資治通鑑唐紀二十九 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 十七年 729年

二月 三月 西南蛮・吐蕃への勝利

  • 二月丁卯、巂州都督の張守素が西南蛮を破り、昆明・塩城を奪った。殺傷・捕虜は一万に達した。
  • 三月、瓜州都督の張守珪と沙州刺史の賈師順が吐蕃の大同軍を攻め、大勝した。

石堡城奪取

  • 甲寅、朔方節度使の信安王李禕が吐蕃の石堡城を攻め落とした。
  • 吐蕃は以前に石堡城を奪って兵を置き、河西方面を悩ませていたため、玄宗は河西・隴右諸軍と協議して奪還を命じていた。
  • 諸将は、石堡城は険しく遠く、攻めて失敗すれば撤退も困難だとして慎重論を唱えたが、李禕は聞き入れず、深入りして急攻し、ついに攻略した。
  • さらに要地に兵を分けて守らせたため、以後、河隴諸軍は千余里にわたり遊撃・開拓を進められるようになった。
  • 玄宗は大いに喜び、石堡城を振武軍と改称した。

科挙制度への提言

  • 丙辰、国子祭酒の楊瑒が上言した。明経・進士の合格者は毎年百人を超えないのに、流外からの出身者は毎年二千人以上で、学業に励む者が胥吏より出世しにくいのは儒風の衰退につながると論じた。
  • また、明経試験は本来の大義や文意ではなく、難解な断句や年月日の丸暗記ばかりを問う傾向があるので、今後は平易な本文を基礎に試験すべきだと求めた。
  • 玄宗はこの意見をもっともだとした。

四月 禘祫の改正

  • 四月庚午、太廟で禘祭を行った。
  • 唐初以来、祫祭では昭穆の順に並べて祭り、禘祭では各室ごとに祭る方式だったが、太常少卿の韋縚らは、それでは通常の常饗と変わらないとして、禘祫ともに昭穆を序列して祭るべきだと奏請した。
  • 詔でこれに従った。韋縚は韋安石の甥にあたる。

按察使の復置

  • 五月壬辰、十道と京都・両畿に按察使を復置した。

宰相交代

  • 張説・張嘉貞・李元紘・杜暹が相次いで用いられるなか、源乾曜は清慎を守って自らは前に出ず、ただ承認するのみであった。
  • しかし李元紘と杜暹は政事でしばしば意見が衝突し、互いに上奏して非難しあったため、玄宗は不快に感じた。
  • 六月甲戌、杜暹を荊州長史、李元紘を曹州刺史に左遷し、源乾曜から侍中の兼務を解いて左丞相にとどめた。
  • かわって戸部侍郎の宇文融と兵部侍郎の裴光庭を、それぞれ黄門侍郎・中書侍郎として同平章事に任じ、蕭嵩は中書令を兼ねた。

王毛仲と葛福順

  • 開府の王毛仲は龍武将軍の葛福順と姻戚関係を結んでおり、玄宗の信任が厚く、北門の将たちは多く彼に従っていた。
  • 吏部侍郎の斉澣は、葛福順が禁兵を預かる立場で毛仲と結びつくのは危険であり、毛仲は小人物なので、寵愛が過ぎれば姦邪を生むと諫めた。
  • 玄宗はいったんはその忠を喜んだが、斉澣が餞別の席でこの進言を麻察に語ったため、麻察が告発した。
  • 玄宗は、斉澣が「密を守れ」と言いながら麻察に漏らしたことを怒り、また麻察がもともと行状のよくない人物だとも責めた。
  • 七月丁巳、斉澣と麻察はともに、将相を離間させ君臣を乱したとして、高州・潯州の末官へ左遷された。

千秋節の創設

  • 八月癸亥、玄宗は誕生日に花萼楼下で百官を宴した。
  • 左丞相の源乾曜、右丞相の張説ら百官は、毎年八月五日を千秋節として天下に布告し、ことごとく宴楽を行わせるよう上表した。
  • まもなく社日も千秋節へ移された。

張嘉貞の死

  • 庚辰、工部尚書の張嘉貞が死去した。
  • 張嘉貞は財産経営を好まず、良田や屋敷を買うよう勧められても、宰相にまでなれば寒さや飢えの心配はなく、もし罪を得れば田宅があっても無益だと答え、むしろ大きな資産は子弟の遊興のもとになるだけだとして退けた。人々はこれを是とした。

私鋳対策

  • 辛巳、民間の私鋳銭が多かったため、銅・鉛・錫の私売買を禁じ、銅器の製造も制限した。採掘されたこれらの金属は官が買い上げることにした。

宇文融の失脚

  • 宇文融は機敏で弁舌も立ち、財賦の運営で玄宗に取り立てられ、各種の使職を広く置いて徴収を強めたため、百官は次第に本来の職掌を失い、玄宗の奢侈心も強まった。民衆はその負担に苦しんだ。
  • 融は粗雑で多弁、自らの功を誇る人物で、「自分が数か月この地位にいれば天下は治まる」とまで語った。
  • 信安王李禕が石堡城奪取の功で寵遇を受けると、宇文融はこれを妬み、御史の李寅に弾劾させようとした。
  • その計画が漏れ、李禕が先に玄宗へ訴えたため、李寅が奏上したとき玄宗は怒った。
  • 九月壬子、宇文融は汝州刺史に左遷された。宰相在任は百日足らずであった。
  • 以後、財利の議論で立身を図る者は、みな宇文融を祖とするようになったと評された。

冬 宇文融の再追放

  • 十月戊午朔、日食があったが、欠け方は鉤のようで全部は欠けなかった。
  • 宇文融が失脚したのち、国用不足を感じた玄宗は再び彼を思い出し、裴光庭らに、融を悪しざまに言って罷免したが国費不足をどうするのかと問うた。裴光庭らは恐れて答えられなかった。
  • その折、宇文融の贓賄を告発する飛状があり、さらに平楽尉へ左遷された。
  • 一年余り後、司農少卿の蔣岑が、宇文融は汴州にいたとき官銭巨万を隠匿していたと奏し、徹底調査ののち、巖州への流罪となったが、道中で死んだ。

五陵巡拝と減税

  • 十一月辛卯、玄宗は橋陵・定陵・献陵・昭陵・乾陵を巡拝した。
  • 戊申、還宮し、天下に赦を行い、その年の地税を半分免除した。

年末の温泉行幸

  • 十二月辛酉、玄宗は新豊温泉へ行幸し、壬申に還宮した。