 武温眘事件の余波

  • 故連州司馬・武攸望の子の武温眘は、権貴との交遊によって杖殺された。
  • これに連座して、朔方河東節度使の信安王禕、広武王承宏、涇州刺史薛自勸らも交遊を理由に左遷された。
  • さらに辛未、蒲州刺史の王琚も、禕と書簡を交わしたことで通州刺史に貶された。

五月 妖人の乱

  • 醴泉で妖人の劉志誠が乱を起こし、道行く人を脅かして咸陽へ向かった。
  • 村人が役所へ走って知らせ、橋を焼き道を断って防いだため、その一味は潰走し、数日のうちにすべて捕らえて斬られた。

六月 俸銭支給開始と宗廟の礼論

  • この月から百官への俸銭の月給が始まった。
  • 籍田の赦しを機に、宗廟の供物を増やすこと、また服喪のうち未整備の親族服制について議論が起こった。
  • 太常卿の韋縚は、宗廟の各室に籩豆を増やし、四時ごとに新果や珍味を加えることを提案した。
  • 張均・韋述・崔沔らは、祭祀は礼の節度が第一であり、日常の好みに従って無制限に増やしてはならないと論じた。玄宗はなお少し増やす意向を持ち、最終的に各室に六ずつ増やすことを許した。
  • 服制では韋縚が外祖父母・姨・堂舅らへの服を重くしようとしたが、崔沔・韋述・楊仲昌らは、宗法の原則を乱すとして強く反対した。
  • 最終的に、姨と舅は小功、舅母は緦麻、堂姨・堂舅は袒免と定められた。

八月 千秋節の献上と張九齡の『金鏡録』

  • 千秋節に群臣がみな宝鏡を献じた。
  • 張九齡は、鏡は形を映すが、人をもって自らを照らせば吉凶が見えるとして、前代の興亡の由来をまとめた五巻の書『千秋金鏡録』を献上した。玄宗は書を賜ってこれを褒めた。

突騎施の降服と承乾追贈

  • 甲寅、突騎施が大臣の胡禄達干を派遣して降伏を願い、これを許した。
  • 御史大夫の李適之は、故太子承乾の孫で、しばしば祖父のために弁護していた。甲戌、承乾は恒山愍王と追諡された。
  • 乙亥、汴哀王璥が死去した。

十月 西京還幸と牛仙客評価をめぐる対立

  • 十月戊申、車駕は東都を発した。もとは翌年二月二日に西京へ行く予定だったが、宮中に怪異があったため急きょ西還が決まった。
  • 裴耀卿・張九齡は、農作の収穫が終わっていないので仲冬まで待つよう求めたが、李林甫は、長安も洛陽も帝の離宮であり時を選ぶ必要はなく、農事の妨げがあれば租税免除で済むとして、即日西行を勧めた。玄宗はこれを喜んで従った。
  • 陝州を過ぎる際、刺史の盧奐の善政を賞し、庁事に賛を記した。

十一月 牛仙客の封爵をめぐる論争

  • 朔方節度使の牛仙客は、かつて河西で経費を節約し、庫蔵と兵器を充実させたことで玄宗の評価を受けていた。
  • 玄宗は尚書にしようとしたが、張九齡は、尚書は古来の顕官であり、辺地の小吏を急にそこへ置くのは朝廷の体面を損なうと反対した。
  • 玄宗が封爵ならどうかと問うと、張九齡は、それは辺将として当然の職務であり、金帛の賞で足りる、土地と爵位を与えるのは不適当だと述べた。
  • 李林甫は、牛仙客には宰相の器量がある、張九齡は書生で大体を知らぬと帝に言い、玄宗の不満を煽った。
  • 十一月戊戌、牛仙客は隴西県公・食実封三百戸を賜った。

李林甫の台頭と太子廃立の発端

  • 玄宗は以前から李林甫を宰相にしたいと考え、張九齡に意見を求めたことがあった。張九齡は、宰相は国家の安危に関わるので、李林甫を用いれば後日宗廟社稷の憂いになると答えたが、玄宗は従わなかった。
  • この頃、在位が長くなった玄宗は奢りと怠惰が増し、張九齡は大小の事にことごとく諫争したため、李林甫は帝意をうかがいながら常に中傷の機会をうかがった。
  • 武惠妃は寿王瑁を寵愛し、太子瑛・鄂王瑶・光王琚はそれぞれ母の地位低下を恨んでいた。
  • 三王は内第で不満を語り、それを咸宜公主の夫・楊洄が武惠妃に伝えた。惠妃は泣いて、太子らが自分たち母子を害しようとしていると玄宗に訴えた。
  • 玄宗は三王を廃そうと宰相に諮ったが、張九齡は、三十年近く深宮で教育されてきた皇子たちに重大な過失がないのに、根拠のない讒言で太子を動かすべきではないと、晋の申生、漢の戾太子、晋の愍懐太子、隋の太子勇の例を挙げて強く諫めた。
  • 李林甫は公の場では何も言わず、退いてから宦官に対し、これは天子の家事であり、外臣に問うべきことではないと語った。
  • 武惠妃はさらに奴婢の牛貴児を使って張九齡に、廃立の後に後押しすれば宰相の地位を長く保てると囁かせたが、張九齡は叱りつけ、その言葉をそのまま玄宗に伝えた。玄宗は表情を改め、張九齡の在任中はついに太子を動かさなかった。

十一月 李林甫による排斥工作

  • 李林甫は蕭炅を戸部侍郎に引き立てた。蕭炅は学問が浅く、かつて「伏臘」を読み誤って嚴挺之に嘲られ、張九齡がそれを聞いて岐州刺史へ出したことがあった。
  • 李林甫はそのため嚴挺之をも怨んでいた。張九齡は嚴挺之を宰相に引き上げようとし、李林甫の門を一度訪れて親しくしてはどうかと勧めたが、嚴挺之は気位が高く、ついに行かなかった。
  • 嚴挺之は、前妻が再嫁した王元琰の汚職事件に際して弁護に動いた。李林甫はこれを禁中で言い立て、玄宗に罪人への私的請託だと思わせた。
  • 玄宗は、これまでの件もあわせて裴耀卿・張九齡が徒党していると見なし、壬寅、裴耀卿を左丞相、張九齡を右丞相として政務から外し、李林甫を兼中書令、牛仙客を工部尚書・同中書門下三品として、朔方節度使はそのままとした。
  • 嚴挺之は洺州刺史に左遷され、王元琰は嶺南へ流された。

李林甫政権の性格

  • 玄宗即位以来の宰相は、それぞれ通達・法制・吏治・文章・倹約・直言など長所があったが、張九齡が罪を得てからは、朝廷の士人は身を守って官位を保つことばかり考え、直言しなくなった。
  • 李林甫は諫官たちを呼び、「明主のもとでは群臣は帝意に従うだけでよい。立仗馬のように、一声いななけば追われる」と諭した。
  • 補闕の杜璡が上書して直言したところ、翌日には下邽令へ出され、以後、諫争の道は絶えた。
  • 牛仙客は李林甫に引かれて宰相となったが、ただ唯々諾々と従うだけだった。
  • ただし二人とも形式や法令自体は守り、百官の昇降は概して前例通りだった。だが、特異な才能や高い徳行があっても通常の昇進を外れることは難しく、逆に巧みに媚びる者には別の抜け道があった。
  • 李林甫は表向きは甘言で人を懐柔し、実際には陰で害し、皇帝に厚遇される者とまず親しくなってから、勢いが増すと計略で排除した。