資治通鑑唐紀二十九 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 十九年 731年
正月 王毛仲の誅殺
- 正月壬戌、玄宗は王毛仲の不忠と怨望だけを理由として瀼州別駕に左遷し、葛福順・唐地文・李守徳・王景耀・高広済も遠州の別駕へ落とした。毛仲の四子も遠州参軍となり、連座者は数十人に及んだ。
- 毛仲は永州まで行ったところで追って自殺を命じられた。
- これ以後、宦官の勢力はかえっていっそう盛んとなり、とくに高力士が玄宗の絶大な信任を得た。
- 玄宗は「高力士が宿直していれば自分は安眠できる」と語り、上奏はまず高力士に見せてから御覧に供し、小事は高力士がその場で裁決することもあった。
- 程伯献・馮紹正ら高官が高力士と兄弟の契りを結び、養母の麦氏の葬儀では肉親以上に号泣した。
- 高力士の妻の父である呂玄晤も少卿に抜擢され、子弟は諸王府の傅となった。呂氏が死ぬと朝野の弔問が絶えなかった。
- ただし高力士自身は慎み深く恭敬であったため、玄宗の信任は最後まで衰えなかった。
吐蕃への使者と経書下賜問題
- 辛未、鴻臚卿の崔琳を吐蕃へ派遣した。崔琳は崔神慶の子である。
- 吐蕃の使者は、金城公主のためとして『毛詩』『春秋』『礼記』の正本を求めた。
- 于休烈は上疏し、漢が近親の東平王にさえ『史記』や諸子を与えなかったのに、まして吐蕃は仇敵であり、兵法や権略を知ればますます変詐を生むと反対した。
- しかし裴光庭らは、吐蕃は愚昧ながら新たに服属してきたのだから、詩書を与えて教化の端緒とすべきだと主張した。
- 玄宗はこれを可とし、経書を与えた。于休烈は于志寧の玄孫である。
三月 親耕と武成王廟
- 丙子、玄宗は興慶宮の傍らで自ら耕し、三百歩を終えた。
- 突厥左賢王の闕特勒が死ぬと、弔書を賜った。
- 丙申、初めて両京と諸州に太公廟を置き、張良を配享し、古名将十人を十哲として祀らせた。二月・八月の上戊日に祭ることとし、孔子廟と同格の礼式を整えた。
- 司馬光は、文と武は本来切り離せず、礼義を先にして勇力を後にするのが学の本旨であって、孫武・呉起以下を孔門の十哲に対比するような祀り方は不当だと強く批判している。
五月 五岳真君祠
吐蕃との互市
- 秋九月辛未、吐蕃は宰相の論尚它硉を派遣して入朝し、赤嶺での互市を願ったので、これを許した。
東都行幸と張審素の冤獄
- 冬十月丙申、玄宗は東都へ行幸した。
- ある者が巂州都督・河中解県出身の張審素を贓汚で告発したため、監察御史の楊汪を派遣して調べさせた。
- 総管の董元礼は兵七百を率いて楊汪を包囲し、告発者を殺したうえで、審素を善良と奏すれば生かし、さもなくば殺すと脅した。
- そこへ救兵が至り、董元礼は討たれたが、楊汪はかえって張審素が反逆を謀ったと奏上した。
- 十二月、張審素は斬刑となり、家は籍没された。
洛水浚渫
- この年、苑中を流れる洛水の浚渫を六十日行って中止した。